第20話 貴女に俺の全てを捧げたい
そこでふと、不思議な意匠の下駄を履いた誰かの足が視界の端に映った。気配など微塵も感じなかったのに。
千種は恐る恐る、ゆるりと顔を上げる。
そこには、亜麻色の髪と銀色の瞳が特徴的な十二、三歳くらいの少年とも少女とも見て取れる、中性的な子ども——否、〈客神〉が立っていた。
千種は神気の感知に人一倍優れているため、子どもから溢れんばかりに漏れ出ている神気から、その子は紛れもない〈客神〉なのだと本能で悟ったのだ。
客神は片手でおもむろに鳥籠へと触れる。
次の瞬間、パキン! と甲高い音を響かせて、鳥籠全体に巨大な亀裂が入り、ほろほろと砂の如く封印が崩れてゆく。
同時に、鳥籠の中からはこの身をずたずたに切り裂かんばかりの、強烈な暴風が溢れてきた。
暴走した一颯の、〈風の客神〉の異能だ。
千種は荒れ狂う暴風に煽られて、吹き飛ばされる。
(封印の呪いが解かれた? 客神たちが数人がかりで構築した呪いの術式やぞ? それが、なんで……あの子が、やったんか?)
千種は困惑しながらも、一颯の異能による暴風に吹き飛ばされぬよう、必死に地面にしがみついて、飛ぶ斬撃ともいえる暴風に晒された小さな客神に手を伸ばす。
『危な……! おい!』
千種は大声を発して、客神に呼びかける。
そこはあまりにも危険すぎる。そのままでは死んでしまうぞ、と。
しかし、それにも構わず、客神はずたずたに暴風に切り裂かれ、血塗れになろうとも一颯に近づいていった。
そしてどこからともなく顕現させた、鈍色に輝く釘抜き付きの大槌を一颯にかざす。
すると、一颯の周りに無数の大きな杭が現れた。それを客神は、大槌の釘抜きで全て引き抜くと、杭を小さな釘に変化させて、一気に呑み込んでしまう。
途端に、暴風が噓だったかのような微風に変わり、一颯はその場に頽れる。
それを咄嗟に、千種は駆け出して抱き留めた。
『っは、はあ、はあ……カズ……?』
腕の中に居る一颯は、規則正しい寝息を立てている。どうやら眠っているだけらしい。
一颯の無事を確認した千種は茫然として、隣に佇む客神を見上げた。
『どう、やって……カズの暴走を止めたん……?』
思いがけず、拙い口調で小さく問うた。
そんな千種の茫然とした問いに、客神はやはり少年にも少女にも思えるまろい声で、こちらを一瞥することもなく淡々と答える。
『その子。呪いの神遺の一種に、呑まれていた。たぶん、神の……ちょうあい? を受けすぎて。〈神の寵愛〉は〈神の呪い〉と、同じ。そう、習った。わたしは呪いの神。あらゆる呪いを統べる神。わたしより強い呪いは存在しない。だから、その子を縛っていた封印の呪いも、その子を蝕んでいた神の呪いも、全部喰べた。それだけ』
『……』
千種は〈呪いの神〉と名乗るその客神の答えに、絶句せずにはいられない。
千種たちはこの世に生を受けた時から、神に捨てられてきた。
先代〈風の客神〉の父親に双子だからと捨てられ、あらゆる人々に「片割れどちらかが生まれてこなければ」と数え切れないほどに罵られた。
それでも千種の片割れである一颯は一切腐ることなく、「俺ら二人で、いつか神さんも他人様も世界でいっちゃん支えられるような神使に成ったら。そしたら俺たち、双子で生まれてきても良かったんやて。ちゃんと、思える気ぃすんねん」と言って、神使を目指した。
「当代一」とも謳われる最高の神使に成ってみせた。
だというのに、また千種たちは神どもにも世界にも見捨てられた。
もう、この世の全ての神が、神を信仰する人間が、この国が、死に絶えればいいと心から思った。
希わずにはいられなかった。
神も人も世界も、何もかも全てが憎い。
今でも、そのはずなのに——。
不意に、客神がこちらを振り向いて千種たちに近づいてくると、千種と一颯、二人をまとめて抱きしめてきた。
そのあどけない顔には、「大人びている」という陳腐な言葉では言い表せないほどの無表情を湛えて。
『な……なに、を……』
千種は思いがけず、びくりと身体を揺らす。だが、やはりそれに気にした風の欠片も無く、客神は千種と一颯を柔らかく抱きしめ続けた。
『震えてる。怖かったね』
客神が、無機質な声でそう呟く。そこでようやく、千種は己が酷く震えていたことを今更に思い知った。
千種たちを抱きしめる客神のか細い腕は、明らかにぎこちない。まるで、誰かを抱きしめるのは初めてかのような、慣れない手つき。客神はそれでも、千種たちをあやすように囁く。
『昔、絵本で読んだんだ。人間の子どもには、こうしてあげるんだって』
客神が、抱きしめている千種と一颯の二人の身体をとんとん、と軽く叩く。
『もう大丈夫だよ。きみたちのことはわたしが守ってあげる——わたしはか弱いきみたちを守るために、生まれてきたから』
それはまるで、圧倒的な上位存在が、か弱く脆い生き物を意味もなく愛してしまうような。
客神の言動はそんな、歪な献身のようであった。だが、その客神はまさにその例えが当てはまると千種は思った。
何故ならこの小さな客神は、多くの客神が救うどころか、手さえ付けられなかった一颯を、あっという間に救って見せた。
底の知れないほどに圧倒的で、絶大なる強さ。
現人神どころか——正真正銘の神の如き得体の知れなさ。
しかし、それらを目の当たりにしても、千種はこの小さな客神を畏れることはなかった。
神の化身とも言える小さな客神。
だって彼彼女は——己と、かけがえのない片割れを無償で救ってくれて、無償で抱きしめてくれた。無償で、温かい体温を分け与えてくれた。
こんなことは、生まれて初めてのことだった。
たとえ歪な献身であろうとも。その献身は、泣きたくなるほど、叫びたくなるほど嬉しくて、幸せで、堪らなかったのだ。
(ああ、俺は……この人に、尽くしたい。この人にこそ、俺の全てを捧げたい。少しでもいい。この人の傍に居たい)
千種の金色の双眸から、ぼたぼたと大粒の水の珠が溢れ出す。
(この人の笑った顔が見たい。見てみたい。この人には絶対に——幸せになって欲しい)
気が付けば客神は立ち上がり、こちらに背を向けて何処へともなく歩き出していた。
鈍色の空に吸い込まれるように。黒い山々に呑まれるように。遠ざかってゆくそのか細くも小さな背中から目を離せないまま、千種は、今は眠れる片割れへと小さく語りかける。
『……決めた。カズ、俺は決めたぞ。俺は、俺たちを見捨てた人間にも、神にも、世界にも、仕えない。この世で、たった一人。初めて俺たちを掬い上げてくれたあの人を、俺はこの命を懸けて、支えたい』
千種はかつて、片割れである一颯が豪語していた「神使とは如何なる者か」という定義を鮮明に思い出した。
(カズ曰く、『神使は神も人も問わず、遍く他者を支える者』。ならば、俺という神使は……あの人を支えるために、生まれてきたんだ)
その時、千種は初めて「己の生まれてきた意味」、「己が生きる意味」を明確に見出し、何にも勝る歓びを覚えたのだった。
(俺はあの人の神使に成る——何に手を染めようとも、必ず俺はあんたを見つけ出す。あんたが、俺たちを見つけてくれたように)




