第3話 斗戸 千種
やはり声の持ち主は男だった。濡羽色の黒髪は自然にかきあげてセットされており、淡いココア色の色付き眼鏡からチェーンのグラスコードが垂れているのが一番に目につく。眼鏡を掛けているせいか、年若い青年にも見えるし、色香の匂い立つ三十路余りにも思える、そんな掴みどころのない男。
男は黒ジャケットにグレーのベストを着こんだスリーピーススーツを身に纏っており、闇を思わせるその黒は、所々が金色刺繍で控えめに彩られている。
それは、闇夜に紛れる猛禽類のような、どこか気高さや妖麗さを感じさせる、不思議な雰囲気を持った男であった。
「やっと、見つけた」
不意に、綺麗に弧を描いて口角を上げていた男の口が、そんな風に動いた気がした。それに併せて、色付き眼鏡の奥にある、男の金色の双眸と確かに目が合う。
あちらからは、御簾の内側に居る常若の姿は輪郭ほどしかわからないはずだというのに。
常若は思わずはっと息を吞んで、目を瞠らずにはいられなかった。
何故なら、男以外の邦神局員——否、今まで出逢ってきた殆どの人間たちが、呪いの神たる常若と目を合わせようとしたことなど一度もなかったからだ。
だというのに、あの男は常若を恐怖し、怯えるどころか真っ向から目を合わせようとしてきて、まるで殺意にも似た「逃がさない」とでも言わんばかりの強烈な思念を向けてきた。
そんな人間に、常若は生まれてこの方、一度も遭遇したことなど無い。ゆえに、心の底から驚愕したのだった。
(あの人間は、肉塊じゃない……あれは、なに? あんな人間、見たことない)
常若は未だに己へと強烈な思念やら気迫を向けてくる男から咄嗟に目を逸らし、肌が粟立った己の腕を摩った。
「……斗戸。許可なく出しゃばるな。無礼だぞ」
「あー。すみません、つい」
中年邦神局員が慌てて男を叱りつけるも、男はどこ吹く風といったように、軽い声色で返事をする。中年の邦神局員は震える息を吐いて、恐る恐る顔を上げながら、常若に男を指し示して見せた。
「失礼いたしました。〈呪いの客神〉様。この男が、あなた様の結婚相手となります雇いの神使——斗戸 千種です。斗戸はもともと五大家門〈風の家〉の生まれでして、幼少期より神使専門学校へと通って首席で卒業を果たし、二十歳にして邦神治安総局の正規局員と成った優秀な人材です。数年前に邦神治安総局を辞職し、現在はフリーの身ではございますが、今でも邦神治安総局と密接な関係を築いておりまして……」
「こっぱずかしいんで、俺の経歴等はそこまでで。あとは、俺から自己紹介させてください」
中年邦神局員をやんわりと遮ると、常若の結婚相手と成る男——千種は、常若が鎮座する〈箱〉のすぐ目の前までやってきて、両の掌をゆっくりと畳につき、恭しく頭を下げて見せた。
「先ほどは失礼しました。改めまして——斗戸 千種と申します。この度は万枝 常若さまの伴侶とさせていただくこと、幸甚の至りに存じます」
「……!」
御簾越しだというのに、また目が合った気がする。
常若は今までに遭遇したことのない、千種という「未知の人間」の出現に、何にも代えがたい驚愕と共に茫然とせずにはいられない。
そんな常若の心境を知ってか知らずか、千種はすぐに頭を上げると背後を振り向き、固唾を呑んで成り行きを見守っていた邦神局員たちへと明るく声をかけた。
「それでは、ここから先は俺と常若さまの二人だけで、今後のお話をさせていただきますので。皆さんはもう、よろしいですか?」
にこやかな様子の千種だが、それは暗に「ここから早く出て行け」とでも言っているようなものだった。
中年邦神局員が、そんな千種の態度に僅かに眉をひそめたが、すぐに大きなため息を吐き出すと、その場に立ち上がって千種に頷いて見せる。
「わかった。我々は早々に撤退させてもらう。お前の要望通り、この屋敷にはもう使用人も寄越すことはない。後はくれぐれも任せたぞ。何としても——任務を遂行せよ。いいな? 斗戸」
そう早口で言い残して、中年邦神局員は他の局員たちも連れ、常若の屋敷から足早に去って行ったのだった。
「……何であんなに何人も局員連れて来たんだ? あの人一人と俺だけでよかったろ。意味わかんねぇ」
邦神局員たちを玄関まで見送ってきた千種がそんなことをぼやきながら再びこちらに近づいてくると、やはり常若が居る〈箱〉のすぐ目の前へと座る。今度は正座ではなく、胡坐をかいた楽な姿勢だった。
二人きりとなった空間で、常若は千種に反して何となく姿勢を正す。この千種という未知の人間は何を仕掛けてくるのか、予測不能だったからだ。
「では、常若さま……いや、この呼び方。流石にお堅すぎるな。もっとこう、いい感じの……あ、若さん。若さんって呼んでいい?」
ただでさえ名前を呼ばれることすら殆どなかった常若を、千種は何やら愛称のようなもので呼び始めた。何となく身構えていた常若は、思わず目を丸くして、しばたたかせる。
「……別に、いいけど」
「おお、やった。んじゃ遠慮なく。若さん」
千種は眼鏡の奥の目を細めて、少しだけ歯を見せるように綺麗に口角を上げた。
それはきっと、「笑っている」というものなのではないかと、常若は本能的に悟った。
自分の名前を呼んでくれる人間。自分に笑いかけてくれる人間。
そんな未知で、不思議で、ただの肉塊には思えなくなった人間——千種という、ほんの一瞬だけで常若に色々な「初めて」を体験させてくる人間を前に、常若は何だか今までに感じたことがないような落ち着かない心地がして、胸元の襟を片手できゅっと握った。




