カラスとセイレーン
開く場と一瞬で荒れる海と、波しぶきに、一気に濡れた。その中に入って、岩礁に腰を掛け、歌うイレーニャを見てすっと目を細めた。
「イレーニャ」
かつて白かった羽と髪は、黒く染まりかけていた。闇に落ちるということはそういうことなのだろう。ため息をついて、それに近づく。
風がウィルを阻むように吹き荒れる。かまいたちが彼の外套を切り裂き、腕や、脚や、肉を切り裂く。
「切りたいなら、切ればいい」
静かに呟いて、ウィルは目を細めた。風に阻まれようともそれに近づく。
「イレーニャ」
目の前に浮かぶ。空に向かって歌うイレーニャは泣いていた。泣きながら、悲しい旋律を口ずさむその姿に、言葉を失い、そして、腕を伸ばしていた。
「……これが、君の痛みですか?」
違うというように、風が強く吹く。ふっとばされてこの場を閉じる結界にたたきつけられたウィルが、海に落ち、すぐに浮かび上がる。
「……っ」
痛みに表情をこわばらせながら、また、イレーニャの目の前に浮かぶ。紅かった瞳には、絶望がある。
「空を呪うのであれば、私を呪いなさい、イレーニャ」
屈託ない笑みを浮かべていた、目鼻のすっきりした顔は疲れ切った表情しかない。その頬に手をかけようとすると風に阻まれ、切り刻まれていく。
「私が君を置いていった。だから、こうなっている。君が誰かを殺すのであれば、最初に殺されるのは私でなければならない。……ほかのだれも殺させないために」
静かに呟いて、ウィルは冷え切った頬に触れてうつろな目を覗き込む。
「私はここにいます。イレーニャ」
触れた瞬間に、呪いをかける。相果てる禁呪だ。ウィルが死んだら、イレーニャも、死ぬ。
「もう、離れません」
そう呟きながら、浮く魔力すら無くなったウィルはイレーニャの乗る岩礁に膝をつく。途端、脛が切り裂かれる。腿が裂かれる。
「イレーニャ」
起きてくれ、目を覚ましてくれなどとは言えない。この結果を招いたのは、自分の愚かな選択だから。
ウィルは、唇をかみしめて、イレーニャの瞳からあふれる涙を血のにじむ指で拭い、痛ましそうに、呆然と歌い続けるイレーニャを見つめていた。
「イレーニャ……」
ふわりとイレーニャの手がウィルの首にかかった。目障りになったのか。かぎ爪のついた指がゆっくりとその喉に食いこんでいく。
「……君に殺されるならば本望です。イレーニャ」
いやいやと首を振るイレーニャ。だが、その指には力が込められていく。
「いいよ。殺して。イレーニャ。この愚かな男に、裁きを」
絞められていくその喉で、かすれた声でそういう。首からは血が滲み、そして、ガンガンとこめかみが鳴る。
「……」
黒く堕ちた翼に手を伸ばして引き寄せる。幾度となく引き寄せた体は冷たい。喉に絡みつく手は固い。
「……イレーニャ」
指先から血の気が引いていく。これまでか、と力なく笑ったウィルは最期に、とイレーニャの顔を見る。まだ、泣き続けている。笑顔なんて、もう見せてくれないに決まっている。そう思って自嘲気味に笑って、喉にイレーニャの指を絡みつかせながら、意識を失った。
「マスターっ!」
耳元に、うるさいほどの叫び声が聞こえたのを、どこか遠く感じて。




