1-1 遭遇
事前に提示してあった額は三万エルン。
通常の開錠士一人分の成功報酬が一万エルンであることを考えるとぼったくりと呼ばれてしまっても仕方がない額だ。だが、木製の丸テーブルにどんっと置かれた麻袋にはその提示額がきっちりと納められていた。それを確認してから、さほど興味もなさそうに少女は依頼主を見遣った。
「バデニッシュ郊外444地帯、リバース・エリア開錠依頼成功報酬三万エルン、確かに。また仕事があったらどうぞ」
「……おいお前さん、これ開錠するとき国家開錠隊ともめたって話を聞いたけど」
三十路は通り越したであろう屈強な大男はそう控え目に言う。ああ、と少女はやはり関心がなさそうに相槌を打った。この場にいることが面倒でたまらない、そんな表情である。体裁として店を経営しているはずの人間が客の前で浮かべて良い類のものではなかったが、彼女の愛想が悪いのはこの街の大勢が知るところだ。
……いや正確には、この店の店主が愛想が悪いという話であって、彼女自身を知る者はほとんどいないのだけど。
「もめたなんて誤解を招く言い方はやめてほしいんだけど。あたしは依頼をこなしに行って成功させただけ、無所属の開錠士に順番待ちしてる暇なんてないの。国家側がノロノロやってるから横取りしたけど、別にいつものことだわ」
もしもこの場に国家直属開錠士がいたら、顔を真っ赤にして激怒しそうな台詞を淡々と吐き捨てると、少女は不機嫌そうに口端を歪めた。
「もめ事が嫌いなら、別口の穏健派にでも頼めば? ま、そのときあんたの払わなきゃならない報酬額は通常の十人分で十万エルンになるわけだけどね。財布事情を鑑みて、まぁお好きにどうぞ」
「……また来るよ」
結局、男は渋るような表情のままではあったがそう告げて、席を立った。彼の着こんでいる鎧から金属のすれ合う音がして、少女はその音を耳障りだとでも言うように目を細める。男は少女を振り返ることなく、店から出て行った。
一見あまりにドライな光景だが、これが彼女――トネフィー・マティットにとっての、日常風景である。
先ほどの客との短いやり取りを終えたトネフィー、愛称ネフィーは煤けた自分の店である〈鍵開け屋・水銀〉を出て裏路地を歩いていた。
湿気で少しじめついた裏路地は、ネフィーにとってそれなりに居心地の良い場所であった。正直日光は目に痛くて苦手である。だから、この季節は鬼門だった。
大きく六つに分けられた一年の季節で、現在は年初めから四つ目の季節、夏季の〈炎月〉。一年の内で最も暑く、また最も太陽の昇っている時間が長い季節である。たまに路地をすれ違う人々の格好は皆一様に涼しげなもので、大半が肩口で袖を切り落とした衣服だったが、ネフィーの格好は年中変わらない。暑苦しそうな砂色の外套をまとったままだ。フードを深く被って顔をよく見られないように細工してある。日光が嫌いというのもあったが、何よりいろんな意味で有名人のネフィーにとって、この程度の用心は必要不可欠なのだった。
初見の者ならまず迷い込むだろう複雑に交差した路地を、迷うことなく次々に折れ曲がる。途中で曲がらなくてもいい場所を曲がって遠回りをするのはもう習慣で、彼女の警戒心の現れでもあった。最短十分で行ける道を倍の二十分かけて歩き、彼女は大通りに出る。
途端、弾けた人々の喧騒に思わず顔をしかめた。
「ハイハイ、こっちで新鮮な野菜売ってるよーーーーっ!」
「お兄さん、この盾なんかどうかね!」
「安いよっ今日は特売だぁ!!」
今日はと言うがいつも特売じゃないか、という冷めたツッコミは決して彼女の喉から発せられない。溢れ返る人混みの間を縫うようにすり抜けて行く。目立たないように、静かに気配を消して、だ。
歩きながら今日の予定を頭の中で思い浮かべた。
まず第一、食糧確保。五日分の買いだめ。第二、〈未踏査域〉踏破状況の確認。広場の掲示板を見に行く。第三、依頼がないか確認。情報屋のところに行く。第四、家に帰ってから装備の点検……。
並べ立ててみるとそれなりの件数やるべきことがあったことに気付いて、ネフィーは深くため息をついた。面倒くさい。とっても面倒くさい。本当なら何もしないでぐっだぐだと部屋で寝転がっていたいのに、なんでこんなに用事が山積みなのか。
心の中で文句を言ったところで誰に届くわけでもないし、答えはずばり「生活費の為」で終わるので、ネフィーはそれ以上無駄なことを考えるのをやめて人をかわすことに集中し始めた。この街の住人は遠慮ってものを知らない。情に厚く温かい、と町内のおば……ご婦人たちが話しているのを聞いたが、そうじゃなくて厚かましくて図々しいと言うべきだと思う。たとえ道で向かって来たのが小さい子どもでも道を譲らないその精神、ぜひとも見習いたい限りだと皮肉交じりに笑った。この街で人にぶつかりたくないなら、自分から避けて行くしかないのだ。
この街に来た当初は不慣れだったそれも、今となっては日常のこと。ひょいひょいと身軽な動作で人々の波を避け、ネフィーは行きつけの食料品店に辿り着いた。セレニグ大通り最南端の露天商の店だが、なかなか鮮度が良く価格も適正値なので、よく世話になっている。
砂色の外套をまとったネフィーの姿を見慣れたのだろう、露天商の娘はこちらを見るなりにこりと可愛らしく微笑んだ。
「いらっしゃい、お客さん! 今日もいつものですか?」
「うん。五日分で」
「五日分ですか。お仕事忙しいんですねぇ! お身体には気をつけてくださいよ? 常連さんがいなくなっちゃったら売上に影響出ますから!!」
紙袋に野菜や肉、小麦粉発酵食品を詰めながら朗らかに娘は笑う。頭に大きい花飾りをつけた、二つに茶髪を結わえた十二、三の齢の彼女は、一年前から変わらずずっとここで商売をしていた。つまり一年の付き合いになるわけだが、可愛らしい外見に反してちゃっかりしていて、最初のころはよく商品を押し売りされてえげつない額を払わされたのは苦々しい記憶だ。あのときの売り文句は思い出してみても見事で、あっけなく騙されてしまったものである。
幼いながら、商才を伺わせるやり口だった。
そんなことを考えていると、娘は不意に口を開いた。彼女は結構お喋りなのだと知ったのは、つい一年ほど前のこと。
「あ、そうだお客さん。今日はなんだか一段と人の入りが多いみたいですよ? 南門と東門のほう、すごく賑わってるんです。パッと見無所属の挑戦者さんたちがほとんどみたいでしたが」
「……ふぅん。さっそくか」
「確か昨日の夜に、444地帯のリバース・エリアが解禁されたんですよね! 何でも国家直属の開錠士が七人がかりでも開けられなかったのに、たったひとりの無所属開錠士が開けてしまったとか! とんでもなく難しいってウワサの封印術式をひとりで解いちゃうなんてすっごいですよね!!」
「……いや、言うほどすごくないと思うけど。その直属隊が無能の集まりだっただけでしょ」
「はっきり言いますねぇお客さん。あ、この情報のお代は赤トマト二個で結構ですよ?」
「あんた情報屋でもないのに何言ってんの」
あはは、と照れたように笑う娘だが、さっきの台詞が冗談ではないことは目が物語っていた。がめついと笑う人もいるかもしれないが、ネフィーからすればそれくらいの貪欲さは生きて行く上で必要だと思うのでむしろ感心して、紙袋を受け取りお代を払う。勿論、赤トマトの分は勘定に入れない。そんなのを情報と言っていたら、噂話にも金を払わなくてはならなくなるからだ。
娘は少し残念そうな顔をしたものの、「ではまたどうぞー」と細腰を折ってお辞儀した。
五日分ともなるとそれなりの重さになる紙袋を、外套の中に隠すように両手で抱えて、また路地に入った。大通りを抜けて行ったほうが次の目的地である広場への最短距離なのだが、さっきの娘の言葉が本当なら広場に通じる大通りはいつも以上の混雑のはず。そんなところに突っ込んでいくつもりは毛頭ない。
人混みを抜けたことに少し安心して息を吐き、曲がりくねった複雑な路地を行く。その最中、「もう噂になっているなんて」、とネフィーは口の中だけで呟いた。
――路地裏と大通りの気温差がどの街より激しい、光と闇の社会が入り混じるこの街の名は、バデニッシュ。
人口約七千。街全体を堅牢さで知られるガデクト石材で囲んだ城塞都市だ。その起源は数千年前に遡るという歴史ある街で、かつてはこの大陸に存在した四つの王国の貿易中継地点として栄えたという。
だが今からおよそ五百年ほど前から、ここはもっぱら違う理由で人々が集い、栄華を極めることになった。それが、その頃バデニッシュ近郊を問わず世界中に突如出現した謎のエリア、「未踏査域」である。
未踏査域。
それは、黒いモヤと雷光に覆われ、紫十字の刻印に守られた、そのままでは侵入できない謎の場所。
かなり特殊な方法で封印……「施錠」されたそのエリアの中には、現代よりも遥かに文明の進んだ古代文明の遺産が山ほど眠っていて、エリアから持ち帰られた文献や金銀財宝は一般人の稼ぎなど霞んで見える高値で取引される。正に世界中の人間が一攫千金の希望を託せる、夢とロマン溢れる謎の領域、それが「未踏査域」だった。
とはいえ未踏査域には数多くの未確認生物が出現し、そのほとんどはとんでもない危険性を誇る凶暴な〈怪物〉であるため、実際に立ち入ることができるのはそれらに対抗できるだけの武力を備えた武人たちのみだ。一般人は彼らを総称して〈挑戦者〉と呼ぶことが多い。
バデニッシュ近郊には、この未踏査域が比較的数多く出現した。そこにあるはずの数々の宝を狙って挑戦者たちが集まり、それを支援すべく商人が更に集まって出来上がったのが、今のこの街である。
そして未踏査域があるところ、開錠士あり。
未踏査域のエリア入り口の封印を解くことができる、極めて高度な術式「開錠」を使用できる者は開錠士と呼ばれた。そして少女、ネフィーもわずか十五歳にして開錠士であり、そして開錠士の中でも指折りの実力者なのである。
昨晩、ネフィーが依頼に出向いた先のリバース・エリアには、国からの依頼を受けて全国の未踏査域を開錠して回る団体、国家直属開錠隊が既にいた。そのうち二人しか顔見知りがいなかったので多分新人研修みたいなものだったのだろうが、ネフィーに言わせれば彼らはいかんせん運が悪い。
昨日彼らが訪れていたそこは、ネフィーの情報網によれば、一般レベルの開錠士が十五人必要な、それなりの難易度を誇る未踏査域だったらしかったのだ。駆けつけたときには明らかに疲弊し切った七人の開錠隊と、それを呑気に丘の上で眺める隊長という有様だったので、じゃあいいやと横取りするように「開錠」してしまったわけだが。
噂になるのも仕方ない。毎回、開錠隊が苦戦している現場に現れては仕事をかっさらっていく、無所属の鍵開け士。大方、またあの黒髪の男……カルが騒いだんだろう。あいつはいちいち生真面目で律儀過ぎて、付き合うにはあまりに面倒な人種だ。
なんであいついつも突っかかってくんのよ、と悪態をつく内に目的地に着いたことに気付いて、ネフィーはまた少し気を引き締める。すっと広場に入れば予想通りに、〈挑戦者〉たちが掲示板の前で群れをなしているのを見てうんざりした。
どうして皆同じ時間に見に来るのよ、バラけて来い! ……と言いたくなるがあいにくいつもの光景だ。何も言わずに広場の掲示板へ向かった。
この広場の正式名称は「紡ぎ広場」という。豪邸一軒分くらいに大きな空間であり、床を軽くて丈夫なメニノ石で細かく覆ったこの広場は、毎日〈挑戦者〉が必ずと言って良い頻度で立ち寄る場所だった。
広場にある掲示板に張られた情報は、すべてバデニッシュ付近の未踏査域の踏破状況を記したものだ。それは情報屋によって、毎日深夜零時に書き換えられる。彼らは未踏査域に赴く前にこの掲示板を見て踏破の進捗を確認し、未踏査域に向かうのだ。
で、ネフィーは開錠士という職業柄、踏破状況によって依頼が来るか来ないかが決まる。そのため、挑戦者でもないのに掲示板を確認しに行くのが習慣になっていた。
「おい、リバース・エリア開いてるぞ!」
「おわッホントだ! 開錠者……〈水銀〉! またやってやがる!」
「無所属のくせによくやるよなぁ、すげぇ」
「無所属だろうが国家だろうが、開けてくれるんだから関係ねーよ! よっしゃ今日はここ行こうぜ!」
「いやいや、その前に偵察部隊を送ったほうが……」
ぎゃいぎゃいと口論を始める挑戦者の横を通り過ぎ、東掲示板に視線を送った。
西が挑戦者向けの情報なのに対し、開錠士向けの情報が書き込まれるのはこの東掲示板。中でも信頼がおける情報が書き込まれているのは、この掲示板の右端にいつも張り付けられた、紙の端が丸まったものだった。
これを書いているのはネフィーもよく知る、今日この後訪れる予定の情報屋。実際は齢十四の幼い少女であるにも関わらず、子どもらしいというよりは男らしい豪快な字で書き殴られた文字を辿り、ネフィーは芽生えた殺意を押し殺すべく拳を握り締めた。
『またしても横取り大活躍、〈水銀〉! 今回で五百七件目の横取り騒ぎ! どこまで活躍すれば気が済むのか!?』
まるで新聞のような見出しにふるふると肩が震える。
その下に申し訳程度に書かれた踏破状況を頭に入れながらも、ネフィーはこれを書いた本人の元に行ったらボッコボコに張り倒すことを心に決めた。もう今日という今日は許さない。クソガキはっ倒してやる。
いつもいつもふざけたことばっかり書き殴るあのガキに何を言ってやろうかと思うと、そいつはにやりと頭の中で意地悪く不敵に笑った。正直言って目に浮かぶようである。現実的に考えて、ネフィーが何を言ったところで多分あいつは笑って受け流すだけだろう。
……そう思うと心に決めたはずのボコボコ計画は泡のように儚く消えた。
誰が彼女の活動費を融資してやってると思ってるんだか、とため息をついたが、彼女はげらげら笑いながら恩を仇で返せる悪女。ネフィーなど利用相手に過ぎないだろう。ネフィーからしたって彼女が優秀な情報屋であるから付き合っているだけであり、そうでなかったらきっと関わっていないだろう人間のひとりだった。ギブアンドテイク、と言うらしい、言わば相互利用の関係だ。
ネフィーは用事は済んだと判断して掲示板を離れた。
さて、第一、第二の用件は終了した。残された用事は情報屋への訪問と装備の点検だ。とりあえず広場から出ようかと一歩踏み出したそのとき、
「おっ、ネフィーじゃねぇか! 昨日は随分やらかしてくれたなコンチクショーめが、俺の気苦労を何だと思っていやがる!」
と、場を憚らない大声が背後から聞こえて、彼女は心底嫌そうな顔で振り返った。