婚約破棄の翌日から、なぜか格上の方々が押しかけてきます。
第1話 婚約破棄の朝と、王女の訪問
アルベルト・クライン、十八歳。侯爵家の次男であることを除けば、どこまでも凡庸な青年である。剣術は人並み、魔法は最低限、顔立ちは「悪くはない」と言われる程度。そんな彼に昨日、運命の一撃が降り注いだ。
「アルベルト様、申し訳ありませんが、婚約を解消させていただきたいのです」
婚約者——バーネット男爵家のクレア嬢、十八歳——は、緊張しているのかそれとも決意しているのか、どこか棒読みな口調でそう言い放った。
「……魅力がない、と?」
「ええ。ご不満かもしれませんが、私には夢があります。情熱的な方と、人生を共にしたいのです」
三年間の婚約期間を経て、あっさりと切り出された別れの言葉。アルベルトはしばらく黙ったのち、「……わかりました」と頷いた。傷つかなかったと言えば嘘になる。しかし反論する気にもなれなかった。魅力がない——それはあまりにも正確な評価だった。
翌朝、アルベルトは早起きして厩舎の掃除をしていた。心が痛むときは体を動かすに限る、というのが彼の持論だった。馬たちは無言で藁を食んでいる。馬は正直だ。魅力があろうとなかろうと、世話をすれば懐いてくれる。
「——こちらにアルベルト・クライン殿はおられますか」
低く、しかし澄んだ声が厩舎の入口から降ってきた。振り返ると、金髪を高く結い上げた二十歳前後の女性が立っていた。背後には護衛らしき騎士が数名。そして何より——胸元の紋章。
(あれは……王家の……)
「私はイザベラ・ヴァルトレア。この国の第一王女です」
ごく自然に名乗りながら、王女は厩舎の中に進んできた。護衛が慌てて止めようとするのを「馬の匂いは嫌いではない」と一言で封じる。
「クライン卿、単刀直入にお伺いします」
「は、はい」
馬糞まみれの手袋を外す間も与えられず、アルベルトはぼんやりと立ち尽くした。
「私と婚約してください」
世界が止まった——少なくともアルベルトにはそう感じられた。
「……え?」
「昨日、バーネット男爵家からの婚約解消届けが宮廷に届きました。私はずっとあなたのことを調べておりました。王家と釣り合う相手として、クライン卿以上の方はいないと確信しております」
「い、いやちょっと待って……まだ昨日のことが——」
「では返事は明後日まで猶予します。ご検討を」
王女は礼儀正しくお辞儀をして、踵を返した。護衛たちが大慌てで後に続く。残されたアルベルトは、馬糞の匂いのする厩舎の中で、しばらく立ち尽くしていた。
「……何が起きているんだ」
隣の馬が鼻を鳴らした。
════════════════════════════════════════
第2話 聖女のお告げと、布団の中の惨劇
翌朝もアルベルトは早起きした。王女に婚約を申し込まれた件は夢ではなかったらしく、昨夜のうちに侯爵家の家令が「殿下がお越しになったとのこと、一体何があったのですか!?」と血相を変えて飛び込んできたのが証拠だった。
返事はまだ保留中である。
「とにかく今日は普通に過ごそう」
そう決意して自室の窓を開けたアルベルトだったが、開いた瞬間、窓枠に腰を掛けていた白衣の人物がそのまま部屋の中に転がり込んできた。
「きゃっ——」
「うわっ!?」
ベッドの上に落下した白い影。アルベルトも慌てて手を伸ばし、とっさに支えようとしたが、体勢が悪くて一緒にベッドに倒れ込んだ。気づけば、白い修道服を纏った少女が自分の上に乗っている状態になっていた。
少女は目をぱちぱちとさせ、アルベルトの顔を至近距離で見つめた。
「……神のお告げが」
「……え」
「神のお告げが正しかったです。確かにここに。あなたが私の運命の人」
少女はごく真剣な顔で言った。白金の髪、澄んだ翠色の瞳。胸元には聖教会の大聖印——金細工の翼と太陽。
(あれは……聖女の証……)
「エリスといいます。聖教会の第一聖女です」
アルベルトはベッドの上で固まったまま、言葉を失った。昨日は第一王女。今日は第一聖女。
「あの、とりあえず……降りていただけますか」
「ああ、失礼を。布団が柔らかくて気を抜いてしまいました」
エリスはすんなりと立ち上がり、乱れた修道服の襟を整えた。しかしその際、窓から差し込む朝日の角度が悪く、アルベルトからは修道服の裾から白い素足がちらりと見えてしまった。慌てて視線を逸らす。
「朝から失礼いたしました。私は先月、神託を受けました。『翼なき騎士の元に向かえ』と。昨日、クライン卿が婚約を解消されたと噂で聞き、これは神の導きだと確信したのです」
「……婚約解消の情報、広まるの早すぎませんか」
「聖教会の情報網は広いので」
「威張れることじゃない気がするんですが」
エリスは小さく微笑んだ。静かで、しかしどこか温かみのある笑顔だった。
「いきなり押しかけて申し訳ありませんでした。今日はご挨拶まで。改めて正式に求婚の書状を送ります。ご検討ください」
「二人目……」
「え?」
「いえ、なんでも」
窓から帰っていく聖女を見送りながら、アルベルトは静かに確信した。自分の人生は、確実にどこかおかしな方向に転がり始めている。
════════════════════════════════════════
第3話 魔王の求婚は、庭の木の上から
三日目の朝、アルベルトは玄関から出ることにした。窓は危ない。そう学んだのだ。
庭に出ると、馬場の横の樫の木の上に、黒いコートを纏った小柄な人影がいた。
「……誰だ」
「見つかってしまったか」
枝の上から軽々と飛び降りてきたのは、黒髪に紫の瞳を持つ二十歳前後の少女だった。コートの背には黒い紋様。角はないが、その雰囲気には普通の人間とは違う何かがある。
「私はライラ・ヴォルダル。隣国バルハイムの魔王だ」
「…………」
「そんな顔をするな。私だって驚いているんだ」
ライラは腕を組み、どこか不満そうに口を尖らせた。小柄で、整った顔立ちで、言われなければ魔王には見えない。
「先日、大賢者に運命を占ってもらったら、『汝の伴侶は平凡な人間の次男』と出た。信じなかったが、詳しく絞り込んだらお前の名前が出てきた」
「……大賢者の占い精度高すぎませんか」
「千年生きているからな。で、来てみたらお前が婚約解消されたと聞いた。好都合だ」
「好都合って……」
「人間と魔族の架け橋になれる伴侶を求めていた。お前は侯爵家次男で、政治的なしがらみが少ない。顔もそこそこだ」
「そこそこ言うな」
「褒めているんだ。魔族の基準では最上級に近い」
ライラは大真面目な顔で言う。アルベルトはこめかみを押さえた。
「魔王陛下、改めて確認させてください。あなたは今、私に求婚しているんですか」
「そうだ」
「王女殿下と聖女様に続いて三人目ですが」
「……他にもいるのか」
「はい」
ライラはわずかに目を細めた。
「では競争だな」
「なんで嬉しそうなんですか」
「魔族は競争が好きなんだ。ところで今朝食は食べたか。人間の朝食とやらを一度食べてみたかった」
断る間もなく、魔王は侯爵邸の玄関に向かって歩き出していた。アルベルトは頭を抱えながら後を追った。
「なんで自分の家なのに追いかけているんだ……」
朝の厨房に魔王を通しながら、アルベルトは密かに決意した。早めに結論を出さないと、求婚者はまだ増えるかもしれない。そしてその予感は、後に正しかったと判明する。
════════════════════════════════════════
第4話 三者会談、始まりました
「つまり、王女殿下、聖女様、そして魔王陛下の三名が、私への求婚を希望しているということですね」
侯爵家の応接間。アルベルトの兄・エドワード(二十二歳)は、弟の報告を聞き終えたあと、静かに紅茶のカップを置いた。
「……弟よ」
「はい」
「お前、婚約解消されたの昨一昨日だよな」
「そうです」
「スピード感がバグってないか」
「私もそう思います」
エドワードはしばらく遠い目をしていたが、やがて立ち上がり、「家に帰る。父上に報告してくれ」と言い残して执事を呼んだ。現実逃避である。
問題はそこからだった。
アルベルトが一人で考えをまとめようとしていた昼過ぎ、応接間の扉が立て続けに叩かれた。一つ目。二つ目。三つ目。
扉を開けると、廊下にイザベラ、エリス、ライラが——三人、並んで立っていた。
「「「……」」」
三者が互いに顔を見合わせ、次の瞬間には空気が張り詰めた。
「王女殿下、こちらに何の御用ですか」とエリスが静かに言う。
「それはこちらの台詞です、第一聖女」とイザベラが穏やかに返す。
「二人とも、こいつの家の廊下でやるな」とライラが実用的なことを言う。
「えっと……皆さん、中にどうぞ」
アルベルトは反射的に全員を応接間に招き入れてしまった。三つのソファにそれぞれ座った三人は、牽制し合いながら、しかし互いに礼儀を崩さない。
「私が最初に婚約の意向を伝えた」とイザベラ。
「私は神託によって選ばれた」とエリス。
「私は大賢者の占いで指名された」とライラ。
三竦みだった。そしてアルベルトは、三人の視線が自分に集まるのを感じた。
「クライン卿、率直に聞きます。今のお気持ちは」
「……皆さんのことは、これから少しずつ知っていきたいと思っています。まだお答えを出せる段階ではないので」
三者は一斉に頷いた。不思議と、これで一致団結した空気になった。
「では我々三名で競い合うということで」とイザベラが整理する。
「承知です」とエリス。
「望むところだ」とライラ。
「私の意見は?」とアルベルト。
「クライン卿が最終決定します。もちろん」とイザベラが微笑んだ。
——こうして、侯爵家次男の、不本意な求婚レースが幕を開けた。
════════════════════════════════════════
第5話 王女との市場散策と、泥の洗礼
「デートと言うより視察では?」とアルベルトが言うと、イザベラは「王女が平民の市場を歩くのですから、視察で結構です」と答えた。しかし彼女がフードで顔を隠してこっそり来た事実から察するに、本人の意図はもう少し砕けたものだったのかもしれない。
王都の中央市場は朝から賑やかだった。野菜売りの声、パンの焼ける匂い、馬車の蹄の音。イザベラは慣れない人波に少し戸惑いながらも、目を輝かせて屋台を見て回る。
「これは何ですか」
「串焼きです。鶏肉に塩と香草を」
「食べてみたい」
「……殿下、護衛の方がついてこられてますが」
「少し離れてもらっています」
「それで良いんですか、護衛の意味が」
イザベラは少し笑って、串焼きを一本受け取った。上品に、しかし確かに美味しそうに頬張る。
「美味しい」
「市場のものは新鮮ですから」
二人並んで歩いていると、突然、前から走ってきた子供が水桶を引っくり返した。水と泥が盛大に飛び散り、アルベルトはとっさにイザベラをかばって前に出た。
泥がアルベルトの服を直撃した。
しかしイザベラの服は——残念ながら一筋、泥が白いドレスの裾に跳ねた。
「大丈夫ですか、殿下」
「私は大丈夫ですよ。あなたの服の方が……」
「気にしないでください。洗えば落ちます」
子供は青い顔でアルベルトを見上げている。アルベルトはしゃがんで目線を合わせた。
「大丈夫か。怪我は?」
「……ない……」
「ならよかった。気をつけろよ」
子供は「うん!」と元気よく走り去った。アルベルトが立ち上がると、イザベラが不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「怒らないのですか」
「子供ですし」
「服が汚れましたよ」
「洗えば落ちます、殿下の言葉を借りれば」
イザベラは小さく笑った。今日初めての、本当に自然な笑いだった。
「……クライン卿、あなたは思ったより面白い方ですね」
「褒めているのかどうか判断しかねます」
「褒めています」
帰り際、荷物持ちをしていたアルベルトが石畳に躓いた拍子に、イザベラが支えようとしてくれた——結果、二人の手が絡まって一瞬固まった。イザベラの耳がほんの少し赤くなったのを、アルベルトはちゃんと見た。
════════════════════════════════════════
第6話 聖女と二人、深夜の礼拝堂
エリスからの手紙は簡潔だった。「明日の夜明け前、大聖堂に来てください。見せたいものがあります」。
なぜ夜明け前なのか理由を問い返す間もなく、使者は消えていた。
アルベルトが大聖堂に着いたのは、空がまだ群青色に沈んでいる時刻だった。エリスは祭壇の前に一人で立っていた。蝋燭の光だけが揺れている。
「来てくれましたね」
「……夜中に女性を一人置いておくのは心配なので」
「大聖堂の中は安全です」とエリスは微笑んだが、その笑顔には少し翳りがあった。
「座ってください」
二人は祭壇に向かって並んで腰を下ろした。
「神託を受けたとき、私は正直、怖かったのです」
エリスが静かに話し始めた。
「聖女は神に仕える身。人を愛することを許されるのか——ずっと迷っていました」
「……」
「でも先輩の聖女が言ってくれました。神は人を愛せよと命じた。ならば人が誰かを愛することを、神が否定するはずがない、と」
礼拝堂の窓から、少しずつ空が白み始めていた。青から紫、紫から淡い橙へ。
「あなたに求婚したのは、神託だけが理由ではありません」
エリスはアルベルトを見た。
「子供が泥を被ったと聞きました。怒らなかったと」
「……市場のことをもう知っているんですか」
「情報網が広いので」
「本当に聖教会の情報収集力、どうにかならないんですか」
エリスは初めて声を出して笑った。鈴の音のような笑い声だった。
「怒らなかった理由を聞かせてください」
「大したことじゃないです。怒ることで何かが変わるわけじゃないし、子供を萎縮させることに意味を感じなかっただけで」
「それが、私があなたを選んだ理由です」
夜明けの光が礼拝堂に差し込んだ。ステンドグラスが色彩を広げ、エリスの白金の髪を虹色に染める。アルベルトはその光景に、思わず息を飲んだ。
「綺麗だな」
「ありがとうございます」
「……あ、いや、光が、と言いたかったんですが」
「わかっています」
エリスはまた微笑んだ。ただ、今度はかすかに頬が赤かった。
════════════════════════════════════════
第7話 魔王と剣術稽古、そして予想外の弱点
「お前、剣が下手だな」
朝の修練場。ライラは木刀を持ったアルベルトの素振りをしばらく眺めて、開口一番そう言った。
「存じています」
「なぜ直さない」
「指導者がいないんです。兄は剣を教えてくれる性格じゃないし、師範代は半年前に引退して」
「私が教えよう」
「魔王が剣術を教えるんですか」
「魔王だからこそ強い。文句あるか」
文句はなかった。アルベルトは素直に構えを取った。ライラは木刀を軽く持ち、的確に指摘を入れていく。
「重心が後ろすぎる。前足に六割」
「こうですか」
「悪くない。では一本」
ライラが打ち込んでくる速さは、人間離れしていた。いや、実際に人間ではないのだから当然だが。アルベルトはかろうじて受け流そうとして——盛大に転んだ。
「……」
「立て」
「……はい」
五本打ち込まれて五回転んだあと、ライラはさすがに手加減を覚えたらしく、ゆっくり基礎から教え始めた。その教え方は意外なほど丁寧だった。
「魔王って、こんなに根気強いんですか」
「部下の教育もするからな。魔族は飲み込みが遅い者も多い」
「意外と苦労されてるんですね」
「魔王も楽ではない」
稽古を終えて井戸で水を汲もうとしたとき、ライラが足元の石に躓いた。体勢が崩れて倒れかけたところを、アルベルトが咄嗟に抱き留めた。
魔王の体は予想より軽かった。腕の中に収まってしまったライラは、一瞬固まった。
「……放せ」
「大丈夫ですか」
「放せと言っている」
頬が——明らかに赤くなっていた。魔王の頬が。
「あなた、もしかして……恥ずかしがり屋ですか」
「魔王がそんなはずがない」
「顔が赤いですよ」
「魔族は体温が低いから血流が——関係ない! 放せ!」
アルベルトは慌てて離した。ライラはコートを整えながら素早く背を向けた。
「明日も稽古だ。遅れるな」
「……はい」
「水を汲んでおいてくれ。喉が渇いた」
ツンとした声で言って、ライラはさっさと離れていった。アルベルトは水を汲みながら、密かに思った——魔王、意外とかわいいな、と。もちろん口には出せなかったが。
════════════════════════════════════════
第8話 元婚約者との再会と、三人の乱入
クレア・バーネットがアルベルトの前に現れたのは、王都のカフェテラスだった。アルベルトが一人で本を読んでいると、向こうから声をかけてきた。
「あら、アルベルト様。お一人ですか」
「……クレア嬢」
クレアは変わらず愛らしい顔立ちで、どこか申し訳なさそうに席の向かいに座った。
「先日のことは……その、乱暴なことを言ってしまったと思っています」
「気にしていないので大丈夫ですよ」
「でも『魅力がない』なんて……」
「正直なご意見だったと思っています」
クレアは少し驚いた顔をした。「怒らないのですか」と言う。
「怒ることで何かが変わるわけでも……」
「——その言い方、好きじゃないな」
声がした。見ると、三方向から三人が近づいてきていた。イザベラ、エリス、ライラ——三者同時到着という奇跡を演じながら。
「偶然ですね」とイザベラが言う。声は穏やかだが目が笑っていない。
「お祈りしながら歩いていたら自然に足が」とエリスが言う。明らかに嘘だ。
「散歩していた」とライラが言う。王都まで散歩してきたのか、隣国から。
三人はクレアを見た。クレアは三人を見た。状況を把握するのに数秒かかったようで、それからみるみる顔が青くなった。
「こ、この方々は……」
「クライン卿の、お知り合いです」とイザベラが微笑みながら席に着く。
「仲良くしてください」とエリスが静かに言いながら着席する。
「座っていいか」とライラが着席してから確認する。
五人掛けのテーブルが一瞬で埋まった。
クレアはしばらく硬直していたが、やがて「し、失礼します」と立ち上がった。足早に去っていく背中を見ながら、アルベルトはため息をついた。
「……全員尾行してたんですか」
「「「違います」」」
三人が全員同時に否定した。
「信じられますか、その返答を」
「……信じてください」とイザベラが少し目を逸らした。
「神に誓います」とエリスが目を逸らした。
「魔王の名にかけて」とライラが目を逸らした。
アルベルトは三人のコーヒーを追加注文した。今日の読書は諦めた。
════════════════════════════════════════
第9話 感動回——父の手紙
侯爵邸の書斎に、一通の手紙があった。父・グレン侯爵がアルベルトに宛てたものだが、封筒の端が少し日焼けしていた。父は三年前から王都を離れ、北方の領地経営に専念している。
手紙の内容を読みながら、アルベルトは一人でいた。
「アルベルトへ。婚約が解消されたと聞いた。お前が傷ついていないか心配している。父として一つだけ言わせてほしい。お前は昔から『目立たない子』だった。エドワードのように剣も立たず、魔法も優れているわけでもない。だがお前は、誰かが転んだとき、必ず手を貸す子だった。それだけで十分だと父は思っている。誰かを選ぶとき、その人があなたを選ぶ理由を、ちゃんと聞いてやりなさい。愛は理由があるとき、より美しい——」
アルベルトは手紙を折りたたんだ。
窓の外では、春の光が庭を照らしていた。
父が言っていた。目立たないことは欠点ではない、と。アルベルトはずっとそれを信じられなかった。クレアの「魅力がない」という言葉は、長年心の奥にあった不安を正確に撃ち抜いていった。
でも——。
庭で、エリスが花壇の草むしりを勝手に手伝っている。聖女が草むしりをしている。
厩舎の方で、ライラが馬に人参をやろうとして馬に顔を舐められ固まっている。魔王が馬に舐められている。
廊下の向こうで、イザベラが家令のおじいさんと楽しそうに話し込んでいる。王女が家令に昔話を聞いている。
三人とも、誰も「格上」の顔をしていない。
手紙をもう一度広げた。最後の一文を読む。
「——あなたが誰を選んでも、父は味方だ」
アルベルトは窓を開けた。
「エリス様、草むしりは私がやります」
「あら、一緒にやりましょう」
「ライラ陛下、その馬は人に慣れてないので——」
「これは舐められているのか?」
「はい」
「……面白い生き物だな」
「イザベラ殿下、お茶を持ってきましょうか」
「クロウ爺や、良い方ですね」と王女は笑った。
アルベルトは思った。誰かを選ぶより先に、自分がどんな人間なのかを、もう少し知りたい。——父の手紙は、そういう意味だったのかもしれない。
════════════════════════════════════════
第10話 王宮の晩餐会と、礼服の災難
「王宮の晩餐会にご招待します」
イザベラからの招待状は美しい金細工の封筒に入っていた。アルベルトは礼服を引っ張り出し、六年ぶりに着てみた。
……着られた。かろうじて。
「少し窮屈ですが」
「問題ありません」と家令のクロウが言った。「上着のボタンを留めなければ」と続けた。
「それ、問題ありますよ」
「当家の予算では——」
「わかりました、仕立て直しは間に合わないので」
王宮の大広間は久しぶりだった。貴族たちが集い、談笑している。アルベルトはひっそり端の方に立っていたが、イザベラに見つかってすぐに引っ張り出された。
「来てくれましたね、クライン卿」
「お招きありがとうございます、殿下」
「緊張していますか」
「はい、かなり」
「正直ですね」とイザベラは微笑んだ。
エリスも来ていた。聖女として公式に招かれた立場らしく、白い礼服が眩しかった。ライラは……来ていた。黒いコートのまま。招待されたのかどうか怪しい。
問題が起きたのは食事の後の社交の時間だった。アルベルトが歩いていると、上着の背中のほつれていた縫い目が、音を立てて裂けた。
「……」
広間のざわめきの中で、静かにそれは起きた。背中がすーすーする。
振り返ったライラが表情を変えずに近づいてきて、「動くな」と小声で言った。
「え?」
「後ろを見ろと言いたいが見るな。破れている」
「……なんてことを」
「私のコートを貸してやる」
「魔王のコートを王宮で?」
「文句あるか」
「……ありません」
ライラは自分の黒いコートをアルベルトに羽織らせた。その際、後ろから腕を通させる形になり、ライラの両腕がアルベルトの肩越しに伸びる格好になった。至近距離。ライラの頬がまたうっすらと赤くなった。
「……ありがとうございます」
「早く仕立て屋に行け。みっともない」
「……はい」
コートを貸してくれた礼を言おうとしたが、ライラはさっさと壁際に移動していた。アルベルトは黒いコートを纏いながら、密かに思った——これ、隣国の魔王の紋章入りなんだが、大丈夫なのだろうか。
════════════════════════════════════════
第11話 聖女の迷子と、王都の夜景
「迷子になりました」
夕暮れの王都で、エリスからそんな伝言が届いた。聖女が迷子になるとはどういうことなのか——アルベルトは急いで向かった。
見つけたのは、商人街の路地の曲がり角だった。エリスは小さな子供を二人膝に乗せて、石段に座っていた。
「……何をしているんですか」
「この子たちも迷子だったので、一緒に待っていました」
子供たちはエリスの膝の上で眠りかけていた。長い話をしたのか、子供のほうがうっかり寝てしまったらしい。
「親御さんは?」
「探しに行ってもらっています。もうすぐ戻るはずです」
エリスは声を落として話した。子供を起こさないように。アルベルトは隣に座った。
「……聖女様って、普段どんな仕事をしているんですか」
「祈ること、病者の看病、孤児院の手伝い。あとは各地を巡回して神の言葉を伝えます」
「休みはありますか」
「……あまり」
「それは大変ですね」
「でも好きな仕事です。誰かの役に立てる実感がある」
子供の一人が少し動いてエリスにもたれかかった。エリスは静かに頭を支えた。
夕暮れが深くなり、王都に灯がともり始めた。石畳が橙に輝く。
「きれい」とエリスが呟いた。
「夜景は良いですよね」
「普段は礼拝堂にいるので、こうして外で夜を迎えることが少ないのです」
「……じゃあ今日はたまたまラッキーでしたね、迷子になって」
エリスは笑った。
「そうですね。あなたに会えましたし」
声はとても自然だった。あまりに自然で、アルベルトはどう返したらいいかわからなかった。
やがて親御さんが駆けつけてきて、子供たちは眠い目をこすりながら家に帰っていった。エリスは二人を見送って、立ち上がった。
「帰り道、教えてもらえますか」
「……またですか」
「神は道を知っていますが、私は地理が苦手で」
「それは神に頼るのが筋じゃないですか」
「神は直接教えてくれないのです」
アルベルトは先に立って歩き始めた。夜の王都を、聖女と二人で歩く——悪くない夜だった。
════════════════════════════════════════
第12話 第一期中盤——本当に好きな人って
侯爵邸の屋根に上る習慣は、アルベルトが十二歳の頃からあった。悩んだとき、考えたいとき、星を見ると少し楽になる気がした。
その夜も、三人の求婚者のことを頭の中で整理しようとして、結局できなくて、屋根に出た。
イザベラ殿下は——強くて、賢くて、しかし市場で子供の前では普通の女の子のように笑った。
エリス様は——穏やかで、信念があって、でも自分が疲れていることには気づいていないように見える。
ライラ陛下は——直接的で、不器用で、魔王のくせに恥ずかしがり屋で、馬に舐められて固まっていた。
三人とも、正直言って好きだ。
でも——「好き」と「一緒に生きていく」は別の話だ。
「クライン卿?」
下から声がした。見ると、屋根の縁から顔を出しているイザベラがいた。
「……なぜ屋根に?」
「あなたが上に行くのが見えたので。私も一度やってみたかったのです、屋根の上」
「危ないですよ」
「あなたが支えてくださるでしょう」
その言葉は自然な信頼感に満ちていて、アルベルトは思わず手を差し伸べた。イザベラが屋根に上がってくる。夜風が金色の髪を揺らした。
二人で星を眺めた。
「……殿下は、なぜ私なんですか。本当に」
「調べたからです。あなたが誰かを傷つけたことがない、と」
「それは消去法では」
「違います」とイザベラは言った。「私は王女です。政治の道具になることも、傷つけることも、ある意味仕事です。でも私の隣に立つ人には——傷つけない人でいてほしかった」
星が瞬いた。
「私も、あなたに屋根の上のことを話したかったのです。どうでもいい話を、星を見ながら。王女ではなく、イザベラとして」
アルベルトは少し考えてから言った。
「北の星座で、あの四つ星が見えますか。あそこに昔、父と来て、あの形はクロコダイルに見えると言ったら父に大笑いされました」
イザベラは空を見上げた。
「……確かに。どこをどう見ても獅子座ではなくてクロコダイルですね」
「でしょう?」
「やっとわかってくれた人がいた」
二人で笑った。星の下で、王女と侯爵家次男が、クロコダイルの話をしながら笑っていた。
アルベルトは思った——こういう時間を、もっと知りたい。三人それぞれと。それが、自分なりの答えへの近道なのかもしれない。
第13話 魔王の国から、緊急使者
騒動が起きたのは朝の七時だった。
侯爵邸の門前に、黒い制服に身を包んだ魔族の使者が五名、整列して立っていた。家令のクロウが「どちら様ですか」と恐る恐る出ると、使者の一人が羊皮紙を取り出して読み上げた。
「我らはバルハイム魔王国より遣わされた特使一行。ライラ・ヴォルダル陛下の御身の安全を確認するため、参上いたしました」
「……ライラ陛下なら昨日から厩舎の前で馬を観察しておられます」
使者たちは黙った。羊皮紙を閉じた。
「陛下、三日間ご連絡が途絶えており、国内では——」
「うるさい」
厩舎の方向からライラが歩いてきた。昨日と同じ格好で。
「心配するな、私は元気だ」
「しかし陛下、国務が——」
「書類は持ってきたか」
「は、はい、こちらに——」
ライラは羊皮紙の束を受け取り、その場で読み始めた。縁側に腰掛けて。
「……アルベルト、筆を貸してくれ」
アルベルトは何も言わずに自室から筆と墨を取ってきた。ライラは縁側で国務書類に署名を続けた。使者たちはその光景に目を白黒させている。
「陛下、せめて国へ——」
「しばらくここにいる。駄目か」
「だ、駄目とは——申せませんが——」
「では駄目ではない。分かったら帰れ。書類は定期便で送ってこい」
使者たちは困惑しながらも、魔王には逆らえない。結局、国務書類の処理場所を暫定的に侯爵邸に設置するという前代未聞の状況が生まれた。
後でアルベルトはライラに小声で聞いた。
「……国を離れて大丈夫なんですか、本当に」
「副官のガルドが優秀だ。私がいなくても回る」
「なぜそんなに——」
「ここにいたいから」
ライラはあっさりと言って、また書類に目を落とした。
「……人間の縁側は居心地が良い。魔王城は石ばかりで冷たい」
アルベルトは何も言わなかった。ただ、縁側に二人分のお茶を持ってきた。ライラは一口飲んで、少し目を細めた。
「……甘い」
「砂糖が入っています」
「魔族は砂糖をあまり使わないんだ」
「気に入りましたか」
「……まあ」
「まあ、でいいんですね」
ライラは何も言わなかった。だがお茶は、きれいに飲み干された。
════════════════════════════════════════
第14話 三人が揃うと、料理対決になる
発端は些細な一言だった。
「クライン卿、好きな料理はなんですか」とイザベラが聞いた。
「母が作ってくれた野菜スープです。シンプルなんですが、温まるので」
するとエリスが「では私が作りましょう」と言った。
「聖女様が料理をされるんですか」
「孤児院では自炊していました。得意ですよ」
「ならば私も」とイザベラが立ち上がった。「王宮の厨房で学んだことがあります」
「私も参加する」とライラが縁側から顔を出した。
「陛下、国務書類が——」
「終わった」
三人が侯爵邸の厨房に集合した。家令のクロウは「こ、これはどういうことですか」と訴えたが、誰も聞かなかった。
エリスは手際よく野菜を切り、丁寧に出汁をとった。香草の使い方が上品で、確かに料理に慣れた手つきだった。
イザベラは火加減を細かく調整し、スープの色と香りにこだわった。王宮仕込みの技が光る。
ライラは魔族の調理法を持ち込み、香辛料を大量に投入した。「魔族は辛い料理が好きだ」と言いながら。
「陛下、その量の香辛料は——」
「大丈夫だ。魔族基準だ」
「人間基準で作ってもらえると」
「……半分にする」
三つのスープが完成した。アルベルトが順番に味見した。
エリス作:優しくて温かい。確かに孤児院の台所を想像させる、素朴で心に残る味。
イザベラ作:丁寧で洗練されている。見た目も美しく、食べた後に余韻が残る。
ライラ作:最初は辛い。しかし食べ進めると複雑な旨味があり、癖になる種類の辛さ。
「……全部美味しいんですよね、これ」
「優劣をつけてください」と三人が同時に言った。
「……じゃあ母のスープに一番近かったのは」
アルベルトは少し考えた。
「エリス様のスープです。これが一番、実家の台所を思い出しました」
エリスが静かに目を輝かせた。
「……ただ、イザベラ殿下のは食後に飲みたい気分のスープだし、ライラ陛下のは寒い夜に体を温めたいときに飲みたい。全部、使いどころが違うんです」
三人は一瞬だけ顔を見合わせた。
「審査員の答えとして合格ですか?」
「「「……不合格です」」」
全員一致で却下された。
════════════════════════════════════════
第15話 イザベラの執務室と、秘密のあくび
「王宮の執務室を見せてあげましょう」
イザベラの誘いは唐突だった。断る理由もなく、アルベルトは王宮に足を踏み入れた。
第一王女の執務室は、思ったより小さかった。壁一面に本棚があり、机の上には書類が山積みになっている。窓から中庭が見えた。
「……思っていたより、ずっと働いているんですね」
「王女は暇ではありません」とイザベラは笑ったが、その笑顔が少し疲れていた。
「父王が病がちなので、代行を担う機会が増えました。弟の王子はまだ十二歳ですし」
「それは……大変ですね」
「慣れています。ただ——」
イザベラは書類の一束を机の端に置いた。
「最近、少し疲れていたのかもしれません。あなたと話すと、気が抜けるというか——王女ではなく、ただのイザベラになれる気がして」
「……それは、褒めてくれているんですか」
「ええ、もちろん」
アルベルトは棚の本を一冊抜いた。「この本、読んだことがあります。面白かった記憶が」と話題を変えようとした。
そのとき、イザベラが——あくびをした。
小さな、ほんの一瞬のあくびを、口を押さえてかろうじて隠したが——隠しきれなかった。
「……殿下?」
「……見ましたか」
「見ました」
イザベラの顔がわずかに赤くなった。王女らしからぬ狼狽だった。
「王女は人前であくびをしないものです。失礼しました」
「いえ、可愛かったと思います」
「——それは言いすぎです」
「本当のことを言いました」
イザベラはしばらく何も言わなかった。窓の外を見て、中庭の噴水を眺めた。
「……クライン卿は、変なところで正直ですね」
「昔から余計なことを言うと言われています」
「余計ではないと思います」
静かな午後だった。書類の山、本棚、窓からの光。疲れた王女と平凡な侯爵次男が、本の話をした。
帰り際、イザベラはこっそりと言った。
「今日は——ありがとうございました。気が楽になりました」
「また書類が増えたら呼んでください。話し相手くらいにはなれます」
「……必ず呼びます」
王宮の廊下を歩きながら、アルベルトは思った——この人は、強そうに見えて、本当は少し疲れているんだな、と。
════════════════════════════════════════
第16話 ラッキースケベは突然に——温泉旅館にて
領地の温泉宿を視察するという名目で、なぜか四人で旅に出ることになった。発端はライラが「人間の温泉というものを試したい」と言い出したことで、エリスが「私も行ったことがない」と言い、イザベラが「視察名目であれば問題ないでしょう」とまとめた。
アルベルトは何も言っていないのに旅の幹事になっていた。
山の中腹にある小さな温泉宿は、静かで良い宿だった。夕食は地元の山菜料理で、四人で囲炉裏端に座って食べた。
問題が起きたのは就寝前だった。
宿の廊下を歩いていたアルベルトが、角を曲がった瞬間、浴衣姿のエリスと正面衝突した。
「きゃっ——」
体勢を崩したエリスを支えようとしたアルベルトだったが、廊下が狭く、壁に手をついた形で、いわゆる「壁ドン」状態になってしまった。白い浴衣に、解けかけた白金の長い髪。至近距離の翠の瞳。
「……ク、クライン卿……」
「す、すみません、通路が——」
「い、いえ、私こそ見ていなかったので——」
ここで別の足音が聞こえてきた。
「アルベルト、まだ起きているか——」
廊下に出てきたライラが、状況を見て立ち止まった。
「……何をしている」
「違います、ちょっと衝突して——」
そこにイザベラも出てきた。三人の女性が浴衣で廊下に揃い踏みとなった。
「……」
「……」
「……」
無言の時間が流れた。
「聖女、無事ですか」とイザベラが静かに聞いた。
「は、はい、大丈夫です」
「クライン卿、弁明は」
「事故です、完全に」
「私もそう思います」とエリスが素早く言った。顔は赤かった。
「……そういうことにしておこう」とライラが言って、くるっと自室に戻った。
「では、お休みなさい」とイザベラも戻った。
アルベルトはしばらく廊下に一人で立っていた。
翌朝、朝食の席でなぜか三人全員がアルベルトと目を合わせなかった。エリスは静かにご飯を食べ、ライラはお茶の量が異様に多く、イザベラは窓の外ばかり見ていた。
温泉旅行の感想欄に、三人は「良かった」と書いた。アルベルトは「反省しています」と書いた。
════════════════════════════════════════
第17話 ライラの過去と、国境の橋
バルハイムとの国境近く、古い石橋のたたずまいは二百年前から変わっていないという。ライラが「一度来てみたかった」と言い出して、二人で馬を借りて訪れた。
「ここは?」
「私の曾祖母の代に、この橋で人間と魔族の停戦協定が結ばれた。それ以前は戦争ばかりだった」
ライラは欄干に手を置いて、川を見下ろした。水は清く、春の光を反射している。
「私は小さいころから言われてきた。魔王は孤独で当然、敵に隙を見せるなと」
「……辛かったですね」
「辛いと思ったことはなかった。そういうものだと思っていたから。でも——」
ライラは風に黒髪を揺らした。
「大賢者に言われた。汝の伴侶となる者は汝の孤独を癒すだろう、と。私は笑った。魔王が孤独を癒してもらうなど格好が悪いと思って」
「今は?」
ライラはアルベルトを見た。
「……お前と話しているとき、私は魔王ではなくなる。それが不思議だ」
「魔王じゃなくなると、困りますか」
「いや」
「じゃあ良いんじゃないですか」
ライラはしばらく黙っていた。川の流れる音だけがしていた。
「お前は、格が違いすぎると思わないか。私は魔王で、お前は侯爵家次男だ」
「思います。でも——」
アルベルトは橋の石の表面を見た。二百年の風雨が刻んだ凹凸がある。
「この橋が二百年続いているのは、強い側が一方的に作ったんじゃなくて、両方が渡れる橋を作ったからだと思うんです」
「……詩的なことを言うな」
「自分でも驚いています」
ライラは小さく笑った。先ほどより自然な、素直な笑顔だった。
「お前と来て良かった」
「私もです」
帰り道、ライラは馬上でウトウトしていた。疲れていたのかもしれない。アルベルトはそっと並走して、落ちそうになるたびに肩で支えた。ライラは目を覚ます度に「別に眠くない」と言った。アルベルトは「はい」と答えた。
════════════════════════════════════════
第18話 エリスの神託と、揺れる心
エリスから「相談があります」という手紙が来た。
大聖堂の奥の小部屋で、エリスはアルベルトを待っていた。普段と違い、少し思い詰めた顔をしていた。
「新しい神託が来ました」
「……どんな?」
「『汝の選択が、三つの均衡を決める』と」
アルベルトは腕を組んだ。
「それは、私が誰かを選んだとき、残りの二人との関係が——?」
「わかりません。神託は解釈が難しいので」
「……それは困りましたね」
「ええ」
エリスはテーブルの上で指を組んだ。
「私は正直に言います。クライン卿に選んでもらえなくても、恨みません。神に仕える者として、あなたの幸福を祈ります」
「……聖女様、それは少し寂しいことを言っていますよ」
エリスは驚いたように顔を上げた。
「寂しい?」
「好きな相手に『選んでもらえなくていい』と言うのは、寂しいことです」
「で、でも神の意思が——」
「神の意思はともかく、エリス様はどうしたいんですか」
エリスは黙った。しばらく、長い沈黙があった。
「……私は」
「はい」
「あなたと、もっと色々なところに行きたい、です。王都の夜景も、知らない市場も、迷子になりながらでも——」
言いかけて、頬が赤くなった。
「……こんなことを言うのは聖女らしくないですね」
「聖女らしくなくて良いと思います。エリスさんらしくて、十分すぎるくらいです」
エリスは少し泣きそうな顔になった。堪えるように目を閉じ、深呼吸した。
「……アルベルト様」
「はい」
「名前で呼んでしまいました」
「嬉しいです」
「……私も」
小部屋に光が差した。ステンドグラスではなく、普通の窓からの光だったが、エリスの横顔を温かく照らしていた。アルベルトはその光の中で、この人のそばにいたいという気持ちが確かに育っていることを、静かに感じた。
════════════════════════════════════════
第19話 王宮の陰謀と、三人の共闘
騒動が起きたのは王都の広場だった。
「クライン家を狙った刺客がいる」という情報を、ライラの副官ガルドが掴んできた。ライラが「私が守る」と言い出す前に、イザベラが「王家として対処します」と言い、エリスが「情報を集めます」と言った。
「……なぜ三人が全員いるんですか」
「偶然です」と三人が言った。
全員が嘘をついていた。
刺客の正体は、王女との縁談を推し進めたかった保守派貴族が雇った小者だった。本命の標的はアルベルトではなく、アルベルトを通じてイザベラを引き離そうという算段だったらしい。
「馬鹿にした話ですね」とイザベラが静かに怒った。
「人を道具に使う連中は嫌いだ」とライラが言った。
「神の前で説明できることをしなさい、と伝えたい」とエリスが言った。
三人が揃って動いたとき、その処理速度は驚くほど速かった。イザベラは王家の名で調査を命じ、エリスは聖教会の情報網で関係者を特定し、ライラは魔王として「この件に関わった者は隣国でも相応の処置をする」と一言で裏社会を封じた。
一日で解決した。
後片付けをしながら、アルベルトは素直に言った。
「……皆さん、すごいですね」
「当然です」とイザベラ。
「お互いを補い合えました」とエリス。
「お前が標的になったから本気を出した」とライラ。
「最後のだけニュアンスが違いますが……ありがとうございました」
三人は顔を見合わせた。普段は牽制し合っている三人が、同じ方向を向いていた。
「クライン卿は、守られすぎではないですか」とイザベラがため息をついた。
「もう少し強くなってほしい」とライラが言った。
「大丈夫ですよ、ちゃんと守りますから」とエリスが言った。
「……三者三様ですね」
「それで良いのです」とイザベラが笑った。「私たちが三人いる意味です」
════════════════════════════════════════
第20話 感動回——亡き母の形見
アルベルトの母が亡くなったのは、彼が十四歳のときだった。病気ではなく、事故でもなく——遠い領地の視察中に、川の氾濫に巻き込まれた。遺体は見つからなかった。
形見は一つだけ残った。小さな銀のブローチ。翼の形をした、目立たない飾り。
その日、アルベルトは普段より長い時間を庭で過ごしていた。命日だった。
イザベラが来た。珍しく先触れもなく、一人で。
「……今日は、特別な日ですね」
「……知っていたんですか」
「調べました。ごめんなさい」
アルベルトは驚かなかった。イザベラならそうするだろうと思っていた。
「お母様は、どんな方でしたか」
「……優しくて、少し天然な人でした。料理は上手いのに方向音痴で、王都に来るといつも迷子になって」
「エリスみたいですね」
「……言われてみれば」
アルベルトは少し笑った。
「父が怒ると母がのんびり宥めて、母が迷子になると父が必ず迎えに行って。二人で笑っているのをよく見ていました」
「良い御夫婦だったのですね」
「……はい」
ブローチを取り出した。銀の翼は、年月で少し黒ずんでいた。
「こんなもので我慢しなくていい、もっと立派なものを買ってやると父が言ったんですが——母は、これが一番好きだと言って。もらった日のことを覚えているから、と」
イザベラは黙ってブローチを見ていた。
「……思い出が詰まったものほど、価値があります。王宮に何百というジュエリーがありますが、あなたのお母様のブローチほど、意味のあるものは少ないかもしれない」
アルベルトはしばらく黙った。
「……ありがとうございます、殿下」
「今日だけは、イザベラと呼んでください」
アルベルトは驚いて彼女を見た。イザベラは庭の向こうを見ていた。
「……イザベラ」
「はい」
「来てくれて、ありがとう」
春の庭に風が吹いた。翼の形をしたブローチが、光を受けて一瞬輝いた。
════════════════════════════════════════
第21話 告白前夜——三人の本音
アルベルトが侯爵家の庭に出ると、珍しく三人が揃っていた。しかし普段の賑やかさはなく、三人はそれぞれ離れて座っていた。
空気が少し違った。
「……今日は静かですね」
「考え事をしていました」とイザベラが言った。
「私も」とエリスが言った。
「同じく」とライラが言った。
アルベルトは庭の中心に立った。
「……一つ、聞かせてください。皆さん全員に」
三人が顔を上げた。
「私のことが好きな理由を、もう一度だけ教えてください」
沈黙があった。
最初に口を開いたのはイザベラだった。
「あなたは誰かが転んだとき、必ず手を貸します。それが王女でも子供でも、格に関係なく。私は長い間、格に縛られた場所に生きてきました。あなたの隣にいると、その縛りが解ける気がする」
次にエリスが言った。
「あなたは私が『聖女でなくていい』と言ってくれた。神に仕えることは誇りですが——ただのエリスでいられる場所を、生まれて初めて感じました」
最後にライラが言った。
「お前は私が魔王だと知っていて、怖がらなかった。対等に話してくれた。私は生まれてから一度も、対等に話されたことがなかった」
三人の声が、庭に染み込んでいった。
アルベルトは深呼吸した。
「……ありがとうございます。全員の言葉が、本物だと感じます」
「だから答えが出ないのですか」とライラが静かに聞いた。
「はい」
「……それは誠実だと思う」とライラが言った。
「急かしません」とイザベラが言った。
「ゆっくりで大丈夫です」とエリスが言った。
星が出始めていた。三人は互いに少し近づいて、四人で星を見た。
この夜のことを、アルベルトはずっと覚えているだろうと思った。
════════════════════════════════════════
第22話 一期決着前夜——ライラからの挑戦状
手紙が届いたのは夜だった。封蝋に魔王紋。開けると一言。
「明日の夜明け、国境の橋へ来い。一対一で話したい。——ライラ」
翌朝の橋は霧に包まれていた。
ライラは橋の中央に立っていた。コートが霧に濡れている。
「来たか」
「来ました」
「一つ聞く。私は三人の中で、一番不利だと思うか」
アルベルトは答えを考えた。
「……正直に言っていいですか」
「だから来させた」
「最初はそう思っていました。王女殿下とは人間の国で会いやすい。エリス様とは信仰という共通の基盤がある。ライラ陛下とは——国が違いすぎる、と」
「だろうな」
「でも今は違います」
霧が少し晴れた。川面が光を反射した。
「ライラ陛下と話すとき、私は一番自分らしくいられる気がします。飾らなくていい。敬語も少し崩れる。叱られるし、直されるし、馬に舐められるのを一緒に笑える」
「……それが理由になるのか」
「十分すぎる理由だと思います」
ライラは黙った。霧の中で、魔王が黙っていた。
「……お前は本当に、平凡な侯爵次男だな」
「自覚しています」
「それが——好きだ」
声が少し小さかった。霧が吸い取っていったかもしれないが、アルベルトにはちゃんと届いた。
「私も、ライラ陛下のことが好きです」
「魔王に向かって、はっきり言うな」
「言わないと伝わらないと思ったので」
ライラはため息をついた。しかし口元が——確かに、緩んでいた。
「帰るぞ。朝飯を食わせろ」
「砂糖入りのお茶も?」
「……まあ」
「まあ、でいいんですね」
「うるさい」
二人は霧の橋を歩いた。魔王と侯爵次男が、朝ごはんの話をしながら。
════════════════════════════════════════
第23話 最終章前——選択の重さ
アルベルトは三日間、一人で考えた。
誰とも会わず、手紙も出さず、庭を歩き、星を見て、父の手紙を何度も読んだ。
三人全員が本物だった。三人全員のことが好きだった。選ぶのは残酷だと思った。でも選ばないことは、三人を宙ぶらりんにすることだ。それはもっと残酷だった。
四日目の朝、アルベルトは三人に手紙を書いた。同じ文面ではなく、一人一人に別々の内容で。
「侯爵邸の庭に来てください。お話があります」
三人が来たのは昼過ぎだった。
庭に椅子を三脚並べて、アルベルトは立っていた。
「座ってください」
三人が座った。
「……答えが出ました」
沈黙。
「私は——三人全員のことが好きです。これは本当のことです。誰かを偽って言っているわけじゃない」
三人は黙って聞いていた。
「でも、選ばなければいけない。それも本当のことです」
「——はい」とイザベラが静かに言った。
「わかっています」とエリスが言った。
「続けろ」とライラが言った。
「私が選ぶのは——」
アルベルトは深呼吸した。
「——今日は、まだ言えません」
「……え」と三人が言った。
「あと一日だけ待ってください。明日の朝、もう一度ここに来てもらえますか。理由があります」
「理由は?」
「今夜、もう一度それぞれのことを考えたい。選ぶ理由を、自分の中で一番誠実な言葉にするために」
三人は顔を見合わせた。
「……わかりました」とイザベラが最初に言った。
「一日なら、待てます」とエリスが言った。
「……仕方ない」とライラが言った。
アルベルトは頭を下げた。
「ありがとうございます。明日——ちゃんと答えます」
夕暮れの庭で、四人は少しだけ並んで空を見た。誰も何も言わなかった。それでも、その時間は穏やかだった。
════════════════════════════════════════
第24話 第1期終幕——「また明日も、ここに来てください」
翌朝、夜明けより少し早い時刻に、三人が揃った。
庭には朝露が光っていた。空はまだ薄く、星がいくつか残っていた。アルベルトは庭の中央に立っていた。
「来てくれてありがとうございます」
「……昨夜は眠れましたか」とイザベラが聞いた。
「少しだけ」
「私もです」とエリスが言った。
「私は眠れた」とライラが言った。「……嘘だ」と続けた。
アルベルトは深呼吸した。
「昨夜、一晩考えました。誰が一番好きか、ではなくて——誰と一緒にいる自分が、一番誠実でいられるか、と考えました」
三人が静かに聞いていた。
「イザベラ——あなたと話すとき、私は自分の言葉が信頼されていると感じます。それが嬉しかった」
「エリス——あなたと話すとき、私は急がなくていいと感じます。それが救いでした」
「ライラ——あなたと話すとき、私は何も隠さなくていいと感じます。それが、一番楽でした」
空が少しずつ白み始めた。
「私の答えは——」
アルベルトは三人を見た。
「——今すぐ一人を選ぶのではなく、もう少しだけ、三人のことを知らせてほしい」
「それは答えではないですよ、クライン卿」とイザベラが困ったように笑った。
「神様も呆れているかもしれません」とエリスが言いながら、しかし目が笑っていた。
「……お前らしい」とライラが言った。怒っていなかった。
「すみません」
「謝らなくていいです」とイザベラ。
「答えが出たとき、ちゃんと言ってください」とエリス。
「——次に会うとき、少しは成長しろよ」とライラ。
空が橙になった。鳥が鳴いた。庭の朝露が光を返した。
「……三人とも、また明日も来てください」
「来ます」
「来ます」
「……来る」
アルベルトは笑った。情けない答えに、三人が笑って「来る」と言ってくれた。
婚約破棄から始まったこの騒動は、まだ終わっていない。むしろここから始まるのかもしれない。格上の三人が、平凡な次男の庭に毎朝来る日々が——まだしばらく続きそうだった。
◆ 第1期 完 ◆
——次期へ続く——




