パンチとジュディは霧の中
1887年11月、ロンドンの霧は例年にも増して濃厚だった。テムズ川から立ち上る湿気と工場の煤煙が混じり合い、石畳を煤けたベールで覆う。ガス灯の頼りない光が水中の泡のように霧の中に浮かんでいた。
だが、その一角だけはまるで空気の色が変わったかのように賑やかだ。
木製の簡素な舞台。大道芸人たちが“ブース”と呼ぶ小さな箱の中で色褪せた布の幕が揺れ、甲高い声が通りのざわめきを突き破る。
「さあさあお立合い、ミスター・パンチの登場だ! ロンドンじゅうでいちばんの悪たれ、小さな紳士さ!」
よく通る、澄んだ少年の声だった。
少年は煤けた帽子を目深に被り、ゆるいシャツの裾をズボンにねじ込んでいた。線の細い顎、日焼けした首筋、ところどころ継ぎを当てた袖。白くしなやかな指先だけがやけに上品で、そして器用だった。
「さあ、パンチさんのお出ましだ!」
木を打つ乾いた音。少年は右手にはパンチ、左手にはジュディの手遣い人形をつけて、枠の中で滑稽な争いを演じ始める。
「俺さまがパンチだよ! そしてこれがジュディ、俺の愛しい女房さ!」
鼻にかかった人形の声に子供たちが笑い声をあげる。肩を竦めて通り過ぎる紳士もいれば、恋人につつかれて懐の小銭を投げてやる者もいた。
少年は巧みに声を変え、言葉を転がし、観客の反応を窺いながら荒唐無稽なコメディを繰り広げた。パンチ人形が棒を振り回してジュディを殴りつけ、医者を殴りつけ、警官を殴りつけて死刑執行人を絞首刑にする。
英国古来のブラックユーモアがそこにあった。
しかしながら今日のジュディはいつもより気丈で口が悪い。パンチの木槌が振り下ろされる寸前、観客の中に一際目立つ姿を見つけたからだ。
煤の曇ったロンドンの景色の中で、そこだけが妙に清潔な影。昼のガス灯の下、黒いシルクハットと仕立てのいい濃紺のツイードコート。長身で細く、肩はやや華奢だが、気取った風のない優雅さがある青年だった。
青年は群衆から離れた位置に立ち、少年の人形芝居を横から眺めている。だから少年からも彼の姿がよく見えた。
片手に杖、もう一方の手にパイプをくゆらせて動く気配を見せない。表情は無関心そうで目の奥は冷たく澄んでいる。いかにもな紳士階級というやつだと、少年は頭の片隅に思い浮かべる。
「――パンチ! あんた、また悪さをしてきたね! 動物をいじめるのは、近頃のロンドンじゃ流行らないのにさ!」
ジュディにあてる声を少しだけ低くして、青年へと言葉をぶつけるように放つ。
「なんだとジュディ、生意気な! そこな紳士にでも色気を出してるんだろ!」
観客の視線が青年へ向いた。子供たちはくすくす笑い、紳士淑女の皆様は面白がって肩を揺らしている。やり玉に挙げられた彼の眉がぴくりと動いた。
「……心外だな」
そう呟く口元を少年は見逃さない。
パンチがわざとらしく肩を竦めた。
「あんなに綺麗なコートを着て、あんなにお金持ちそうな顔をして立ってる優男!」
そうさ、パンチ、とジュディが続ける。
「お金持ちの懐はロンドンの霧、暖炉の煙、貧乏人には夢の箱……」
少年は不意に言葉に詰まり、それから咄嗟に思いついたまま口にした。
「そう、『チョコレートの箱』みたいなものさ!」
子供たちの目がきらりと光る。チョコレートという言葉自体が、貧しい通りではめったに聞かれないひどく甘い響きを持っていた。
「中に何が入ってるか、開けてみるまでは分からないってわけさ!」
観客が笑う。誰かが「中身は銀貨じゃなくて、借金の山かもしれねえぞ」と野次を飛ばした。
青年の口元から細く白い煙が灰色の空へとまっすぐにのぼっていく。
少年はちらちらと彼の視線を感じながら芝居を続けた。パンチがジュディの目に一発お見舞い、もう一発どうだい? ジュディがパンチに言う、私の目が痛い――。
芝居が終わると決まってブリキの缶が舞台の前に蹴り出される。
「さあさあ、お楽しみいただけたなら、パンチとジュディにちょっとばかりパンとチーズの足しをくださいな」
少年は舞台から顔を出し、帽子を脱いで頭を下げ続ける。観客は小銭を投げ入れて散っていったが、ブリキの缶の音色が一段高く変わった時、少年は驚いて顔を上げた。
「6ペンス銀貨……」
「よく分かったね」
「……縁はないけど、それくらい知ってます。ありがとうございます、旦那さま」
少年はぶっきらぼうな口調を崩さないよう努めながら、残りの小銭が入っている缶を持ち上げた。慣れ親しんだ重さに少年はどこかホッとした気分になった。
ただ一人、レスリーの前に残った青年が尋ねる。
「君、名前は」
「レスリーです、旦那さま」
「チョコレートの箱とは面白い喩えだった。どこで仕入れた?」
「ええっと……それは」
レスリーは咄嗟に嘘を探したが、うまい答えが見つからなかった。
「誰かが言ってました。酒場の酔っ払いが」
ようやく取り繕うと、青年は少しだけ目を細める。
「ふむ。酒場で『チョコレートの箱』という言葉が出るほど景気のいい連中が、この界隈にいたとはね」
声には皮肉が混ざっていたが、レスリーへの悪意はないようだった。
「旦那さまは、チョコレート、お好きなんですか?」
問うた瞬間、青年の顔に嫌悪がさっと走ってレスリーは青褪める。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて缶を抱え込み、半歩さがる。青年は首を振った。そこに怒りがなかったことに安堵する。
「君が謝ることじゃない。単に好き嫌いの問題だ。私は……コーヒーだのチョコレートだの、あれら甘い顔をした毒がどうにも性に合わなくてね」
レスリーは思わず目を丸くする。いかにもコーヒー・ハウスでそれらを嗜んでいそうな紳士だというのに、意外だった。
「人生は苦い煙のようなものだ。甘い嘘でコーティングするよりも、灰になるまで燃え尽きる煙草のほうがよほど正直だ」
言葉と共に煙を吐きながら彼がパイプを持ち直す。その指の仕草は流れるように滑らかで、それが日常の大半であることを物語っていた。
「代わりに、煙はお好きなんですか」
レスリーは揺れる煙をじっと見つめる。青年は少しおどけてみせた。
「嫌いだが、必要なのさ」
「嫌いなのに、必要なんですか?」
「『これは鋭い薬だが、あらゆる病気や苦しみの薬でもある』」
「それなら、人生は演劇ですね。大地は舞台、天は観客、誰が間違った振る舞いをするかを座って見ている」
長身の美貌に煙を纏う姿が、かつてイングランドに煙草をもたらした人を思い出させただけだった。しかし想像以上の驚きで目を瞠る青年を見て、レスリーは内心焦る。道端の大道芸人にしては明らかに話しすぎていた。
特段、レスリーの素性を問い詰めるでもなく、青年はパンチとジュディに目をやった。
「毒も甘さもお芝居か。……ロンドンには他にも似たようなことが山ほどある」
青年は煙に覆われた灰色の空を一瞥してから、俯いたままのレスリーに視線を戻す。
「君だって、そうじゃないか?」
レスリーの手が無意識に自分の帽子を握り締めた。慌ててそれを目深に被り直した。
腕に抱えたブリキ缶を見つめる。青年が投げた、花嫁のための6ペンス銀貨がレスリーの視線を否応なしに惹きつけた。
「どういう意味ですか」
「大した意味はないさ。ただ――」
青年の目元が先ほどの芝居を思い出したように細められる。
「君のジュディは、ずいぶん賢いね。パンチが何をしでかすか、すべてお見通し。よく街を見ている者の声だ。誰が間違った振る舞いをするか」
彼の指先から、細く白い煙が立ちのぼる。レスリーは青年の名前を尋ねてみたい気がした。
「あれはロンドンそのものだ。暴力的で、理不尽で、滑稽で、どういうわけだか誰もが目を離せない」
レスリーは木箱の中で眠るパンチとジュディを振り返る。幕越しに生き生きと動く二体の人形は、劇が終わって幕が引かれた今はただの布に過ぎなかった。
「旦那さまも、目を離せませんでしたか」
「そうかもしれないな。仕事へ戻るところだったのに、つい足を止めた」
「お仕事」
「君たちが一日を銅貨で数えるように、私は一日を紙で数えている」
青年は杖の先で石畳を小さく鳴らした。
「このあたりの貧民窟の管理を一部任されていてね。家主たちの顔ぶれは、パンチほど愛嬌がない」
レスリーは体の奥が冷えるような心地がした。それを見て青年は苦笑する。
「まあ、安心したまえ。私は君の主ではないし、敵でもないさ」
青年はレスリーを安心させるようにあえて軽い調子で続けた。
「ただ、君のような幼い大道芸人がどこに寝起きしているのか、少しばかり興味はある」
レスリーは咄嗟に嘘の住所を言いかけて飲み込んだ。青年の目は鋭いが、嘘を投げつけるには澄みすぎている。
「橋のたもとですよ。どこの誰にとっても都合がいい」
結局、半分だけ本当のことを言う。青年は静かに煙を吐いた。
「それでは煤に汚れて風邪を引く」
「風邪を引いてる余裕もありません。もしそうなったら、パンチもジュディも真っ黒になって黙りこくってしまうだけです」
「それは困るな」
青年はふと目元を和ませ、少しずれていたレスリーの帽子を何気ない仕草で直してやった。
「明日もここで?」
「おそらくは」
「では――これを」
青年は上着の内ポケットから上品な包みを取り出した。この界隈では滅多に見られない、上等そうな真紅の包装の四角い箱だ。
「それは?」
「開けてみるまでは分からない」
青年はどこか皮肉めいた、けれど妙に楽しそうな目で言った。
「君の『チョコレートの箱』さ」
レスリーのブリキ缶の上に箱が置かれる。思っていたよりも軽かった。
歩き出した青年は杖で石畳を叩き、霧の向こうへ遠ざかりながら声を投げた。
「中身が気に入らなかったなら、遠慮なく捨てたまえ。私はチョコレートが大嫌いだからね」
その背中が煙に溶けて見えなくなるまで、レスリーは動けなかった。胸の中で蒸気機関が暴れているようだった。
テムズ川沿いの湿った倉庫の影に座り込み、レスリーはようやく昼間もらった箱の包みを解く決心がついた。金の細い紐、角もほとんど潰れていない、箱だけでも価値が高そうな逸品だった。
貧しい通りのどこにも属さない、異質なほどの清潔さがある。自分が触れることで煤汚れがつくのが悲しくなるほど。
「……チョコレートの箱」
そっと呟き、レスリーは伸ばした袖で指先を覆いながら、そっと金の紐をほどく。指が少し震えた。パンチとジュディを扱うよりも繊細に、丁寧に。蓋を開けると甘い匂いがふわりと立ち上る。
中には整然と並んだ小さなチョコレート菓子と、二枚のカードが置かれていた。
一枚は女性らしい優雅な筆跡だ。
“ウォルターさん。あなたがアメリカの金持ち娘と私を嫌っていることは理解しています。けれどこの結婚は、きっと私たちに幸運をもたらしますわ。愛を込めて、Rより”
レスリーは息を呑んだ。どうやらこれはどこかの女性からウォルターさん……あの青年に贈られたものらしい。そして、つい笑ってしまった。
「ほんとにサー・ウォルターだなんて。だから煙草に塗れているのね」
さらにもう一枚は、立ったまま慌てて書きつけたかのような筆跡だった。
“もし君がパンチではなくジュディのほうなら、チェルシーのある邸宅で賢い花嫁を探している。そうでないなら、もう一枚を新聞社にでも持って行ってやれ”
パンチではなくジュディのほうなら。彼は、気づいていたのだ。レスリーが少年を演じているだけだと。パンチの影に隠れて、ジュディの声を生きていることに、気づいていたのだった。
震える少女の指でレスリーは箱の中のチョコレートをつまんだ。思い切って口に放り込むと、濃厚な甘さに微かな煙の匂いが残っている。
甘い顔をした毒。これは鋭い薬だが、あらゆる病気や苦しみの薬でもある。
自分はどちらなのかとレスリーは思う。少年の顔で少女の中身を隠している。かつての人生をなくして汚れた橋のたもとに暮らしている。パンチの芝居でジュディの本音を語っている。
舌の上で甘ったるいチョコレートが溶けていく。
テムズの川面を遠くのガス灯の光がぼんやりと揺らめいた。ロンドンの霧――その実、街が吐き出した蒸気と煙の向こう側、どこかの上等な屋敷の窓も同じように灯っているのだろう。
コーヒーとチョコレートを嫌う、煙草好きのひねくれた青年紳士が、きっと今もそこにいる。
明日の朝も霧のチャリング・クロスに再びパンチとジュディの声が響くのか。あるいはチェルシーに建つ大邸宅で、今度は花嫁の靴に6ペンス銀貨が投げ入れられることになるのか。
チョコレートの箱の中身を、まだレスリー自身も知らないのだった。




