彼女をかった理由
もし、定着していれば、使い手を根絶やしにして、痕跡すら燃やしてなくすのが使命でしょう、と悲しげに笑いながら紅茶をすすったウィルに、イレーニャはしゅんと羽を垂らした。
「どうしました?」
「……それならわたし、何のお役に立ててないのに、なんでおそばに置いてくれるんですか?」
その言葉に首をかしげて、理解した瞬間音を立ててカップを置いていた。
「そんなこととんでもない!」
慌て始めたウィルに、イレーニャは顔を上げて、ウィルを見る。この若い男の顔にいつも張り付いている穏やかな色は消え失せて、どこか焦りのようなものがにじんでいる。
「君がいるから、私はまだ正気でいられる。君がいなければ、今日だって、この前だって、その前だって、何度呑み込まれかけたでしょう。……わが一族の血の呪縛に」
生まれながら、血濡れの咎を負う自分の手がとてつもなくけがらわしく、そして、不意にその手が地に濡れているようにぬめっているように感じるのだと。でも、すんでのところで引き戻してくれるのは、引き留めてくれるのは、イレーニャの存在があるからだ。そう焦りながら言うと、いまいち理解できなかったのかきょとんと、イレーニャはウィルを見ていた。
「つまり、君は、私の役に立っているということですよ? 君がいるだけでいい」
そっとその手を包んで握りしめると、こくんとうなずいてふわりと笑った。その、屈託ない笑みを見て、ようやくほっとしたウィルは、椅子に座りなおして、こぼれずにいた冷めた紅茶の残りをすすった。
それから、ウィルはおやつを終わらせて、イレーニャを部屋から出して、一人で報告書を黙々と書き上げていた。
夜ご飯を食べることもなく、書いて、すべてをまとめ終わったころにはあたりはすっかりと暗い深夜となっていた。
家の火はすべて消されていることを確認して、浴室へ向かって、一日の体の汚れを落とし、髪を乾かすこともせずに、一人のベッドへ滑り込む。冷たいシーツの感触。イレーニャは外に作った自分の巣穴で眠っていることだろう。すやすや眠っているところを想像して、ふっと笑って、ウィルは、目を閉じた。
視覚が閉ざされて、少しだけ敏感になった聴覚がかすかな音をとらえた
鼻歌らしいその音は、鼻歌だとしてもとても美しい旋律だった。
バーナードに教わったのがよほどうれしかったのか、と笑いながら、ふっと頭と心を苛んでいたものが軽くなったものを感じながら、あっけないほどストンと眠りに落ちていた。
朝日とともに起きる魔術師であるウィルには珍しいことに、その日は寝坊をしていた。
「おはようございます。イレーニャ」
いろいろなところを汚しながらきちんとできた朝ごはんをほめて、遅めの朝ごはんを取りながら、ウィルは、イレーニャに一つの封筒を託した。
「これはバーナードのところに」
「バーナード?」
「あの、よくからんでくる筋肉お化けのところに投げてきてください」
「はいっ!」
楽しそうに、うれしそうにうなずく彼女に、ただしと、付け加える。
「投げた先に池や、湖、など、中の書類が見れなくなるような事態になるのは勘弁してくださいね?」
うんとうなずく彼女にウィルは彼女用に買っておいた細やかな装飾がなされたおしゃれな革の四角いななめ掛けのバックに封筒を入れてかけてやる。
「よく似合ってます」
「ありがとうございます!」
顔を赤らめて嬉しそうに言う彼女に、ウィルはふっと笑った。彼女にも人間のかわいいなどが理解できる。普通の女の子のように横向いたり、後ろ向いたりとせわしなく動いて鞄をかけた自分を確認する彼女に、遅くならないうちに帰ってくるんですよ、と声をかけて、ウィルは、その背中を押して送り出した。
いってきまーす、と元気な声が聞こえて遅れて翼の音。
「なんで、か」
一人になった家の中、ぽつりと、つぶやいたウィルは、泣き笑いのような顔をして彼女が出ていった廊下を眺めた。
「罪滅ぼしのためだったなんて、言ったら、怒るのかなあ」
そんな言葉は、家の中を吹きすぎる、風だけが聞いていた――。