見つめる人形
赤い帽子を被った人形は、階段の縁に腰かけて、家を一周駆け回った私を迎え入れたように思えた。
遠目にも端が擦り切れ、つぎが目立つそれと目が合ったように思えたのは、子供の頃以来にこの屋敷を駆けるという愚行を犯した私を嘲笑っているかのようだった。
どうした、そんなに彼女がいなくなったのが怖いか。
そう言われているかのようだった。
彼女は私の希望だった。
私は親の遺産を受け継いで一族最後の一人になったばかりの若造で、彼女は田舎から都会に飛び込んだばかりの少女だった。
偶然出会ったというだけの男からの、赤い帽子の人形を抱えた少女に、職を得られるような教育と援助の申し出に、何故彼女は答えたのか。
彼女には私にはない未来があると思い込んだ。
定期的な面会の他は彼女に会わず、彼女に醜聞が立たないよう、細心の注意を払った。
面会の場に、何年経っても彼女は必ず、あの人形を抱えて現れた。
「母の形見なのです」
出会った時、そう教えてくれた。いつも人形は私を見つめていたように思えた。
やがて私などが与えた小さな機会を彼女は成長の芽として大きく育て、無事学校の教師の職を得た。
密かに彼女の職場を見に行った私は、学生に囲まれて、朗らかに彼らに語りかける彼女の姿を見つけ、動揺した。
彼女は、誰に対しても明るく接した。
私の前では決してそんな姿は見せなかった。いつも、表情を硬くして、人形を抱えていた。
人形が私から彼女を守ってくれるというかのように。
私は一昼夜考えた。
援助して来た時点で、私は彼女に対して強者でしかない。何を求めても、命令でしかないだろう。
私が求めていたのは、人形を抱え都会に飛び込んだ少女が抱えていた、自分になかった未来であり、彼女自身であってはならない。
朝日の中、私は二つの事を決めた。今後は面会を行わない事、かねてより彼女が希望していた援助に使われた金の返済を月々受ける事だ。
彼女から、了承の返答が来たのは、翌々日の事だった。
但し、もう一度だけ、いつも面会を行っていた私の家で待っていて欲しいという。
表から見えない持ち物に赤の物を選びながら、私はその日を待った。
「いらっしゃいました。ですが、そのまま姿を消されました」
家の者からの言葉に、私は言葉を失った。
元々、最低限の規則を破った場合を除き、彼女の行動を束縛するな、と家の者に厳命していたのだ。彼は決して悪くない。
「どうなさいます。探させますか。門番に彼女が出て行かれるのを止めさせる事も可能ですが」
「どちらもするな」
叫ぶように答えると私は書斎を出て、屋敷中を探した。
探しながら、私は、一度だけ彼女が面会の時に笑った事があったのを思い出した。
私がこの家で生まれ育ち、どのようにこの空間で兄弟と遊んで親に怒られたかを、何故か話した時だ。彼女は懐かしそうに、自分が故郷でどのように遊んでいたかを教えてくれた。
お互いの遊びがどんなに楽しいものだったかは、決して本当の意味では理解していなかった。
ただ、語りながら遠くを見るようにして浮かべた笑みが、遠くの故郷だけを見つめていたのを感じた。
だから私はその事を記憶から消した。
人形の帽子の赤みとその下にある目にばかり行き、私は人形の下に、手紙らしきものが挟まれているのにしばらく気付かなかった。
転がり落ちないように人形を支えながら、手紙を抜き取り、広げる。
そこには彼女からの、今回の無礼を詫びる言葉と、今までの礼とが書いてあった。
「人形は置いて行きます。お好きなようになさって下さい」
それを読んで、終わったと思った。始まってもいなかった何かが。
「門番が、彼女が帰ったのを確認したそうです。追いますか」
作り物から、私は目をそらした。
返答までに少し、間が空いた。
「追わなくていい。もう、直接会う事もない相手だ」
私は自分の返答に驚いた。声色から、自分が笑っているのに気が付いたのだ。
そうか。そういうものなのか。
人形に手を伸ばした。近くで見る人形の目は、丸く貼り付けた黒い布であった。瞳ではなく。
そうして、玄関を見回す。
この家の事は誰よりも知っている。きっとこれを置くにふさわしい場所も見つかるだろう。私は再び、家の中を回る為に歩き出した。
抱えた人形は、思っていたよりも、はるかに軽かった。