3-3
ライがネフィーの外套を着込んだところで、状況確認ということで三名の意見が合致した。
負傷していたライに気を取られて、ネフィーとしたことが周囲の状況確認を怠っていたのである。たかが知り合って数時間の男に注意を削がれるなど、まったくもって彼女らしくもない。忌々しい気持ちで舌打ちしつつ、彼女は立ち上がった。
先ほど落ちてきたはずの頭上を見上げて、ジアは困ったと言いたげに三回転を決める。
「僕らは未踏査域にはあんまり詳しくないんだけど……ねぇネフィーちゃん」
「ちゃん付けやめて。気色悪い」
「……ネフィー、未踏査域って……こんなのはよくあることなの?」
ジアが指(実際は丸まった手先)で差したのは、『綺麗に穴の塞がれた』天井だった。落ちてきたはずの螺旋階段付近のメレジ岩石ではなく、光沢があり乳白色に近い色の壁である。人が落ちてこられる穴どころか、蟻一匹巣食うほどの隙間もないそれを見て、ネフィーはこくりと頷いた。
「多分、強制転移。ソナの情報には無かったから未発見だと思う。まぁ明らかに罠でしかない色違いの床を踏むような間抜け、誰かさん以外はいないでしょうし」
「き、気付かなかったんだから仕方ないだろ! な!?」
「いやあれはさすがに気付こうぜ……」
「言い訳無用」
ばっさりとネフィーもジアも切り捨て、がくりとうなだれるライを尻目に、ジアは更に質問を重ねる。
「えっと、トラップリンク? って?」
「……どこに移動するか分からない断術で辿り着くエリアのこと。あの罠自体が転移断術の起動スイッチになっていて、全く別のどっかにあたし達は飛ばされたって言うこと」
「うわぁ、それつまり」
「完璧な迷子よ。どっかの誰かさんのせいで」
「……うぐ」
気まずそうに視線を逸らし額に冷や汗を浮かべる誰かさんを、じとっとした目で眺めるネフィーとジア。一見愉快そうにも見えるこの場面だが、状況は切迫している。
そもそも挑戦者ですらない開錠士と医者(自称)、そしてぬいぐるみのパーティが未発見エリアに迷い込んだのだ。現在位置を確認する術は一切無し。救援など見込めるはずもない。
迷子、というよりはむしろ遭難が近い。生還することがまずは最優先課題となる緊急事態である。
しばらく絶対零度級の冷たい視線を投げ続けたネフィーは、しばらくして面倒くさそうにため息をついた。シャン、と長杖を鳴らして、改めて周囲を見渡し、
そして、震えた。
「――なに、ここ……」
そこは、死んだ街だった。
濃密でじっとりと気持ちの悪い白霧が視界を埋め尽くし、その霧の向こうにちらつく影は紛れもなく建造物のそれ。霧向こうの建物はまるで陽炎のようにとめどなく、視界に映る景色が、果たして本物なのか偽物なのか、境界線が曖昧になる気がした。
一体この街で過去に何が起きたのか知らないが、見え隠れする街並みはどこを見ても荒れ果てていた。傾いた金属扉、ずり落ちた看板、粉々に砕け散った硝子窓、蔦に侵食された白亜の壁。どれ一つとして街が街であった頃のままの姿の物は存在していない。まるで誰かが意図的に全てを破壊したかのように、どこかしらが、壊れている。
死に絶えた街。
生きる者が存在していることが既に異質な、死の街だった。
「……うひょー、なんだ、これ」
字面の上では能天気な台詞。だがライのその声にはこれまでなかった、畏怖めいたものが伺い知れる。それもそうだと言えるかもしれない。骸ひとつ転がっていないとしても、この街はどうしようもなく――死んでいたのだ。
全てが終わったこの街に、息づく気配は何もない。
人も、鳥も、虫も、獣も、挙句の果てには植物ですら、何も。
ネフィーは知らず、ぽつりと呟いていた。
「……廃墟区」
「ルイン? ……って、」
「未踏査域で稀に見つかる事があるっていう、古代文明の遺構の街がまるごと残る地区のことよ。大概は〈怪物〉に荒らされて見る影もなくなるんだけど、……ここは」
今まで見たことがないほどに、保存状態が良い。この街を荒らして殺したのは自然の猛威それだけであり、生物の意図はそこに掠ってすらいないように見える。
時のままに死んだ、いわば、寿命の遺跡。
いずれはこうなるのだと定められた摂理の風景が、霧のヴェールの向こうに在った。
ぞくり、と得体の知れない感覚が背中に這い回った。死の気配に満ち満ちたこの空間に、一瞬で猛烈な嫌気が差す。無意識のうちに足が震えそうになる感覚、めまいのような酩酊感と胸焼けのする嫌悪感。ここにもう一分一秒だっていたくない、と反射的に思考。
ネフィーは、血飛沫と腐臭にまみれるような死の空気が嫌いだった。
己が罪を想起させるそれらが、大嫌いだった。
「……っ、は、」
ぶわぁっと心臓からせり上がった気味悪さが、気道を押しつぶして塞いでしまったような気がした。息が苦しい、呼吸が出来ない、頭が、真っ白になる。意識が遠ざかりかけては、すぐ横に他人がいるのだと馬鹿げた見得が首をもたげて、意識を繋ぐことが精一杯。平静を装って立っているつもりだったが、それも成功しているかどうか。
嫌だ、嫌だ、早くここから出たい。
だから大嫌いなんだ、未踏査域なんて。こんな――こわい、
「ネフィー、大丈夫?」
視界が色を取り戻したその瞬間、目の前で、赤と白が揺れた。
久しく自分に向けられた覚えのない、自分を心配するような光を宿した真っ赤な瞳。そこに、ネフィーのアイスブルーが映り込む。いつもは冷たく怜悧に尖っているだけのそれは、今ばかりはまるで幼子のように怯えた光を宿して、行き場もなさそうに惑っていた。
十五歳の自分ではなく、それは十歳の自分だった。
瞬間的に我に返って、ライの真っ直ぐな視線から逃れるようにフードを深く被り直す。「ちょっと、」と続いた彼の言葉の続きは予想できていたけども、ネフィーはすぃと彼の横を滑り抜けて、乾いた喉から言葉を搾り出した。
「何でもない」
自分でも驚くほど、掠れた声だった。
なんて、見苦しい。こんなの、まるで自白しているようなものじゃないか。
そうは思いつつも、ネフィーは彼に奥歯を噛み締めていることを知られるのを恐れるかのように、宛もなく足早に歩き出した。ここはどこなのかなんて、歩きながら考えればいい。
立ち止まって彼に追いつかれることが、どうしてか途方もなく恐ろしかった。
街の骸には思ったとおり、生きているものは何一つとして存在しなかった。
どうやらここは研究施設の寄り集まった場所であったらしい。あちこちに錆びた金属製の鉄線や金網が張り巡らされていて、所々では散乱し破けた古代の学術書の姿も見える。埃を被って朽ち果てた街の時間は、もうこの瞬間から何も動かないのではないかと――永遠の景色なのではないかと錯覚してしまうほど、時の流れが淀んで現れている。
また、研究施設を護衛するためか、道のそこかしこに大小を問わない機械兵の姿も見た。
ただしどれも既に駆動を停止しており、使い物になるものではない。彼らよりもずっと前に去ったであろう住人たちの身を、その命が途切れる瞬間まで守ろうと努めた護衛兵の残骸は、取り込まれるように朽ちていた。
「……ここは、多分だけど、スタリア関連の研究郡だったんだろうな。さっきからちらほら見かける機械がさ、今とは随分違うけど、どことなく面影がある」
静かな声でそう言ったのはジアだ。
ふよふよと好き勝手に空中を飛び回り、廃墟と化して久しい街を観察していたらしい。
「それも、結構重要な施設だったみたいだ。看板の文字、古代文字だったから読むのは四苦八苦したけど、『立ち入り禁止』の物が圧倒的に多い……スタリアの実験研究にはかなりの危険が伴うからね、分からなくもないかな」
「……ちょっとあんた」
さらっとジアが告げた言葉の中に、なんだかとんでもない物が混ざっていた気がする。ネフィーはほぼ反射のように斜め後ろを飛ぶジアを振り仰いだ。
「今あんた、……古代文字って言った?」
「え、うん。言ったよ」
「なんであんた読めんの」
古代文字は、主に未踏査域の中で発見される文字のことを指す。
昨今では殆ど使われることのない、言わば「死語」。現在のものよりもかなり難解、かつ活用する場面がないので、その存在を知るものすら希薄になりつつあるという。未踏査域に挑む挑戦者たちであっても、古代文字を読み書きや理解できるものは極めて少数であり、それは開錠士にとっても同様。その例を挙げれば、ネフィーは古代語など一単語だって読み取れやしない。
それを、どうしてこの奇怪なぬいぐるみは理解しているというのだろう。
今となってはその文字を知るものは、物好きな学者程度だろうに。
ネフィーが目を尖らせて答えを待てば、ジアは「んー、」と考えるように唸り声を漏らしてから、
「まぁ、年の功かな」
「あっそうジジイ」
「ねぇどう見ても僕ジジイじゃないよね!? 今ボケたつもりだったのに何でそんな辛辣なの!?」
「どう見てもぬいぐるみだから年齢なんか計れないわよ」
「そういう現実的なことを聞いてるんじゃないけども!!」
ちょっと冷たすぎない!? と叫ぶかしましい人形に「うるさい」と吐き捨てて、ネフィーはちらと、ジアのすぐ下を歩くライに視線を送った。
ライはあれから、一度も口を開いていなかった。
まるで何かを思考するかのように口を真一文字に結んで、廃墟に目を凝らしては別の廃墟を見て、更に考え込むような表情をするばかりなのである。
初対面時から馬鹿みたいに楽天的な台詞と機嫌でばかりいたはずのこいつの、そんな変化。
それに、正直ネフィーは大いに戸惑っていた。
もしかして、もしかしてもしかしてもしかして、自分が原因なのではないかと。
いやもしもネフィーの無愛想かつ身勝手な言動が原因だったとしても、本来彼女は何を気にすることもない。それはそうだ、だってあの少年は他人であり、それもただの安全確保のための材料に過ぎない存在である。そんな奴に不機嫌になられようが、嫌われようが何だろうが知ったことではないはずだ。
それなのにどうしてか、気になる。
調子が狂ってイライラする。
ムカつく。
最終的にはネフィーの中で、そのよく分からないモヤモヤは「ムカつく」という怒りに類似した感情であると結論付けられた。
なんだか知らないがムカつく。すまし顔なんて気取りやがって、ヤブ医者風情め。
恐らくライからすれば相当に理不尽であろう言葉がふつふつと脳裏に湧き上がり、それを言ってやろうかと口を開きかけたその瞬間、
「あっ、見てよライ! ここの看板、『薬剤』って書いてある!」
あまりにも丁度いいタイミングで、ジアがそう大声を上げた。
「……ちょ」
「ええええええぇぇっマジ!? 薬剤!? 大昔の薬ッ!?」
「……ねぇ」
「うん、そうみたい! 薬剤……開発所……、薬剤開発所! 薬作る場所だ!!」
「……」
「うぉぉぉすげぇ! なんかすげぇ!!」
完全に置いてけぼりだった。
ライとジアとが物凄い勢いで盛り上がっているのを、ネフィーはただじとっとした目で見つめるだけの現場である。
薬剤という言葉を聞いた瞬間、それまでの深刻そうな表情はどこへやら。ぱぁぁぁぁっと子どもがオモチャを見つけたときのように表情を輝かせるライに、思わずため息が漏れる。
同時に心のモヤモヤが晴れていくような気持ちになった。
あぁ、そうだった、こいつは――真性の馬鹿なのだった。
「……馬鹿につける薬はない、か」
まさにその通りかもしれない。現時点、こうして見ている限りでは、ライの頭のお花畑具合はどうにも治りそうもないように見えた。先人とは偉大な言葉を生み出すものだと一瞬感心し、ネフィーは呆れたように肩を竦める。
と、ここで、彼女を置いてけぼりに勝手に話を進めていたライとジアが、同時に彼女のほうを振り向いた。
「ねぇネフィー、この施設入ってみない?」
「きっと面白いものが見つかると思うんだよね!!」
――そして、とんでもないことを言った。
「……は?」
「いやだから、ここに入ろうって」
何にも考えていないのだとよぉく分かる阿呆面でそうのたまったライは、みるみる馬鹿にするような表情へと眉と口角を吊り上らせたネフィーを見て、ぴたりと動きを止めた。あれ、なんだか怖いぞ、とでも言いたげに顔色を悪くした彼に、彼女は思いっきり蔑んだ笑みを浮かべたまま言う。
「未踏査域で見つけた建造物の中に入るなんて言語道断、死にたがりのすることだっていう常識は持ってる?」
「持ってません!!」
「一旦死んで出直して来なさい馬鹿」
そして遠慮容赦なく切り捨ててやった。
何が待ち受けているかも分からない未踏査域における、廃墟区。そこは探索するにあたり、大いに精神を消耗させねばならない危険地帯であると聞いたことがある。
建物が多く残っているがゆえ、未踏査域のほとんどの領域を占める通路などよりも死角も逃げ場も多く、また潜伏にはもってこいの地形だ。〈怪物〉の中にはこういった場所に身を潜め、獲物を狙う知恵を持つ者がいるのだという。故に、どれだけ手練れの挑戦者であっても、廃墟区の建物内に足を踏み入れるものは殆どいない。どんな挑戦者であれ不意打ちには勝てっこないのだ。
それなのに、入りたいだぁ?
しかもほとんど、ただの好奇心のために。どこまでこいつら――、
「馬鹿馬鹿し」
「いいよ、ネフィーが行かないなら俺は行くから!」
い、と最後まで吐き捨てる前に、赤い少年は少し拗ねたような顔をしてそう言った。
説得放棄とも取れるその言葉に、一瞬ネフィーの気が逸れる。
その瞬間を狙ったかのように、ライは「薬剤研究施設」とされるらしい建造物めがけて――突撃を敢行した。