表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
テンポラリーラブ  作者: CoconaKid
第五章 ショッキング
51/60

10

 氷室と幸江がやってきた店のドアには、本日休業と書かれたサインが掲げられてあり、二人は気まずく顔を合わせていた。

「幸江さん、すみません。休みとは気がつきませんでした」

「いいんですよ。突然私が立ち寄ってしまってそれにお付き合いさせたのが悪いんです」

「折角ですから、コーヒーでも飲みませんか」

 氷室が示した先にはアンティークショップのような古臭い喫茶店があり、この辺りで唯一見かけた店だった。

 年季が入った重たい扉を開けると、そこに設置されていたベルがカランと鳴った。

 足を踏み入れれば、中は全く客がいない寂しげな店だった。

 コーヒーの香りが漂っているが、鼻孔に芳しきというよりくたびれた香りに感じたのは、古びれた店のせいなのか、それとも氷室のそのときの気分を表していたのか、店の中に入ったとき氷室は空虚感にさいなまれた。

 二人は窓際のテーブルに腰を下ろした。

 すぐにその店のマスターが水を運んでくるが、氷室はメニューも確認せずただ「コーヒー」と一言発した。

 幸江もそれに合わせて同じものを頼んだ。

 もう閉店の時間も近づいているのか、客は氷室たち以外誰も入って来る気配がなかった。

 静かなところで二人で交わす言葉も少なく、氷室は辺りを見回して誤魔化した。

 もし目の前になゆみがいれば、きっと彼女を見つめ彼女のおしゃべりに永遠と付き合ってはこの二人だけの空間を自分たちだけの場所として楽しめたのにと、氷室は空想していた。

 だがなゆみはジンジャとその時間を過ごしている。

 虚しさは益々心の中に広がった。

 店のカウンターの端には、恋人同士を形どったかわいらしい陶器の置物が置かれていた。

 それが、先ほど見たなゆみとジンジャの姿と重なってしまい、益々気分が滅入ってくる。

「やはりインテリアが気になりますか」

 幸江は沈黙が居心地悪く、氷室の興味のあることを尋ねてみた。

 だが氷室は一言、「そうですね」と答えるだけでそれ以上話を進めようとはしなかった。

 また沈黙が流れると、氷室はコップを手にして水を一口含みその場を凌ぐ。

 幸江は話が弾まない事に心落ち着かず、無理をして話題を作ろうと、なゆみのことを持ち出した。

「先ほど出会った女の子ですけど、あの方にコトヤさんのお店の行き方を教えてもらったんです。明るくて笑顔がとてもかわいい子ですよね」

「ああ、そうですね。でもアイツは結構おちょこちょいで無鉄砲なところがあるんですよ。髪も短いから少年と間違われたり、女としての魅力にはかけますが、 確かに笑顔はかわいいです」

 なゆみのことを語っているときは、氷室の目が生き生きとしていた。

 その表情を幸江は静かに見ていた。

 そこへコーヒーが運ばれてきた。

 氷室は何も入れずにカップを手にして、コーヒーをすぐ口にした。

 とにかく間が不自然にならないように、コーヒーを飲むことで、自然な沈黙を試みた。

 幸江は砂糖とミルクを入れ、静かにスプーンでかき回している。

 氷室から一向に話がないと、またなゆみの話を続けた。

「あの方のどんなところが無鉄砲なんですか。見た感じ従順そうでしっかりしてるような印象でしたが」

 氷室はカップを持ちながら、どう話せばいいか考えていたが、色々あり過ぎて、微笑んでいた。

 幸江は氷室のその入り込んだ笑みに疎外感を感じ、目の前の自分の存在を否定されたような気になってしまっ た。

「コトヤさん、そんなに面白い話なんですか?」

「えっ、いやその……」

 氷室は幸江の前では話せる訳がなかった。

 なゆみが酔っ払って吐きそうになって一緒にラブホテルに入ってしまったこと、その後の支払いで揉めた事、一緒にトンカツを食べながら偉そうなことを言わ れて自分が暴走してしまったこと、宗教に引っかかってフィアンセのふりして助けたこと、変質者に蹴りを入れて戦ったことなど氷室の胸に全てしまっておきた かった。

 それらを改めて思い出せば、どれだけ自分が振り回されてきたのか思い知らされた。

 しかしそれが振り返れば楽しかった。

「すみません。なんか色々ありすぎてまとまりません」

 氷室は少年のように素朴に笑っていた。

「コトヤさんはその方については楽しそうに語られるんですね」

 ここに居ない女性の話に笑顔を見せる氷室を見るのは辛く、幸江は氷室から視線をそらした。

 寂しさも圧し掛かったように幸江の長い睫毛が下を向く。

「えっ、そ、そうですか?」

 慌てたように氷室はカップを口にする。

 コーヒーの減りが急に早くなった。

 静かなアンティーク調の喫茶店は、あまりにももの悲しく、幸江が抱いたしらけた雰囲気をさらに引き立てていた。

 話も弾まず、氷室は幸江にそれなりに気を遣うが、それ以上の踏み込んだ楽しさは伝わってこない。

「コトヤさん、どうして私と付き合おうと思われたんですか?」

 そっとカップを持って、幸江は静かに呟いた。

「それは、幸江さんは申し分のない女性ですし、お断りする理由がまず見当たりません」

「私のことが気に入ったとは先におっしゃって下さらないのですね」

「いえ、もちろんそれは……」

「どうぞご無理なさらないで下さい。まだ知り合ったばかりですし、私もその点は心得ております」

 幸江は上品な微笑を氷室に向けた。

 氷室は息苦しくなり、無理に微笑んでいた。

 これで本当にいいのか、混迷し、燻った気持ちを払拭しようと、残っていたコーヒーを一気に飲み干してしまった。

 二人は暫くそこで過ごした後、喫茶店を後にし来た道を戻っていく。

 他の道を選んでもよかったが、幸江が気にしてないとばかりに先に歩いてしまった。

 幸江にしてみたら女としての魅力を見て欲しいために、わざとホテル街という場所で氷室の気をそそろうとアピールしていたのかもしれない。

(俺はいつかこの女を抱くときがあるのだろうか)

 性欲は満たされても心はずっと満たされないままだろうと、氷室は隠れてため息をついていた。

 こんなことを考えても仕方がないとただ無言で歩く。

 その時、ホテルからなゆみとジンジャが出てくるところをちょうど見てしまい、咄嗟に幸江の腕を取り、こそこそと物陰にかくれてしまった。

 幸江は驚くも、氷室が食い入るように前方を見ている姿に、何も言えなかった。

 成り行きのまま、同じように氷室が見ている先を見つめていた。


 なゆみは下を向き、おぼつかない足取りで歩いている。

 それを庇うようにジンジャが肩に手を回して労わっていた。

 なゆみはジンジャを見つめて、手で目の辺りに触れている様子からして涙ぐんでいた。

 街明りに照らされたなゆみの表情は、恥じらいながら笑顔になっている。

 それが一線を乗り越え、関係が深まった姿に見えた。

 なゆみとジンジャは親密に、体を密着させてお互いを気遣いながら歩く。

 二人の結ばれた事実を氷室が知るには、充分過ぎる光景だった。

 これで完全に諦められる──。

 二人が遠くへ行ったところで、氷室は幸江と一緒だったことを思い出した。

「す、すみません。見てみないフリをした方があの子達のためだと思いまして」

「いいんですよ。気になさらないで下さい」

 幸江は気を遣っていたが、女の勘で、氷室がなゆみを好きでいたということに感づいてしまい複雑な思いを抱いていた。

 氷室はその後、落ち込んだように無口になって、静かに幸江と肩を並べて歩いていた。

 大通りに出ると、幸江はタクシーを呼び寄せた。

「コトヤさん。私タクシーで帰ります。今日はどうもありがとうございました」

「いえ、何もできなくて申し訳ありませんでした。それじゃまた連絡します」

「ええ、楽しみに待っています。あの、コトヤさん……」

「はい?」

「いつか私のこと気に入ってもらえるように、私も努力します。まずはコトヤさんが正直になんでも私に話して下さい。私いつでも受け止める覚悟はできてますので。一人であまり抱え込まないようになさって下さいね」

「幸江さん……」

 氷室に一礼をすると、落ち着いた笑顔を見せてタクシーに乗り込んで行ってしまった。

 それを見つめつつ、全てを見通した幸江の物わかりのよさに、氷室は侮れないものを感じていた。

 大きなため息を一つ吐いて、のろのろと歩き出す。

 後戻りできないところへ来てしまったと痛感していた。

 偶然落ちていた空き缶を見つけ力強く蹴りあげれば、その音は虚しくカランコロンと遠くへ転がり去っていった。


 一方、なゆみ達は、お互いを大切に思い、身を寄り添って歩いている。

 駅に来たときになゆみはジンジャに向かって必死で自分の気持ちを伝えようとした。

「ジンジャ、私、不器用でごめんね。その…… うまくいかなくて」

「何言ってんだ。全てを含めてそれがタフクなんだ。だから気にするな。お前はそのままで充分だよ。何も恥ずかしがることなんてないよ。それよりも俺が傷つけてないかが心配なくらいだ。大丈夫か?」

「うん、ジンジャが私のこと大切にしてくれたからもちろん大丈夫。でもなんかジンジャに迷惑かけて……」

「だからもういいってば。あれはあれでいいんだよ。本当にありがとうな。俺は自分に満足だよ。タフクを好きになってよかった」

「ジンジャ、ありがとう」

「それじゃ。またな」

「うん。またね」

 なゆみはジンジャと駅で別れるが、最後までジンジャの姿を見ていた。

 ジンジャは一度振り返り、大きく手を振った。

 そしてすっきりとした笑顔を見せる。

 なゆみもまたそれに精一杯応えて、手を大きく振っていた。

 ジンジャの優しさを体全体で感じていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ