カラスとセイレーン
夜、仕事が終わったバーナードは、ウィルの家に向かっていた。ウィルならば、ここにまだいると思ったからだった。
今日のウィルは、本当に人が変わったようだった。でも、かすかに震えた瞳が、変わっていないことを告げていた。まだ、やさしいままのウィルが、イレーニャがいなくなったと聞いて平気でいられるはずないのだ。
そう思いながら、町はずれにある丘を登り終えたところで、ふと後ろに気配を感じた。
「……きましたか」
疲れたような声に振り返ると、ウィルが、黒いコートを着て立っていた。珍しく、剣を、彼の細い体躯に似合った細身の銀色の十字剣を腰にさしている。
「何をするつもりだ」
「別にいいでしょう」
剣を抜いて、首筋に付きつける。突然の暴挙にバーナードは顔をこわばらせるが、すぐに表情を取り繕う。
「鳥ちゃんはそんなこと望んでいない」
「私は彼女が生きていてくれさえいればいいんです」
抑えつけられたような声に、確信する。彼はバーナードがここに来ることがわかっていて、自死しようとしていた。そうして、海に投げ捨ててもらって、イレーニャを取り返そうという算段だ。単純なことだった。
「ふざけるな」
「ふざけてませんよ。伝説は何かがあったからこそ残っているもの。常人では神に声を届かせることなんでできやしない。私の命一つで彼女を救えるのであれば、それほど安いものはない」
「ウィル!」
「……私が死んだら、海に投げて、ディアナの神託を受けてください。お願いします」
自分の命すら軽く思っている。それじゃダメだ。そう思いながら、バーナードは、一歩、ウィルに近づいた。
「お前な、なんでこんな状態になったと思っている?」
「……」
「原因を絶たなければ、何度も襲われる。魔獣狩りでお前が言っていたじゃないか」
魔法騎士の術科の時、同じ班だったウィルは、そういって、教官の面目を丸つぶしするぐらいの働きを見せた。そう、言っていたのだった。
「お前がいなければ、彼女の心は死んだままだ! 死んだ心に風が吹く前に、またディアナに連れ去られるだろう。そうすれば、あいつは、あの子は……っ」
「……じゃあ、ここから出ればいい」
「そんな問題じゃないだろ!」
「……父に、セイレーンの集落を探してもらいました。私が死んだあと、そこまで彼女を連れていくことを約束してくれました」
とことん手際がいい彼に、勝手にしろといいたくなった。だが、目の前に散る命がある。バーナードは、怒鳴りたくなるのを抑えて、食いしばる歯の奥から声を出した。
「お前は、どうしたいんだ?」
「……私は、彼女が生きていれば……」
「生きるしかばねになって、呆然と毎日を過ごすような姿が生きていればいいといえるのか」
戦後のリアルを、最愛の夫を失った妻のあの姿を見たことがないから言えるそのわがままな答えに、ぐっとこぶしを握りしめていた。今度こそ、声を抑えられなかった。
「それこそ不幸だと考えないのかお前は!」
「……」
「愛する人が目の前から突然、しかも、身勝手に君のためだと死んでいなくなって、残された手前、周りから立派だったと、悲しみを慰められることなくほめたたえられて。……その人が隣にいてくれるだけでいいと願う、そんな相手の気持ちを知ったうえで、お前は、それでもいえるのか? 生きていてくれさえいいと。戦死者の家に入ってみてからそんな寝言を言え!」
「私はっ」
バーナードの叫びに引きずられるように悲痛な声を上げたウィルに、バーナードは、自分の首筋につきつけているウィルの剣をはじいて胸ぐらをつかんだ。
「お前は、どうしたかったんだ! てめえの勝手な罪悪感なんざどうでもいい。お前は、お前はイレーニャのそばにいたくないのかよ!」
「……っ」
ぐっと彼の拳が握られるのを見た。もうひと押しだ。その時だった。
近くの森から、何かがにじみ出てきた。
「……妖魔か」
「……」
目を細めた二人に襲い掛かるのは黒い影。はっと二人して飛びすさって、ウィルは剣を拾って構え、バーナードは剣をしまって目を細めた。
「ウィル」
「話はあと、ですね」
静かな声に、バーナードは喉の奥で唸った。
「邪魔しやがった恨みは強いぞ」
そう呟くと、一瞬で狼の姿に変化したバーナードがウィルの分まで妖魔を引きちぎって始末をした。
「久しぶりだからって張り切らないでください」
一瞬で片付いてしまった妖魔にぽつりとつぶやいたウィル。
すべてを始末し終えたバーナードが、四足で着地して、耳の後ろを後ろ脚で掻いたのち一瞬で、人の姿に戻る。服はどこに消えたのかすっぽんぽんだ。




