カラスとセイレーン
どこからか、声は聞こえていた。
「……君に殺されるならば本望です。イレーニャ」
落ち着いた声、諦めきった声が聞こえる。いやだと思っているのに、勝手に手がウィルの白い喉元に伸びて、そして、固い喉を握りしめる。
掌に感じる固い喉仏の感触。指に感じる早い脈。
「いいよ。殺して。イレーニャ。この愚かな男に、裁きを」
やさしげにも聞こえるその言葉。引き寄せられる体。
刻一刻と彼の命がこの手の中で尽きようとしている――。
はっと手を離して崩れ落ちたウィルを抱き留めたイレーニャは、あたりを見ていた。
「どこ、ここ?」
冷たいウィルの体を抱きしめて、体を縮こまらせてふと、月を見上げる。丸かった月がいつの間にかかけている。
『悲しきセイレーンの子よ』
かすかな声に、喉を鳴らす。月光が集まり、はかなげな輪郭をかたどった月の女神が目の前に現れる。
『陸はあちらだ。汝の魔力が荒れたのを感じて、一時的にこちらに隔離をした。……見事な飼い主だ。堕ちたセイレーンを引き戻すなんてな』
笑う女神にイレーニャは息をしていないウィルを見て泣きそうに顔をゆがめた。青ざめた顔は、死んでいるかのようだ。
「マスター! マスター!」
背中をたたいていた手が背中の大きな傷に当たった。びくとウィルの体が震えてせき込むように息をし始めた。背中を撫ぜることもできずに、ひしと抱き付いたまま、ただ、彼の咳が収まることを待つしかできなかったイレーニャは、体に感じるウィルの体が、ずいぶん痩せていることに気付いた。そして、だいぶ冷え切っていることにも。
『そなたの手で陸に上がるかえ?』
「上がります」
しっかりとした言葉に女神は笑ったようだった。ふっと消えた女神を追って、イレーニャはウィルを抱きかかえたまま空に白い翼を広げた――。




