第二十五話
待ち望んだ風の強い夜。角笛岬からは、高くヒューヒューとした風の音が流れている。
リット達は砂浜のあばら小屋に身をひそめていた。
「なぜこんな狭い家に隠れるんだ?」
エミリアが体の熱を冷ますように、熱い吐息を漏らしながら言う。
「他に隠れるところがないからだ。それとも砂の中にでも埋まるか?」
鱗に包まれた人魚の左足は平気だが、人間の右足では尖った岩礁の上では痛い。
しばらく音が漏れにくい岬下の岩礁でハープを弾いて、一休みしに来る砂浜で目当ての人物を待ち構えることにしていた。
狭い小屋の中でかく汗と、壁の隙間から入ってくる海水の飛沫が舞い混じった風が肌をベタつかせる。
「でも、全員がこの小屋にいる必要はないと思うのだが……」
リット、ノーラ、エミリア、ハスキー、パッチワークの五人が隠れた小屋の中は、誰かが息を吐く度に肌に当たるほど、ぎゅうぎゅう詰めになっている。
「そう思うなら入ってくるなよ。オレが最初にこの小屋に隠れたんだぞ」
「私が隠れた時は、まだ余裕があったんだ」
「ならせめて獣人二人は遠慮しろよ。他にも小屋はあるだろ」
リットはパッチワークの蒸れた毛を、汚いものでも跳ね除けるように足で押しやる。
「他の小屋はボロボロ過ぎて、灯台の明かりが当たると中が丸見えニャ。まともに隠れられる小屋が、これしかないのニャ」
「ノーラとパッチは小せぇんだから、大丈夫だろ」
「捕まえる前にバレても、旦那が怒らないなら私は移動しますぜェ」
ノーラはリットの服に額を擦り付けて汗を拭きながら言った。その乱暴な動作からは、この小屋の中にいるのが、うんざりとしてるのがわかる。
「オレで汗を拭くなよ……。雑巾代わりにちょうど良い奴が二人もいるだろ」
「二人共手で毛を握ったら、絞れそうなくらい汗かいてるんスよ」
「……ご希望とあらば身震いして毛を乾かすニャ」
「この狭い小屋の中でそんなことしたら、二度と出来ねぇように毛皮を剥ぎとるぞ」
リット達にイライラが溜まり始めた頃。
やがて、角笛岬から流れてくる風の音に音楽が混ざり始めた。意識すればするほど、しっかりとした音楽に聞こえてくる。
いつかマグニが弾いていた『波綾のノクターン』とは違う曲だ。
遠くから風の音に遮られながら、途切れ途切れに聞こえてくる中途半端な音楽は、煮立った鍋のようにむしゃくしゃとした気持ちを沸き立たせた。
リットが苛立ちの間に「早くこっち来い」という言葉を挟ませていると、念が通じたのか、風に音楽が紛れなくなった。
そして、しばらくすると水から這い上がる音が聞こえた。
リットはあばら小屋の隙間に目を押し付けるようにして、外の様子を伺った。
音の主は、ふらふらとした危なげで頼りない影を引き連れていた。
砂浜の波にさらわれない場所まで歩いてくると、月が隠れたり見えたり雲に遊ばれているのを眺めながら、足を組んで砂浜に腰を下ろしていた。
不自然にブラブラした足の影は、先が二つに割れ広がっている。
じっくり砂浜に腰を据えるのを見計らうと、リットは狙いを定めた獣のように小屋から飛び出した。
音の主は、乱暴にドアが開く音と、砂の上を駆ける音にすぐに反応したが、片足は陸の上では役に立たない尾びれの為、立ち上がる頃にはリット達に周りを囲まれていた。
リットの考え通り、砂浜に人魚が出るという噂の正体は、人魚と人間のハーフだった。
太ももが見えるほど短い膝上丈のパンツから人間の生足がスラリと伸び、尾びれの左足は付け根が見えるほど大胆にパンツの丈が引き裂かれている。
「イサリビィ海賊団の船長だな?」
リットは確信を持って言った。
貴婦人が着るようなフリル付きの亜麻布のシャツの上に、丈の短い紺色のオーバーコートを羽織り、オーバーコートの上からベルトを締めている。
さらにベルトからは、宝石だらけの使い勝手が悪そうな短剣をぶら下げていた。
頭には貝殻と珊瑚の装飾品が付いた三角帽。右足は踵が高い黒のブーツを履いている。
バラバラのセンスをかき集めたような服装は、いかにも他人から奪って身に付けたといった感じだ。
「……海軍か?」
ターコイズのような色をした左目に警戒心を滲ませている。右目は、海底のような深い青髪が覆い隠すように重く伸びているせいで見えなかった。
「そう見られるとは思わなかった。オレにも誠実さが残っていたか」
「違う、オマエじゃない。後ろの女を見て言ったんだ」
「……あっそ。えっと……確かセイリンって言ったか?」
リットは海賊の一人が言っていた名前を思い出しながら言った。
「オマエは誰なんだ? 怪しい奴だ」
見知らぬ男に名前を呼ばれたせいで、セイリンは身構えた。
「そりゃ、お互い様だ。そっちも人目を忍んでる時点で十分怪しい奴だろ」
「……過去の恨みでも晴らしに来たか?」
セイリンは短剣に手を掛けリットの首筋に狙いを定めるが、それより早くエミリアが抜刀して構えた。
リットはエミリアがいる安心からか、余裕綽々と話を進める。
「残念ながら初対面だ。部下の茹でダコとは会ったことあるけどな」
「アリスか……。ならなんだ。要件を言え」
鞘から放たれた灯台の光を反射するエミリアの刃の光に怯みもせずにセイリンは言った。
「アンタの海賊団に入りに来たんだ」
セイリンは目をまん丸にしてリットを見た。そして、頬をつり上げ、鼻をひくつかせ、顔中に笑う準備を整えてから、急に弾けるように大笑いを響かせた。
「含みのある男に、剣をチラつかせる女。ちんちくりんの子供。それに猫と犬。うちはサーカス団じゃないぞ」
笑い転げるセイリンを見て、リットは舌打ちを鳴らした。
「オマエらのせいで笑われた」
「旦那も愉快なサーカス団の中に入ってるんスよ」
「愉快なのは、ノーラの頭の中だけで充分だ。――でだ、一笑いしたら満足したろ? さっそく海賊船に案内してもらいたいんだが」
「答えはノーだ。仲間に入れる意味も理由もない」
セイリンは肩をすくめた。
「こっちもノーだ。オレには意味も理由もあるんだよ」
「生憎人手は足りてる」
「でも、足は一本足りねぇだろ」
リットの言葉にセイリンは鼻で笑い返すと、傍らにあったマーメイド・ハープを手に取って立ち上がった。
「さぁ、通してもらおう。私が帰らなければ、そのうち仲間が探しに来る。この村が火の海になるのは見たくないだろ?」
セイリンは不敵に笑う。
「やはり、リットではダメか。私が話そう」
エミリアがセイリンと交渉しようと一歩前に出るが、リットが手を伸ばして止めた。
「いいや、エミリアがいるからダメなんだ。ちょっと二人きりで話そう」
リットはセイリンの肩を掴むと、小屋まで引っ張る。
突然のことにセイリンはバランスを崩し、片足のままでは為す術もなくされるがままになっていた。
セイリンを小屋の影まで連れて行くと、リットはセイリンの顔を覗き込むようにしゃがんだ。
「オレ達を仲間にしないと、ちーっとばかし厄介なことになるぞ」
「今既に厄介なことになってるな。――が、問題は簡単だ。殺せば解決する」
セイリンは長く伸びたまつげの間から鋭い眼光を光らせた。そして、二人きりになったのがチャンスとばかりに短剣に手を掛ける。
「この紙をバラ撒くぞ」
リットは鞘から短剣が抜かれる前にポケットから紙束を取り出し、その中から一枚取ってセイリンの体に落とした。
セイリンは胸元に落ちた紙を拾い上げると、一瞬表情を変えたが、すぐに取り繕うように笑みを浮かべた。
「勝手にしていい。勝手に船が寄ってきて、獲物が増える」
「バラ撒くのは人間にじゃない。――人魚にだ。ここで断ってもバラ撒くし、船に乗った後にオレ達をどうこうしようとしてもバラ撒く」
セイリンは緊張で口の中に溜まった唾を飲み込むと、侮蔑するような表情でリットを睨む。
「……この人でなし」
「オレが人でなしなら。お仲間だろ?」
「……人間は海に沈めれば簡単に死ぬ」
「夏が終わって、一度もオレ達が帰って来なかったらバラ撒くように言ってある。あそこの猫の獣人にな」リットは肩越しに顎でパッチワークを指す。「アイツはドゥゴングに顔が利くぞ。それに、オレの知り合いの人魚の居場所も教えといた。――恥をかきたくないだろ?」
セイリンは慎重に言葉を探す。なかなか次の一声が出なかったが、一度鉄の玉でも飲み込むように唾を飲み込むと、おもむろに口を開いた。
「……なんの為にわざわざ海賊船に乗る」
「欲しいものがあるからだ。イサリビィ海賊団を国に売るつもりもねぇし、船を乗っ取るつもりもねぇ。ただ仲間にしてくれるだけでいい。欲しい物が手に入ったら、さっさと船を降りてやるよ」
「勝手なことを言って、勝手に仲間になろうとする男のことを信用しろと?」
「別に信用しなくていい。言うことを聞いてくれりゃぁな」
「賊のような男だな」
「良かった。オレには海賊の才能があるらしい」
セイリンは煙を吐くような長い息を吐いて考える。
落ちた三角帽を拾って砂を払う。そして、思い立ったように三角帽をかぶった。
「一番下っ端からだ。そうじゃないと部下に示しが付かない。条件を飲まないなら、交渉は決裂だ。例え、私が世界に恥を晒すことになってもな」
「かまわねぇよ」
リットは残りの紙束をセイリンに投げ渡した。
セイリンは紙束をめくり内容を確認すると、こぼれ落ちないように大事に懐にしまった。
「人魚の弱みをよく知っている奴だ」
「知り合いがいるからな。まぁ、そのうちその紙も自分でバラ撒きたくなるだろ」
「運が良かったな。私がハープの練習中でなければ、海にバラ撒かれるのはオマエだった」
そう言ってセイリンはリットに向かって手を伸ばす。
「なんだ? その手は」
「私の仲間になるんだろ? 私を立たせろ。そして、肩を貸せ。陸では上手く歩けない」
「……面倒くせえ体だな」
リットはセイリンの手を掴むと、引っ張りあげた。
そして、セイリンがリットの肩に手を回すと、その手にはいつの間にか短剣が握られていた。
刃はリットの首元に突きつけられた。
冷たく硬質で鋭い感触が広がると、全身毛穴から汗が吹き出すように一気に体が熱くなり、急激に冷えていった。
セイリンは耳に唇が付きそうなほど近づけると、愛の言葉をつぶやくように甘い声で囁く。
「海賊の船長を脅した罪は重いぞ」
「……交渉は成立じゃなかったのか?」
リットは自分の身震いで刃が刺さらないように、懸命に押し殺している。
「成立だ。ただ脅されっぱなしは性に合わない。怯え顔は可愛いじゃないか」
セイリンは満足気に悪戯な笑みを浮かべると、短剣を鞘に納める。
「そういうことしてオレが漏らしたら、オマエの足にもがかるんだぞ」
「よく、我慢したな。偉いぞ」
「……もうちょっとオレが優位に立ってから、紙束を渡せばよかった。これからもオレが漏らすようなことするんじゃねぇだろうな」
「安心しろ。漏らしたら、この紙で尻でも拭いてやる」
「それは、交渉成立したと見ていいのか?」
肩を組むようにして戻ってきた二人に、エミリアが聞いた。
「まぁな、これではれてオレ達は海賊だ」
「そうか……」
エミリアの声は明らかに落胆していた。
「漏らしそうになってまで交渉したんだから、もっと嬉しそうな顔をしろよ」
「私には、なぜリットがそんな乗り気なのか方が不思議でしょうがない」
当然目的は龍の鱗なのだが、リットにはもう一つ目的があった。
商船を狙う海賊になれば、世界中の酒を手に入れられるからだ。
それにイサリビィ海賊団は半ば容認されているような存在だ。誰に気兼ねすることもなく、存分にイサリビィ海賊団方式で取り引きすることができる。
こんなことを正直にエミリアに話すわけにいかず、リットは適当な言葉で濁した。
エミリアは誤魔化しに気付き何か言いたそうな視線を送っているが、リットはだんまりを決め込む。
その間セイリンは、この場にいるメンバーを見渡していた。
「そこの猫と犬はダメだ」
セイリンがハスキーとパッチワークの二人を除外すると言うと、エミリアの視線から逃れるためにリットが食い気味に答える。
「最初から連れて行く気はねぇよ。パッチを見た途端アンタの海賊団が逃げていったからな」
「人魚やスキュラの天敵とは言え……情けない……」
セイリンは部下の不甲斐なさに頭を抱えた。
「セイリンは大丈夫なんスか?」
ノーラがセイリンの足を見ながら言う。セイリンの尾びれは普通の人魚よりも細く、人間の脚の太さと同じだった。
「私はハーフだからな。純粋な人魚やスキュラほど恐怖心はない」
「つーか、いつまで人の肩につかまってんだよ」
「長居するつもりはなかったから、杖を持ってこなかった。女に寄り掛かられているんだ。悪い気はしないだろう」
「人の首元に短剣を突きつける女にか? それで良い気がしてたら変態じゃねぇか」
リットはセイリンの腕から抜けると、その腕を強引にエミリアに押し付けた。
「短剣? 交渉は上手くいったんじゃないのか?」
「交渉は成立している。私は脅された分を脅し返しただけだ」
「脅した?」
エミリアが睨んできたので、詮索される前にリットは話題を変えた。
「で、船はどこあるんだ?」
「近くにはない。……四半日泳げるか?」
「……泳げると思ってるのか?」
「なら、明後日の昼に近くまで迎えに来る」
「本当に来るのか?」
「来るさ」セイリンはエミリアの肩から手を離すと、またリットの肩に手を回して、耳元で囁いた。「――だから、あの紙はバラ撒くな」
セイリンはリットの胸元を人差し指の先で突いて念を押す。
まるで、約束を違えたら心臓を撃ち抜くぞと言われているようだ。
「先に約束を守ったらな」
「そっちの目的など詳しい話は船の中で聞かせてもらう。遅れず用意しておけ」
セイリンはマーメイドハープを小脇に抱えると、ヨタヨタと砂浜を歩き、海へと飛び込んで姿を消した。
そして、約束の二日後。
空には入道雲の山を登るようにカモメが飛び、丸みを帯びた穏やかな波が砂浜に打ち寄せている。
シッポウ村の静かな海辺にドクロの旗が揺らめいていた。




