2-1 拉致
気まずい沈黙が落ちた。
言わずもがな、にこにこと笑い続ける落下者と、そいつを「うさんくさい」と思っていることが剥き出しな瞳で睨みつけるネフィーとの間に、である。
ネフィーの肩口で切り揃えた金色混じりの黒髪を、夏風がさらさらと揺らした。機嫌最悪、といった光を宿す瞳は酷薄なまでのアイスブルー。砂色の外套の下に時折ちらつく水色と白のチュニックローブと、手にした銀の長杖。寒々しい冬を思わせる寒色ばかりの服装の彼女は、普段通り機嫌が悪く視線までもが冷たい。
対して、ネフィーの目の前に立つ落下者、もとい少年は、この時期に見るには暑苦しくさえ思える暖色の装備でまとめられていた。奇怪な髪色である。赤銅色と、まっさらな白髪とが入り乱れるような色だった。地毛はどちらなのか知らないが染めているのかもしれない。無邪気な輝きを湛える瞳は真っ赤で、それに合わせたように身にまとっている赤いシャツが目に痛かった。
黒と赤色しかない服装で、肩には紐で閉じた平均よりもかなり大きい麻袋を引っ掛けていて、恐らくそれが彼の荷物なのだろう。軽装で武器らしきものは見当たらない。
まるで真逆な色合いの二人であった。
その姿はかなり通行人の目を惹き、頭上でルルバに乗り込み落下の一部始終を見ていた住人達も、呆然と彼らを見下ろしていたのだが、それに二人は気付いていなかった。
しばらくして、ネフィーが億劫そうではあったが口を開いた。
「ルルバから落ちるって、あんた何者なのよ」
少年はうぅん、と少し迷ったような素振りを見せたあと、更に怪しさ全開の受け答えをする。
「何者、って言われると医者って答えたいところなんだけどね。最後に患者を診たのは二カ月前だから、ここは旅人とでも言っておこうかな!」
「……医者ぁ?」
訝しむような声を上げ、ネフィーは呆れたと言いたげにため息をついた。
何をバカなことを言うのか。ルルバから誤って落ちるような、スタリア操作もロクにできない奴が、開錠断術には及ばないにせよ高難易度断術である「怪我を治す術」治療断術など使えるはずもないというのに。
とんだ大ホラ、できの悪い嘘だ。
そしてネフィーは知っている。
彼女の経験上、完成度の低い嘘をつく人間には、マトモな奴がいないということを。
目の前の少年の髪色を筆頭とした異様な出で立ち、雰囲気、そして言動に面倒事の気配を敏感に察知した彼女は、これ以上こいつと関わるのは止めたほうがいいと理性が警告するのを聞いた。その勘が外れたことは今まで一度もないし、彼女はその勘に何度も救われてきた。ここでそれを信じない道理はない。
だから、余計な事態に巻き込まれる前に逃げてしまおうと踵を返しかけたそのとき。
「っ、だから言っただろうがバカライぃ!? 『死ぬところだった!』じゃないっしょ! なに爽やかな笑顔なんだろどうせ!? 自覚あるならこういう危ない真似やめてくれないかな!?」
と、少年のものではない声がして、ネフィーは思わず足を止めた。
それは断術行使直前、少年の上げた長く情けない悲鳴に叱咤を入れ、「助けてくれ」と叫んだその声だったからだ。うるさいなぁという意見が先だったネフィーだが、次に気付いた事実にはさすがに立ち止まらずにはいられなかったのである。
ネフィーが風の断術で助けたのは、『ひとり』だったはずだ。
『ひとり分』の人影を『ひとり分』ほどの領域の断術で受け止め、そして少年は『ひとり』でネフィーの前に立った。そう、ネフィーはひとりしか姿を見ていない。
だのに、声は『二人』分、しっかり彼女の耳に聞こえている。今お小言を言った声は少年の明るく硝子玉の跳ねるような声ではなく、それよりも少し低い知性的な雰囲気漂う青年くらいの声で……、少年が曲芸師でもない限りは確実に同一人物ではないと、思うが。
だとすれば、じゃあこの声の主は誰なのか……?
厄介事だと分かっているのに、彼女は背後を振り向くかしばし戸惑った。予想以上に予想外の状況に動揺していたともいえよう。姿の見えない第三者がこの場にいるというその事実は、決して彼女が得意なわけではない霊魂の類をも連想させて、だが珍しく好奇心も湧いてきて。
振り返るのを躊躇っている間に、少年が不満そうな声を上げた。
「いいじゃんジア、助かったんだからさ~。やっぱ俺はここで死ぬような人間じゃないんだって。俺にはやらなきゃならないこともあるし、きっとやれることもたくさんあるから、神様が俺に生きるべき偶然をくれるんだよ。だからこの娘に助けてもらえたのも、神の思し召しって奴さ」
「キミその身の上でなんで神を信奉できるのか、本気で疑問だけどね……助かったのは確かだけどさぁ」
「それに俺乗りたくてアレ乗ったんじゃないぞ? 客引きのおっさんに『名物なんだから乗ってけ!』って無理矢理乗せられただけでさ……そもそも自分から乗りに行くわけねーじゃん、この俺が」
「そのあたりのキミの行動は正直信用してないから、落ちるっていう無様な姿をさらしてでも乗っちまう可能性を僕は心配してたんだけど」
「信用薄すぎないか!? もう五年の付き合いなのに! ひどいよジア!」
「うっさいな、ライはもう少し自分の行動を省みろっての!」
やかましい会話。普段なら話しているのが誰であろうと雑音と受け流すそれ。でもその一部が引っ掛かったと思って思考を回せば、ネフィーは別のことに思い当たって更に戸惑いを深めた。
ルルバから、落ちる。
それは絶対に有り得ないことではなかったか。
人の体内に生まれた瞬間から存在し続ける断術の源、スタリアの持つ引力性により保証された、ルルバ搭乗時の安全性は鉄壁だ。そのことに、それこそ彼女は少年たちが落下してくるほんの数秒前まで思いを馳せていたはず。人の一生の中で最もスタリアの力が弱い、生後一分未満の赤ん坊ですら落下できないルルバとスタリアの相引力は完璧のはずなのだ。数十年をかけて行われたあらゆる実験は、どれも成功したと聞く。
表沙汰はもちろん、裏事情に精通した情報屋も言っていたこと、それが嘘だとは思えない。すべて安全に保たれてきたからこそ、ルルバは全幅の信頼を置かれて世界各地で運用されているのだ。
――それなのに、今ネフィーの後ろで景気良く笑う少年は、そのルルバから落ちてきた。
面倒事だの厄介事だの、そんなことは頭から消し飛ばされていた。ぐるっと勢いよく少年を振り返り、彼の腕を逃げられないようにがっちりとつかむ。少年は目を白黒させたかと思うと、当然戸惑いの声を上げた。……さっきの声の主らしき人物は、やはりどこにもいない。
「……はれ? えっと、君、これはどういう」
「いいから付いてきなさい」
「え、ちょっと待って、俺は心に決めた人が」
「なに気色悪い勘違いしてるのぶっ殺すわよ」
「ハイッすみませんでしたぁッ!」
即答だった。
瞬間的にその場に居直るそいつの腕を取ったまま、ネフィーはずんずん歩き出した。外套を被り直して顔を隠しながら、彼女はちらりとされるがままに引きずられる少年を盗み見る。
ひどく困った顔ではあったが、能天気な緩い表情だった。
路地裏を更に奥に進んでいく。
謎の少年を引き摺り回し始めたのは北西だが、今歩いている場所は北西地区の中でも奥まった場所だ。バデニッシュで最もさびれた、掘っ立て小屋同然の、木や板で組まれた建物とも言い難い造形物が立ち並ぶ地区である。
少年は最初のうちは「ねぇあの君ー、これはなに、新手の告白なの?」とか「誘拐してまで愛を語られても」とか心底気持ちの悪いことばかり言っていたが、苛立ったネフィーが無言で立ち止まって、男の急所を思い切りを蹴り飛ばしたらそれ以降は静かに沈黙した。
やっぱり効くらしい。太古からの知恵とは大事なものよね、と多分一般的にはズレた方向性で知恵の大切さを学んだ彼女は、後ろが静かになったお陰でご満悦の機嫌のままでいた。
とはいえ、普段から不機嫌そうなネフィーのご機嫌など分かる相手はごく少数、会って数十分の少年にそれを見抜けと言うのは酷というものである。事実、少年の目には自分の腕を引く少女の機嫌は大げさでなく最悪の低さに映ったし、彼女の独特の気配、雰囲気も殺気立っているようにしか見えていなかっただろう。加えて急所も蹴られているので、少年の彼女に対する恐怖は増しているはずだった。
そんな恐ろしい沈黙と移動が続くこと二十分後、ネフィーは一軒のボロ小屋の前に辿り着いた。
天辺の尖った形の屋根は傾き、つぎはぎだらけの壁板に蜘蛛の巣が張り巡らされた小窓は、長い間開けられていないのか埃を被っている。必要なのか問いたくなるような、錆びて落ちかけたドアノブは元の金色をすっかりくすませていた。ネフィーは毎日この場所へ来ているはずなのに、来るたびに見た目が劣化していっているような気がしてしまう。
一見すると森の中にあって魔女が暮らしていそうなその場所に、背後の少年が微かに身震いする気配を感じはしたが、ネフィーはだからと言ってどうするわけでもなくドアを開けた。
「おー、ちわぁっすネフィー、きょーも相変わらずゲスい荒かせ」
「ソナ、仕事」
「……人が言い終わる前に台詞取ってかなくたっていーと思うんだぁけどー……」
むっとした、だがどこか面白がるような幼く不愉快な声が頭上から響いてくる。だがネフィーはそちらに見向きもせず、所々の破けたソファにどっかと座った。その衝撃でソファからぼふんと埃が舞うのも、当初は嫌で仕方が無かったが最近は慣れてきてしまって少々腹立たしい。
尊大を通り越して傲慢なその態度に、少年はしばし戸惑ったように立ち尽くした。初見の者が見れば、ネフィーの普段の行動はかなり感じが悪く横暴だ。およそ十五歳の少女には似つかわしくない振る舞いである。しかも少年はまったく知らない場所に連行されてきたのだ、不安に思うのは当然と言えた。
だがその少年の戸惑いも気にした様子はなく、また頭上から、からからと愉悦を含んだ笑い声が降ってきた。
「でー、仕事ね、仕事。うん、実はそろそろネフィー来るかなぁと思ってたんだぜ。時間的に? じゃあいつも通りの対価ってことで、昨日のリバースでの開錠についての詳細と二万エルンね」
「ひとつ訂正。今回の情報対価、リバース・エリアの開錠情報と……こいつで」
「えっ!?」
ネフィーの親指が指した先にいた少年は素っ頓狂な声を上げた。言われた意味がよく分かっていないらしい間抜けた表情になった少年に、トドメを刺すようにネフィーは続ける。
「こいつ、ルルバから落ちたのよ。あたしが目撃した。こいつにこの場で全部喋らせれば、それだけで向かい一ヶ月分くらいの情報料にはなるでしょ?」
「……へぇー、ルルバから落ちた。ねぇ……にわかには信じがたい話だぜ」
幼い声が途切れた。
直後にとんっと軽やかな着地音がボロ小屋全体に響いた。地盤がしっかりしているわけではないこの家においては、どんな些細な振動も伝わり易い。着地した人物はとっことっこと歩いて少年に歩み寄り、彼に向けて実に楽しそうに微笑んだ。
「やぁやぁ、あんただね。悪ぃ、今まで見てなかったわ、余所見しながら話してたからさ。じゃ、テキトーにそこらへん座ってよ。あ、ネフィーの隣に座ると殺されるからやめたほうがいーよ」
「え、え、えっと……?」
「いいからいいから座りなって」
「じゃ、じゃあお邪魔します……?」
少年はしどろもどろになりながらも何とか受け答えて、ネフィーの座るソファの反対側の端に腰かけた。うん、とそれを満足げに見届けたこの家の主は二人の対面に当たる一人掛けの椅子に座る。
客用としているはずのソファが一切修繕された様子がないのに対し、その一人掛けの椅子はきちんとつくろってあって、しかも質のよさそうな座り布が被せられているあたりに、正面でにこにこ笑顔を浮かべる少女の性格が伺えようと言うものだった。
そう。このボロ小屋の主は、今ネフィーの目の前でにこやかに微笑む少女なのである。ネフィーにとっては非常に不愉快なことに。
「君は初めまして、かな? オレは情報屋のソナだよ。本当はソナーナって名前があるんだけど、みんなソナって呼ぶから問題なしっつーわけで。ま、気軽によろしくな~」
「よ、よろしく……」
見るからに萎縮した少年の緊張をほぐそうとするように、ネフィーからすればわざとらしいほどに穏やかな声で、彼女は言うのである。
「そんな縮こまらなくても取って食ったりしないよー? まぁ情報搾取と言う点から見たら変わらないかも? だけど? あ、ソナって呼び方が嫌なら大天使様でも構わないぜ」
「いや、ソナで行くよ」
初対面の人間に天使呼びを許す少女――ソナの若干といわずお調子者な発言に、少年は苦い笑みを漏らして困ったように目を逸らした。