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テンポラリーラブ  作者: CoconaKid
第六章 ゴーイング
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 8月もとうとう終わりに近づき、なゆみはしみじみしてしまう。

 デスクの卓上カレンダーを見つめ、大きく赤で丸をつけた8月31日を感慨深く見ている。

 川野が付けた印で、その日に「斉藤最後の日」と小さく記してある。

 その日で辞めるという意味だが、地球最後の日のような滅亡の縁起悪い響きにもとれた。

 しかし、気にかけていてくれているという点では、そんな印でさえ有難く思えた。

 その31日が次の日のことであり、四ヶ月という短い期間で大して働いたとはいえないが、いざここを辞めるとなると寂しさが生じてくる。

 大半は仲良くなった人たちと別れるのが辛い気持ちだった。

 ミナや千恵は年上だったが、歳関係なく本当になゆみと仲良くなった。

 川野は相変わらず、厭らしいことを口走るが、おっさん独特の楽しみでもあり、なゆみをかわいがっている愛情表現の一種であったと解釈することにした。

 普通の人なら即セクハラで訴えられるが、川野に似た変質者も蹴ったことで鬱憤をはらしたので、なゆみはそれ以上深く考えるのはやめた。

 そして氷室──。

 一番お世話になった人でもあり、ここで働いていて一番忘れがたい人となった。

 氷室と別れるのがどこか辛い気もするが、海を越えたアメリカに一年もいけばきっと忘れられる。

 氷室もその頃には幸江と結婚しているかもしれない。

 今までがテンポラリーとして、楽しい日々を一緒に過ごしただけだと、この先の自分の未来だけを考える事にした。

 

 休憩時間に、なゆみは手帳を持って本館へ足を運んだ。

「お疲れ様です」

「あっ、サイトちゃん。どうしたの」

 ミナが笑顔で寄って来てくれた。

 なゆみは手帳を差し出し、住所を書いてと催促する。

「向こうから絵葉書だすからね」

 ミナは喜んで自分の住所を書き込んだ。

 氷室はその間、例のごとくコンピューターに向かってデーターを打ち込んでいた。

 なゆみが来ているとわかっているのに、愛想すら持ち合わせてない。

 仕事が忙しいフリをしては、カチャカチャとキーボードを叩く手を一層早くした。

 その態度は、初めてなゆみが働いた日に出会った氷室と変わらなかった。

 ミナが書き終わると、なゆみは力を込めて手帳を握り締め、勇気を出して氷室の側に立った。

「お疲れ様です。お仕事中すみません。あのここに住所書いてもらえませんか」

 氷室はキーボードを叩いていた手を止め、なゆみに視線を向けた。

 冷静を装っても、瞳は深くなゆみを捉えていた。

 なゆみがとても遠くに行ってしまったと悲しく思いながらも無理に微笑んだ。

「明日が最後の日だったな」

 そう呟きながら、手帳を受け取り、住所を書き始めた。

 氷室の字は男性の字とは思えないほど達筆だった。

 建築の細かなデザインをする人は、字にも同じようにきっちりと設計された形が宿るのかもしれない。

 その字を見れば、氷室のしっかりとした真面目な人柄が浮かんでくるようだった。

 あの大きな手からこんな繊細な美しい字を書く氷室に、なゆみは暫し見とれてしまった。

 書き終わった後、氷室はその手帳を返した。

「その住所、テンポラリーだぞ」

「テンポラリー……」

 どこか耳に響く言葉、かつて自分も使ったことを思い出す。

「氷室さん、引越しされるんですか?」

「いつかはそうなるだろうな」

 その言葉の裏に結婚という意味があることをなゆみは感じ取った。

 あのお見合いしたきれいな女性と上手く行っていると想像する。

「それじゃ向こうについたらすぐに絵葉書出します」

 氷室は小さくふっと笑い、もう何も話すことはないと、再び忙しく手を動かし始めた。

 あまりにもつれない氷室の態度に、なゆみはそれ以上その場にいられなくなってしまった。

 お礼は最後の日に言えばいい。

 なゆみは仕方なくお辞儀をしてその場を去った。

 なゆみが側を離れたとき、慌しく動いていた氷室の手元がぱたっと止まり、氷室は暫く動かず目を閉じていた。

 ぐっと何かを必死に堪えているようでもあったが、落ち着いたのかまた忙しく手元が動き出してはキーボードを叩く音が強まった。

 コンピューター画面を見つめる氷室の瞳は虚ろだった。

 なゆみは去り際に本店をもう一度眺めた。

 初めてここで働いた日。

 最初はやっていけるか不安だった。

 氷室と出会い、色々なことがあった。

 なゆみは氷室をもう一度見つめる。

 がっちりとした氷室の背中を見ていると泣きたくなってきた。

 「ありがとうございました」と小さく呟いて、未練を断ち切るように立ち去った。

 本当にこれで終わり。

 そう思った時、ぐっと体に力が入り、なゆみは背筋を伸ばした。

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