第12話 君を諦めない
一颯は最後の一撃と言わんばかりに、膝をつく常若を見下ろして扇を振り上げる。
「おい——いい加減にしろや」
不意に、今までに聞いたことがないほどの低音の声が轟き、一颯の扇を持つ手が掴まれた。
常若と一颯は、その声の持ち主を振り向いて、大きく目を瞠る。一颯の腕を掴んだのは、ずたずたに風に切り裂かれながらも、自力で風の拘束を破ってきたのであろう千種だった。
千種は未だに鼻血を垂れ流し、脂汗を滲ませた焦点の合わない目で、一颯を冷たく睨み上げる。
「ふざけんなよ、クソ野郎が……これ以上、この人に手ェ出してみろ。殺す」
「……なんやと?」
千種の「殺す」という言葉に、一颯は一瞬ひどく驚いたように息を呑んだが、すぐに眉根を寄せて低く聞き返した。それに千種は、更に低い声で答える。
「俺は神使として。俺の持ち得る全てを、この人に——若さんに捧げると、決めてる。だから若さんを傷つけるクソ野郎が国だろうが、邦神治安総局の屑共だろうが、唯一の肉親だろうが、胎ん中から一緒だった片割れだろうが、誰であろうが。絶対に俺は許さねぇ」
今度は千種が一颯の胸倉を両手で引っ掴み、静かに吼えた。
「若さんは、俺が守る。この命に代えても」
眼鏡が外れた千種の黄金の瞳が、殺気や熱によってばちばちと雷が走るように弾けている。それを前にした一颯は思いがけずといったように息を呑み、ほんの僅かに気圧されたが、すぐに己も千種の胸倉に掴みかかって、負けじと吼えた。
「大概にせぇよ……一番ふざけとんのは、お前の方やろが! なに、いつまでも強情張っとんねん! お前も呪いのヒトも、俺に負けた。せやから、いい加減、諦め……!」
「諦めない」
一颯の声を遮ったのは、常若の声。
次は、常若が地面を這うように近づいてきて、一颯の片腕と脚に縋りつくように掴みかかる。
「今までの僕なら、すぐに諦めてた。諦めるのが、当然のことだから。僕は、全てを諦めないといけない。生きていてはいけない。死なないといけない。何も求めてはいけない。それが正しいと思ってた。でも……千種だけは、諦めたくない。絶対に……!」
無機質なはずの常若の声は、今までにないほどの熱が宿っていた。無表情が常であるはずの銀色の瞳は、見たことも無いくらいに「絶対に諦めない。これだけは譲らない」という堅い意志で、燃えていた。
一颯を掴む常若の手に、更に力が籠る。それを感じ取ったのであろう一颯が、どこか困惑したような——しかし、迷子のような声で、小さく問うてきた。
「……何で?」
「千種は、初めて……僕と目を合わせてくれた人間だから。僕に『楽しい』を教えてくれた人間だから。だからもっと……一緒に、居たい。もっと、千種を知りたい。だから、千種を諦めたくない。諦めない。死んでも、諦めない」
「……!」
常若と千種の、銀と金の瞳が真っ直ぐに一颯を見据える。
「誰に何をされ、何を言われようとも——互いを諦める気など、微塵も無い」と、その四つの金銀の目が、一颯を射殺すように訴えてくる。
そんな千種と常若の鬼気迫るような形相に何を思ったのだろうか。一颯が震える息を短く吸って、二人を自分から引き剝がすように振り払うと後退る。
一颯は血が滲むほどに唇を嚙み締めると、どこか泣きそうにも思えるほどに顔を歪めて、低い声を絞り出した。
「なんっでやねん……なんで、なんで俺だけ……!」
そこまで独り言ちたかと思えば、はっと我に返ったように一颯は背後を振り向く。そして不機嫌そうに眉を顰めながら、未だ肩で息をする二人を睨みつけると、鼻を鳴らした。
「……白けたわ。お前ら、ほんまキショいねん。吐くほどキショいから、もう帰る」
そう言い捨てて、足早にその場を後にしようとする。しかし、一度足を止めたかと思えば、こちらを一瞥することもなく、小さく零した。
「俺やって、諦めへんからな。覚えとけや、ポンコツ」
最後にそう言い残して、一颯は風と共に煙の如く姿を消した。
「ここだ。この辺りで、〈風の客神〉様の神体来降が顕現したはず……」
その直後、常若の屋敷に繋がる上り坂を、スーツの男たちが上ってくる姿が遠くに見えた。見るからに彼らは、邦神治安総局の局員。しかも、どうやら一颯を捜しているらしい。
しかし、すぐに常若たちの存在に気が付くと「いかん。ここは呪いの屋敷だ……おい、戻るぞ!」とやはり恐れるように言葉を交わして、局員たちはそそくさとその場を後にしたのだった。
局員たちの姿が消えていった方を見つめていた千種が、ぽろりと呟く。
「カズ、邦神局から逃げやがったわけか。正味、邦神局はまじで嫌いですけども。今回ばかりは、ちょっと、助かっ、た……」
そんな千種の呟きと共に、常若たち二人は揃ってその場に糸の切れた人形の如く倒れ込む。
まさに満身創痍とも言える、ずたぼろの姿で隣り合って寝ころび、二人は青く透き通った遠い空を仰いだ。
「さっきの……千種のきょうだい、凄いね。神体来降で異能を完全開放して、それを神使術を以て精密に制御するなんて……そんなこと、可能なんだ。びっくりした。凄く、凄く、強かった。僕、初めて負けた」
常若が、肩で息をしながらも興奮したように千種に語り掛ける。それに千種も、荒い呼吸を繰り返しながら応えた。
「ああ……あいつ、風の客神に覚醒する前までは、もともと神使の学校に通ってたんだ。そんで、当代最高の神使なんて呼ばれるくらい、まあまあ凄ぇ奴だった。だから、客神と神使の二刀流なんて離れ業もできちゃったわけ」
千種の語る、おそらく片割れへの純粋な想いを聞いて、常若は間髪を容れず感嘆を上げる。
「凄い。かっこいいね」
「悔しいことに——正味、クソかっこいい。本人には死んでも言わねぇけど。客神に成っちまったが……カズは昔から誰よりも『神使』って職を愛してるからな。だが、次は負けねぇ……負けたままじゃいられねぇ。あいつにだけは」
千種が心底悔しそうな、しかしどこか嬉しそうな色を滲ませた声を絞り出す。
常若は首を傾けて、千種を見つめた。一颯について語る千種は、憎たらしそうにも見えるが、やはり楽しそうに思えた。
「ねぇ、千種」
「なあに。若さん」
「本当に、僕の神使になって良かったの? たった一人のきょうだい、なんでしょう? 千種の大切な人」
「……うん。これで、いいんだ」
千種にとって、一颯は大切な人。それを千種はやはり、否定しなかった。
千種は目を閉じると、己に言い聞かせるようにも聞こえる口調で、静かに語る。
「たぶん、あいつは不安なんだろうな。だけど、あいつはもう俺がいなかろうが何も問題ない。そうに違いねぇって、誰よりも俺が知ってる。それに俺も、何が何でも若さんを諦めたくないんでね。若さんを天降りさせることもあるし。何より……」
目を開けた千種が首を傾けて、常若を振り向く。ひたすらに真っ直ぐ、金色の双眸が常若の銀色の瞳を捉える。千種は初めて出逢った時から、いつもこうだ。
それが途轍もなく「嬉しい」のだと、今の常若ならわかる。
「俺ももっと、若さんを知りたい。一緒に居たいからな」
「……ありがとう。千種。たぶんこれは、『嬉しい』だ」
常若も千種の目を真っ直ぐに見返して、小さく頷く。それに千種が、如何にも嬉しそうな笑みを浮かべて、鼻から小さく息を漏らした。
「また、新しい気持ち。教えてくれてありがとう。千種」
「ふふ。それはよかった。若さんの天降り、順調なようで俺も嬉しいよ」
「うん」
二人はどちらともなく、ふらつきながら鉛の如く重い身体を起き上がらせた。
「さて、んじゃまあそろそろ家に入ろうか。手当して、その後に飯ね。いい? 若さん」
「うん。帰ろうか」
ついさっきまで、現人神同士が衝突し、今にも殺し合いそうな「きょうだい喧嘩」を繰り広げたようには思えない様子で、二人は立ち上がる。
こうして、逢魔が時を過ぎつつある薄暗闇の中を歩いて、常若と千種は再びいつもの日常に、そして二人家へと還るのであった。




