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テンポラリーラブ  作者: CoconaKid
第四章 アストニッシング
33/60

 暈を被った月は、とても曖昧ではっきりしない。

 氷室もまた自分のこの状況と重ね合わせている。

 なゆみはすぐ隣にいても、それは思いが届かない限りとても遠い。

 一緒に肩を並べて歩いていても氷室はすっきりしなかった。

 久しぶりに話しを交わしたなゆみはまたジンジャのことで悩んでいる。

 その姿を見れば、この湿気を含んだじめっとした嫌な空気が心にどんどん溜まっていくようだった。

 心の中もねっとりじめじめ。

 だが、暈を被った月の周りは光の輪に包まれていた。

 それはそれで美しい希望の光のようにも見えた。

 気を取り直し、氷室はなゆみの心の中に入りこもうとした。

「9月から留学か。斉藤はアメリカでアメリカ人とテンポラリーラブをするのか」

「えっ。またテンポラリーラブの話ですか。そんなに気に入りました? その言葉」

「いや、正直、そんなの嫌だって思った。俺は惚れたら一直線でテンポラリーなんてありえない。目の前から姿が消えてもはっきりと振られない限りずっと思い続けたい」

 ──俺の気持ちに気が付いてくれ!

「だからそれはトゥルーラブなんですよ」

 ──だからいちいち訳すな。もう、かったるい!

 なゆみの鈍感さはある程度、氷室も気が付いている。

 これならばはっきりさせるしかない。

 氷室は強気に出た。

「別に英語にしなくても日本人なら日本語で、本人に愛してるって言えばいいことなんじゃないか。こんな風にさ」

 氷室はなゆみの前に立ちふさがり、真剣に目を見つめ、彼女の両肩に手を置いた。

「好きだ。愛してる」

 本気が反映された声は甘くベルベットのような滑らかさを帯び、その声がなゆみの耳に届くとそれは魔法の力を得てなゆみの動きを止めてしまった。

 動いているのは心臓だけ。

 その言葉の意味に魅せられて、激しく膨れ上がるように収縮を繰り返している。

 氷室の目は迷うことなくなゆみを捉えていた。

 それを見つめれば、なゆみは益々術にかかって氷室から目が離せなくなった。

 暫く見詰め合っていると、氷室は自分が仕掛けた雰囲気に自ら飲まれていってしまった。

 上手く行くと思い込んでいた。

 人通りが途絶え、周りには誰もいない。

 見られていてもこの暗さが隠れ蓑になってくれる。

 なゆみの肩を掴んでいた氷室の指先に力が入り、徐々に顔を寄せては、彼女の唇に自分の唇を重ねようとした。

 そのまま行けばお互いの唇がくっつくという寸前、なゆみは氷室の胸を両手でどーんと突き飛ばした。

 魔法は寸前でとけてしまい、なゆみは怒った瞳を氷室に向けた。

「もう、止めて下さい、からかうのは」

 その衝撃で氷室も我に返り、ここまでやっても伝わらないもどかしさに、苛立ってしまった。

 受け入られない悔しさで、また悪い癖が出てしまい、ふっと粋がった笑いをしてしまった。

 羞恥心を植え付けられると、氷室は決まってガキのように意地悪く振る舞ってしまう。

「悪かったな、からかうと面白くってさ。まあお前もまんざらでもなかったんだろ」

「いい加減にして下さい! 氷室さん、そういうことするのよくないです。とくに私みたいにふらふらしているような女には刺激が強すぎます。それじゃ私ここで失礼します」

 なゆみはちょうど青に変わった横断歩道に向かって走って去っていった。

 氷室は呆然とその場で佇んでしまう。

 ──あれは本気だったんだ。アーネストラブだったんだよ!

 叫びたい気持ちの中、信号が点滅して赤に変わった。

 目の前を車がひっきりなしに通り、向こう側を歩いているなゆみとの溝をくっきりと見せつけていた。

 追いかけることもできず、氷室は道路の反対側で相手にされない道端に転がる石ころのようにちっぽけなっていた。

 まだまだ、隔たりがありすぎて、ストレートに気持ちをいったところで、コンディションのギャップは埋められなかった。

 一回り離れているおっさんでは、恋愛対象にもされないのかもしれない。

 薄暗い夜空を碌に照らすこともできない街灯の光のように頼りなく、氷室はその場で暫く佇んでいた。


 氷室さんの馬鹿!

 なゆみは抑えきれない気持ちで、足に力をいれてどしどし闊歩していた。

 だが次第に勢いはなくなり、とぼとぼに変わっていった。

 複雑に絡み合った感情のせいで、完全に迷い込んでいた。

 それは、氷室の声が耳に届いた時、自分が一瞬でも本気に受け止めてしまったからだった。

 それだけなゆみの心の中に氷室の存在が大きくなっていた。

 あのままキスをされてもいいとまで思ったとき、ふとジンジャのことが頭によぎってしまった。

 それにはっとすると、反射的に氷室を突き飛ばしていた。

 ジンジャが好きだったはずなのに、氷室と接する機会が増えるとそっちに傾きかける。

 まさにふらふらしている。

 それが許せず、自分の中のプライドが急に目覚めてしまった。

 その場限りを浮遊するふらふらした気持ち。

 それこそテンポラリーという言葉に当てはまり、自分が恋に恋して酔っている状態はもうごめんだった。

 しかし、うまく口に出せない思いに胸が詰まってすごく重苦しかった。

 

 次の日、梅雨にふさわしい雨となり、ザーザーと突き刺すように雨が振ってるのが店の中からもよく見えた。

 それもまたこの時の自分の心の中を見ているようだった。

 雨はどんどん降り注ぐ。

 店は外に面していたが、ビルの奥に引っ込んでいるため、雨が降りこんでくることはなかった。

 しかし、どんよりとした灰色の世界とべちゃっとした湿気が混ざって、そこに川野のネチネチさが加わるとかなり不快感は増した。

 さらに追い討ちをかけるように、川野は何かとなゆみに触れてくる。

 それも中途半端に幽霊が肩に手を乗せるような気持ち悪さがあった。

 一番嫌な触れ方は人差し指で背中にすーっと線を引かれることだった。

 中学にあがったばかりの頃、男子生徒がそろそろ女生徒がブラジャーをしているのか、セーラー服の上から後ろのフックを確かめようと触られた時の事を思い出した。

 気持ち悪い。

 それでも川野はニヤニヤした笑いを浮かべて、ヘラヘラとしては何も悪いと思っていない。

 それがセクハラまがいな事であるのに、なゆみはただ耐えていた。

 千恵が休憩を取っているとき、川野と二人っきりになると、口癖のように言われる言葉があった。

「斉藤、ホテル行こ」

 冗談にも程があった。

 川野は妻と娘が二人居る。それなのに何を言うのだと、冗談として交わしていたが、最近それが冗談に聞こえなくなってきた。

「嫌です」

「ありえません」

「奥さんとどうぞ」

 そう言い返しても、あのにやけた顔つきでへへへと笑うだけで効果は全くなかった。

 完璧にこれはセクハラだった。

 それでもやっぱり耐えてしまう。

 耐えるといえばもう一つ。

 あの宗教のことだった。

 留学を控えているので、アメリカに行ってしまえばフェードアウトできるとばかりに、とにかく耐えることを決め込んだ。

 相変わらず、次から次へとビデオを見せられる。

 それが結構興味深い作りなので、娯楽として観ると知識を得られた気分になってくる。

 元々聖書に書かれてあることを分かりやすく役者や絵を使って説明してるので「へー」と感心することもあった。

 しかし、どうしても一歩踏み込んではいけないとブレーキを掛けてるので、まだ真剣に信者にはなってない。

 もちろん、なるつもりもことさらなかった。

 しかしそれが相手にも伝わるのか、最近崇拝する信者にしようと大掛かりになってきたように思えた。

 日曜日だけの参加が、いつの間にか平日、仕事が終わってからも来いといわれるようになり、英会話のレッスンを差し置いてあそこへ行く回数は増えていった。

 夜参加すると、なんと夕食が出てくる。

 これも無料で、食べたいとも言ってないのに無理やりに目の前に出されてしまう。

 柳瀬もジョンも「ここの料理は本当に美味しい」と絶賛だった。

 なゆみがどんなにいらないと断っても、沢山の信者が一同に大きなテーブルに集められ、その中に座らされると一人だけ食べない訳にはいかない。

 なゆみは渋々と無理やり口に放り込むように食べてしまうのだった。

 もしかして、この料理に何か薬でも入って洗脳させようとしているのではないだろうかと本気で思うくらいだった。

 だからどんなにお腹が空いていても美味しいと感じたことはない。

「なゆみさん、ここの料理本当に美味しいでしょう。皆わざわざ食べに来るくらいいつもここに集まるんですよ。僕もその一人で、今夜のメニューはなんだろうって思うことの方が多くなりました」

 柳瀬がいつもの仏の笑みを添えながらなゆみに話しかける。

 そんな顔をされるとなゆみはいつも逃げ場を失う。

「はぁ、そ、そうなんですか」

 なゆみは笑顔を返して、目の前の料理を無理やり口にいれた。

 またそれが美味しいと思って食べているように思われるために、何をやっても彼らの思う壷に嵌っていった。

 周りの人たちを見れば、どうしてというくらいすっかり信じきって何も疑っていない。

 食後はそんな信者達と交流会のようにゲームが始まり、親睦を深める。

 はっきり言ってホラーだった。

 なゆみはこれもあと少しの辛抱だと言い聞かせる。

 アメリカに行ってしまえば姿をくらませることができる。

 これ以上の試練はもうないと思いながら、ひたすら耐えていた。

 そしてこの後、更なる大試練が待っていようとは想像もつかなかった。

 もう、一人の手では解決できなくなる段階まで来ていた。

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