最低限度の生活を
朝、目覚ましの音より少し早く目が覚める。
窓の外には曖昧な色の空が広がっていて、今日が特別な一日になる気配はどこにもない。
けれど、それが普段どおりの生活を続けている証のようで、悪くないと思う瞬間もある。
冷蔵庫を開けると、ちゃんとした朝ごはんを作るほどの食材はない。
だけど、ヨーグルトと昨日の残りのバナナがあった。
その2つがあるだけで「まあ、最低限」と思えるのが不思議だった。
余裕はないけど、不足しすぎてもいない。
その境目で生活が保たれていく。
会社までの道を歩きながら、ふと考える。
自分の生活は“健康的で文化的な最低限度”に届いているのだろうか。
六畳一間のアパート、電気は問題なくつくし、温かいシャワーも出る。
でも、文化的と呼べるなにかが、自分の部屋にあるだろうかと考えると、胸の奥が少しだけ沈む。
本棚には大学時代に買った専門書と、読んでいない小説が数冊。
趣味に使える時間は少ないし、そもそも「楽しい」という気持ちが最近どこかくすんでいる。
昼休み、同僚は新しいカフェの話や、来月行く旅行の計画を楽しそうに話している。
その輪に混じると、自分の生活が薄く透けてしまったみたいで、会話の中に自分がいない感覚になる。
理解はできるし、話についていくこともできる。
ただ、自分の「文化的」の枠と彼らの枠が、まったく交差していないように感じる。
帰宅後、部屋に明かりをつける。
コンビニで買った野菜の少ない弁当をテーブルに置くと、静かな部屋に自分の存在だけが浮かび上がる。
“健康的”とは言いがたい食事だが、温かいものを食べているだけまだマシだ。
食べ終えたあと、ふと思い立って電気ケトルを使いお茶を淹れた。
湯気の向こうで揺れる小さな香りに、心の端が少しだけ柔らかくなる。
人が生きるための最低限は、案外すぐに満たせる。
問題は、そこから先の「文化的」をどう作っていくかだ。
ただ働いて帰って寝るだけでは、生活は続いても、人生は少しずつ磨耗していく。
それでも、お茶を淹れるというほんの小さな行為ひとつで、磨耗した部分がわずかに戻る気がする。
スマホの画面には、節約術やシンプルライフの動画が並んでいる。
どれも一理あるようで、一理だけが胸に残る。
結局、自分が欲しいのは“完璧な節約”でも“究極のミニマル”でもなく、
自分の生活が自分のものだと思えるだけの心の余白だ。
布団に入る前、机の上の読んでいない小説を手に取った。
数ページだけ読んでみる。
難しい内容ではないのに、胸の奥がじわりと温かくなった。
本の世界に少し触れたことで、ようやく「文化的」が自分の生活にも灯ったような気がした。
明日もまた同じ生活が続く。
最低限度でも、そこに自分だけの小さな灯りがあるなら、きっと生きていける。
そう思いながら目を閉じた。




