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恋愛不信

作者: 吉江和三

 晩秋のまだ暗いある日の明け方だった。遠くの寺の鐘の音が秋風に乗って耳元を霞めていく。窓に映っている紫色の夜空の白い輝きを放つ三日月が何となく美しかった。外では茶色の枯れ葉が歩道で悲しげに踊り、季節の変わりを告げている頃だ。


――― もうすぐ冬。

 

 いずれ街は冷たい白濁色の世界に包まれ、去年と同じ無機質な時が流れていくのだった。


        

 そろそろ九月も終わりに近づき、その日、赤く染まった冷たく、孤独な秋風がやや強めに吹きつけている札幌だった。仕事帰り、いつもの時間の電車に乗るため、コートの襟を立てながら桑園駅に向かっていた女は、足早に駅の自動改札機を通り抜け、昨日と同じ二番ホームの一番端、まだ誰もいない乗り場に立つと、彼女自慢の茶色の本革ビジネスバックの中から、先月、街中の書店で買った読みかけの薄いA6判小説を取り出し、つまらなそうな顔で読み始めた。

(小説が何であるかまでは知らない)

 ややもして、ふと女が振り向くと、すでに何人もの帰宅途中と思われるサラリーマンが、いつの間にか俯きながら疲れた表情で、今朝の新聞や、いつもの古く汚れた週刊誌を読んでいる。何人かの若いサラリーマンはスマホを操作していたが、彼らの表情はもはや命懸で戦う戦場の最前線の兵士そのものだった。

 そこへ電車の到着を知らせる警笛が、静かに、重く、桑園駅の碧く暮れかけた空を砕く様に鳴り響くと、その電車に乗ろうと、若干遅れて駅の改札を抜けた数人の学生達が、二番ホームのまだ人の数の少ない乗り場を目指して懸命に走って行くのだった。

 女は警笛を耳にすると、色褪せた紅色のしおりを読んでいたページに挟み、その小説を茶色のバッグに無造作にしまいこみ、顔を上げ、まだ少し遠くを走る電車の方角へ顔を向けた。そしてゆっくりとホームに近づき、次第に大きくなってくる電車を見つめ、何時も思うのだった。

『電車様は、今までの自分の淫らな生活に憤り「線路に飛び込みなさい」そうおっしゃりながら、自分を線路に誘い込んでいるのだ。俯いてる中の乗客様は、今だに線路に飛び込まず生きている愚かな自分に、ささやかな祈りを与えて下さっているのだ』。

 しかし胸中のそんな思いに反省することもなく、電車がホームに止まって、扉が開くと、女は何時ものように素早く電車に乗り込み、女のそんな思いにも構わず、後ろに並んだサラリーマンの列も女に遅れまいと、次々と電車に流れ込む・・・。と、言うよりは彼女を押し込んで来るのであった。

 この時間の混雑した電車の中では、吊革に摑まることも出来ず、乗客に揉まれて休まる暇もなく、女は無情にも立ち尽くしていた。そしていつも乗客に揉まれながら考えていた。「バスは座れるだろうか」。バスに乗っている時間は約十五分。電車を降りて、バスに乗り継いだ女は、結局今日もバスには座れなかった。バスを降りるとやや上り坂となった細い坂道の、いつ灯くのか知らない街灯の僅かな白い灯を頼りに五分程度、俯きながら既に日のトップリと暮れた誰もいない道を、再びコートの襟を立て、ゆっくりと部屋に向かって女は歩いて行くのだった。

 九月も終わりの秋なのだ、日が暮れ、暗くなった部屋はもう棺桶の中の様にさえ冷えきっている。部屋に入り、アパートの暖房を入れると、そのまま女は大の字になってベッドの上に横になり、虚しい想いを感じながら眼を瞑った。女は生命保険会社、総務課勤務の三十二歳、独身だった。

 暫くすると女はふと思った。今日は金曜日、そう、明日は休日なのだった。女は素早くベットの上の目覚ましを手に取った。時刻を見るとまだ六時半だ。今日も会社は定時で上がれたのだった。彼女は久しく飲みに出ていない事を思い出した。前の彼ともつい最近別れたばかりなのだ(私は悪くない。彼女は今も思っていた)。女は会社の同期の直美(経理課)に声を掛けてみる事にした。総務の噂からすればあの娘も今、暇なはず。それに何度も一緒に飲みに出ている仲だった。彼女は飲み相手に丁度良い。女は携帯を直美の番号に合わせ、直美と連絡を取ろうとしたが、直美はなかなか出なかった。呼び出し音が後二回、そう思って三回待った時、ようやく直美が出た。

「どう、今日これから一緒に飲まない」名前も告げずに女がいきなり言った。女の甲高い声が直美の耳に障った。直美は直ぐに女が圭子だと分かった。会社で毎日顔を合わせているのだ。彼女にはしょっちゅう誘われるが、直美は特別その日、予定もなかった。彼、安本が他の女に(確か総務の美子という噂だった)浮気に走ってしまって彼女も今、暇だった。

「いいわよ」気怠そうに彼女が言った。直美は彼と美子の情報が耳に入れば、そう思ったのだ。

 時間を決めて、場所は何時もの場所。携帯を置くと、圭子は早速、何を着て行こうか迷った。パンティーとブラ一丁で、彼女は自分の部屋の壁にかけた縁が赤の大きな姿見の前に立ってポーズを取り、モデルの様にくるりと一回転してみた。ややくびれた腰にちょっと長い足、胸はもう少しでCカップ。しかし悔しいけど間違いなく直美の方がいい女だった。圭子自身が思っていた。だからと言っちゃなんだが、彼女と居ると男が寄り付いて来るのだった。そのお零れに預かっているつもりはなかったが、彼女と飲みに出て、確かに今まで圭子もいい想いをして来たのだった。

 圭子は今日も大胆に胸のあいた赤のワンピースを着て、首には安物のプラスチックのネックレス。化粧をしながら今夜のふしだらな夜を想像してみた。激しく熱くなった物が、一層激しく高まってきた。去年のボーナスで買った安物のグッチのカバンを持って出かけた。待ち合わせの場所で、待ち合わせの時間。五分ほど経ったところで厚化粧の直美が何時ものピンクのコートで現れ、何時もの店に二人で向かった。

 

 店は週末の金曜日、店内は煙草の煙で白く煙っていたが、客の会話はリズミカルな音楽の様に耳に響いてきた。とりあえず二人は席に着き、圭子は素早く辺りを見渡していた。ビール、中ジョッキを頼むと、出てきたお通しは何時もの塩のきいた唐揚げのポテト。二人は出てきたジョッキを面倒くさそうに合わせた。

 さっそく、圭子が先手を取ろうと、黙っている直美に、とっておきの総務課での噂話をはじめた。

「直美知ってる? 安本、あんたの彼、総務の美子に声を掛けてるわよ」

 圭子が切り出した。直美はテーブルに肘をついたまま、皿に乗ったお通しのから揚げのポテトを一本手にしていた。

「エー、ホントー?」それを聞いた直美は、その噂はすでに耳にしていたが、取り敢えず驚いた振りをしてみせた。直美は口裏を合わせたのだ。

 そして軽く塩の効いたお通しのポテトを口の中に放り込むと、

「美子は今、人事の遠藤と付き合ってるはずよ」

 そう言って直美はジョッキに手を掛けた。

「だからあの子も二股よ」

 圭子はそう言うと、何度も辺りを見渡し、去年買った白のグッチのカバンからタバコの箱を取り出し、一本咥えて、ぎこちない手つきで咥えたタバコに火をつけた。メンソールだ。

「あら、あなたタバコ吸うの?」

 迷惑そうに言った直美は先日禁煙したばかりだった。

「最近ちょっとね、一日五本までよ」圭子が煙を吐き出しながら言った。

 直美はもう一本ポテトを手にすると、その先を何となく見つめながら言った。

「本数はどんどん増えていくものよ。どこまで我慢できるかしら」

 そんな二人の他愛ないやりとりで一時間ほどが経っていた。二人は少し酔ってきていた。直美がビールの中ジョッキ三杯目を注文しようとした時、突然、圭子が店の古びた天井を見上げ、祈る様に手を合わせて小さく呟いた。

「私だけのお殿様がどこかの河から下ってこないかしら? もーもたろさん、ももたろさん、何てね」

 そして彼女は六本目のタバコに火をつけた。

「そんな御伽話みたいなこと言ってるから行き遅れたのよ」横目で直美が圭子を睨みつけながら言った。

「私は別に行き遅れたと思ってないわ」圭子がはね返すように言った。

 

 そんなあらぬ噂話に花を咲かせている二人に、一人の男が目を付けていた。

スーツを身に着けた、如何にもエリートと言った風なその男は、暫くすると自らのコップを手に、徐に二人に近づいた。

「二人だけで女子会かい」男は興味深そうに、二人に声をかけたが、その時の男の視線はむしろ直美に向いていた。

 しかし男の声を聴き、男の顔を見た瞬間、圭子は心の中に艶やかに響く神の声を聴いた。そして稲妻の様に激しい電気が、頭の先から足の先まで強烈にビリビリと走り抜けていくのを感じた。「この男だ」圭子はその時、激しく思った。男はそんなことも知らずに、さり気なく二人の向かいの席に腰を掛け、そのテーブルにストレートのウイスキーの入った自らのグラスをそっと置いて、微笑んだ。

 圭子は少し赤みがかってきていた大きな目をさらに大きく見開いて、ただ男を見つめていた。心の中に電気が走り、しばらく彼女は言葉を失ってしまっていた。彼女の心の時間が止まってしまっていたのだ。

 直美は、圭子の変わり様には気付かず、男に向かって冷たく言った。

「丁度退屈していたところなの」

「あたしたち、銀行員よ・・・」直美が適当なことを言った(本当は彼女達は生命保険会社の社員だった)。

 男はその言葉にそれほど関心も無さそうに返事をしながら、その視線は探るようにジッと直美の胸元へ向けられていた。その時、男は直美の方をやや美しく感じていた。そんな男の視線を見つめ、圭子は 「直美には渡さない」強く思ったのだった。   

 そして直美が彼に自分の話をしようとしても、圭子が口をはさんで、あからさまに邪魔をし、結局、直美はほとんど男と話せずに一人でビールを飲む状態に落ちいってしまっていた。

 男は、柴田と言って、IT企業勤務の四十歳のプログラマーだった(しかし契約社員だった)。見た目も三十代そこそこ、もちろん独身だった。

 それから約一時間後、柴田とも別れ、圭子がひどく酔った直美をタクシーに乗せ、地下鉄に向かった。するとそこに柴田がいた。彼は圭子を待っていた。約束した訳ではなかった。    

 その日の札幌のススキノ地下鉄の入り口には、いやに冷たい秋風が吹き込んでいた。

 彼女は、静かに彼の手を引き、何時ものホテルへ向かった。その夜、二人はホテルのベッドの上で、激しく絡み合った。男は圭子の匂うような女に酔った。そして男の強さに何もかもを忘れかけて、なまめかしく圭子は囁いた。

「あたしたち今日あったばかりなのに・・・」そして切なげに、透き通るような思いを彼にぶつけ、自身の中の女を感じていた。

 その日の夜、圭子はホテルで赤のワンピースを着ると、コートを身に着け言った

「良かったら電話して、携帯教えるのは初めてよ」そして何時もの様に、自分の携帯番号を書いた紙を一枚、テーブルの上に投げ捨て、ホテルを出た。

 自分の部屋に戻った圭子は次の朝、目を覚ますと酷く頭が重かった。二日酔いだった。前日何があったのかもよく覚えてはいなかった。どうやって帰ってきたかすら記憶にない。何時もの通りだった。しかし一つ何時もと違う点があった。男の顔、名前を憶えていたのだった。それから一週間後、圭子の携帯に未登録の着信があった。圭子は思った。柴田だろう、柴田であって欲しい、柴田に違いない。電話は柴田だった。そして誘われるままに、何時も何処にでも彼女は彼についていった。そして半年が過ぎ、柴田がオレンヂ色の小さな箱をそっと彼女の手に握らせ言った。

「結婚しよう」

彼女は小さくうなずいた。

 これが全ての過ちの始まりだったのか?これが嘘の始まりに過ぎなかったのか?二人ともその時は何も気付いてはいなかった。

 圭子の両親は彼女の幼い頃に亡くなったらしく、彼女は市内の叔父夫婦に育てられたということだった。しかし幼い頃から彼女は叔父夫婦の手に負えるような性格ではなく、結局、のびのびを通り越して、好き放題に成長したらしかった。それが彼女の魅力の一つかもしれないが、柴田が叔父夫婦に挨拶に行った時に、嬉しそうにニコニコ笑っていた叔父の横で叔母のほうは「あの子でいいんですか?」と柴田に言ったものだった。

 結婚したことを、圭子が課長に報告すると課長はあたりまえのように笑って、

「おめでとう、ようやくか」そう言っただけだった。同僚たちからも、

「おめでとうございます」そう言って、特別なことでもなさそうに祝福された。

 直美はなにも言わなかった。


 一年が過ぎ、ある寒い冬の日の日曜だった。圭子は一人、いつものピンクのコートに今年のボーナスで買ったブランドの帽子をかぶり、電車に乗って街へ買い物に出かけていた。休日に一人で出かけるのは彼女にとって特別な事では無い。夫婦でありながら、むしろ外出は別々なことが多い。柴田は近所の古本屋へ、圭子は街へ買物に行くのだった。

 そんな何時もの休日の過ごし方に彼女は、何の疑問も抱いてはいなかった。

 その日、街に着き、電車を降りた圭子が何気に空を見上げた。するとその寒い札幌の冬の日の空は、一面を薄い鉛色の雲がどんよりと覆ってた。そしてその空一面を厚く覆った、薄い鉛色の雲の切れ間からは、時折力ない光がキラリキラリと圭子に向かって差し込んで来るだけだった。彼女には、そこからいずれ落ちてくる雪が白いとは、思えなかった。札幌の季節はもうすでに冬なのだ。しかしまだ雪は全くない。最近は、なんだか季節がずれ込んでしまったかの様に、冬の到来がいやに遅く感じられていた。


 圭子は買い物を手早く済ませると何時もの喫茶店で、コーヒーを飲むことにした。そこの喫茶店のコーヒーは、非常においしいと評判らしい。しかし圭子には、その喫茶店のコーヒーの味がまったく理解できなかった。でもやっぱり彼女はその喫茶店に行ってしまう。コーヒーの美味しい喫茶店に行ってしまう。


 ―――― なぜなのか・・・・。


 店に入って店内を見渡すと、穏やかで、柔らかな印象が彼女の目に映った。

 それは彼女の目にはまるで理解できない古典的なヨーロッパの美しい芸術の様だった。理解出来ないから尚更美しく見えてしまうのだった。店内に流れる静かな音楽も、曲名は全く分からなかったが彼女の胸には心地よく響いた。そして店内のそれらアートな様相が彼女は自分にフイットする様な気がしていた(あくまでも気がしていただけである)。

 彼女にとって、柴田と一緒に暮らす野暮な3dK、家賃五万五千円の部屋よりもずっと居心地が良かった。

 圭子はいつも外の景色が見える、一番後ろの席に座った。壁に向かい、横の席に荷物を置いて、ゆったりと座った。

 すると、いつもの店員が、後ろから彼女のテーブルに煩わしそうに近づいてきた。目つきの悪い中年女性店員だ。圭子は彼女を見て、いつもがっかりしてしまう。年齢に合わないデニムのスカートをはき、真っ赤な帽子を被っている。

 圭子がブレンドコーヒーを注文しようとすると、彼女はいつも「本日のおすすめはブラジルです」と言った。圭子はブラジル以外のおすすめを聞いたことがなかった。

 それでも何時も一瞬迷うのだが、やはり飲みなれたブレンドを注文する(本当はどっちでも同じだと思っているのだ)。店員は何も言わずに振り向くと煩わしそうにテーブルを離れた。


 店員がテーブルから離れて行って、開放感に包まれた圭子はゆったりと足を組みなおし、向かいの壁に飾かっている大きな少女の絵を見つめた。少女は悪魔的に美しい笑みを薄く浮かべながら圭子に振り向いていた。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」。店内の絵で唯一、彼女はその絵の名前も、誰の描いた絵かも知っていた。特別絵心があるわけではなかったが、彼女はその絵が好きだった。

 しばらく待つと、目つきの悪い女性店員が煩わしそうにコーヒーを運んできた。

 彼女は「お砂糖はご自由にお使いください」ニコリともせずにそう言って、無造作にコーヒーをテーブルに置くとやはり煩わしそうにテーブルを離れていった。

 圭子は壁に飾けられた絵を見つめながら、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。やはりただ苦く感じたが、これがおいしいコーヒーだと、自分自身に言い聞かせながら飲んでいた。  

 コーヒーカップを静かにテーブルに置くと、彼女は右手の肘をテーブルにつき、何時もと同じに掌に顎を乗せ、そして何時もと同じに小さく溜息をついた。

 何となく自分の顔が薄く映った窓の外を見つめると、茶色く枯れて掠れた様な色の寒そうな北風に、道行く人が揺れていた。それを眺めながら圭子は柴田の事を考えかけた。

「何をしているのだろうか?」圭子は少し気になったがやっぱり考えないことにした。

「おそらく彼も、自分の事を考えてはいない」彼女はそう思った。

 窓の外の道路には家族ずれが歩いていた。時計をみると三時を過ぎている。しかしまだ大丈夫だろう、柴田が帰るのは四時近い、何となくそう柴田を思いつつ、外の並木を見つめて冷めかけたコーヒーを飲んでいた。やはりコーヒーは苦かった。

 しばらくすると憂鬱な思いで窓の外を見つめていた彼女の目に、はでな帽子をかぶり、この寒い季節に合わない赤く短いスカートをはいた、なりそこないの女優みたいな女が映った。よくみると見慣れた顔、総務の美子だ。

 圭子が何げなく手を振ると、気が付いた美子が面白そうな顔をして店に入ってきた。彼女は別に美子に用があったわけではない。美子は店に入ってくると、圭子の向かいに腰を掛け、圭子に挑戦するように彼女の程よく肉付いた長い足を組んでみせた。彼女のその足を見た男はドキリとするに違いない。しかしこの季節にその短いスカート、寒くはないのかと圭子は不安に思ったが黙っていた。彼女は内心、思わず手を振ってしまったことを後悔した。

 圭子は、冷めたコーヒーを口に運びながらぼんやりと聞いた。

「一人なの?ご主人は?」美子はあの後、直美から安本を奪って結婚したはずだった。

「主人が子供を連れて買い物に行ってくれたから、久々にフリーの身なの。圭子も一人なの?」圭子は美子の子供という言葉にドキリとした。

 美子は、近づいてきた目つきの悪い女店員を蠅でも追い払うかのように、手を振ってコーヒーを注文した。

 圭子はカップをテーブルに置き、少し間を置いてから寂し気に答えた。

「うちは休みの日は、だいたい別々」

 彼女は何となく美子を羨ましく感じている自分に気が付き、子供という言葉にこんなに敏感に反応している自分に、彼女自身少し驚いた。  

「いいわね、そのうち子供ができるとそうともいかなくなるわ」独り言のように美子が言った。

「そんなものかしら。お宅は結婚して何年目で子供ができたの?」そんな自分の気持の動揺を直美に見透かされないように、知っていたが何食わぬ顔で圭子は訊ねた。

「いいえ、うちは子供ができたから結婚したの。できなかったら別れているところだったかもしれない。主人に逃げられないように子供を作ったってわけ。圭子も結婚した後も仕事は続けているけれど、子供ができたらどうするつもり?」

美子が探るような目つきで圭子に言った。

「分からないわ」圭子は実際自分自身で考えてみたこともなかった。彼と真剣に子供について話したことも無かった。美子はそんな彼女の気持ちも知らん顔で、運ばれてきたコーヒーカップに口をつけて、突然声を上げて叫んだ。

「あら、おいしい。このコーヒーおいしいわ」

「へー、あなたコーヒーの味判るの?ここのコーヒーおいしいって評判なのよ」コーヒーカップを見つめながら感激している美子に向かって圭子が驚いて言った。

「すごくコクを感じる。深みがあってすごくおいしいわ。圭子は感じない?」

「あなたのように、一口飲んで驚きはしなかったわ」 圭子は少し悔しそうに美子を見つめ、そして話題を変えようとわざとらしく聞いた。

「ずいぶんと若作りなかっこうしているけれど、何処に行くの?」美子は自分より年上、四十近かったはずである。

「街に買い物に行こうとしていたの。給料も出たじゃない」美子は何となく妖し気に答えた。

その格好で本当に買い物なのだろうか?圭子は彼女の話を疑った。

「あら、邪魔しちゃったかしら」圭子は別に気にも留めずに言った。

「いいわ、あたしが自分で入ってきたんだから」

 すると店内に静かに圭子の好きなビートルズの曲が流れ始めた。その時、美子が言った。「あら、素敵な曲、サイモンとガーファンクルね」

 圭子は黙っていた。

 その後、美子が何か一生懸命に話していたが、圭子は彼女の顔を何げなく見つめながら何も言わずに曲を聴いていた。彼女は美子の話を全く聞いていなかった。彼女の話が途切れ、我に返った圭子が何と無く彼女に聞いた。

「あなた、喫茶店はよく利用するの?」

「だから子供ができるとそれどころじゃないの」

 彼女は諦めた様に言うと、立ち上がり、振り向いて壁に掛かっているフェルメールの絵を見つめ

「ゴッホね、素敵」一言った。

 そして少し冷めた、コクがあって、深みの感じるコーヒーを一気に飲み干し、美子はレジも行わずに店を出て行った。

 圭子は、コーヒーを飲みながら「子供」という言葉を聞いて、これ程ショックを感じた自分に思いを巡らしていた。子供のことは、今まで自分も考えたことはなかった。柴田と二人で真剣に話し合ったこともなかった。

 圭子は店を出ると部屋へ帰ろうと、タクシーを止めた。行き先を告げて、乗り込もうとする時、ひげ面の運転手は少し渋い顔をしたが、圭子は特別気にもせずに乗り込んだ。

 タクシーを降りてマンションへ向かおうとすると、保育園の子供達が色のついた、ちいさな帽子をかぶり、保母さんに連れられて列を作り、真っ直ぐに歩いていた。

 どの子もかわいい。彼女は思わず「あの中から‶イッピキ〟さらって行きたい」ふとそんな事を思った。 


 次の日の六時過ぎ、『いつも通り』に、圭子は定時で会社から部屋に帰宅していた。柴田は、最近新しいプロジェクトが始まるらしく、プロジェクトに選抜されたと喜んでいたが、毎日残業をして、七時過ぎに圭子の後に、疲れた顔をして帰宅する事になった。

 先に帰宅した彼女は、ゆったりと風呂を済ませ、そのまま面倒くさそうに二人の食事の準備を始めるのだった。準備といってもほとんど米を炊くだけだった。あとは会社帰りにスーパーで買って来た出来合いの惣菜をレンジで温め、テーブルに並べた皿に盛り付けて行くだけなのだった。味噌汁もインスタントだった。時々、彼が仕事の帰りに自分が食べたい惣菜をコンビニで買って来る事があった。

 七時を過ぎた頃、柴田が何も言わずに、白い袋を手にして、疲れた顔をで帰ってきた。柴田がカバンをソファーに投げ捨て、ネクタイを緩め、手にしていた白い袋を圭子に渡した。中には、バス停の近くのいつものコンビニで買って来た、百円のキンピラゴボウと、温めれば美味しそうな、二百円の大根の煮付けが入っていた。それを見ながら

「お風呂は沸いているわ」圭子が『いつも通り』の口調で言った。

「ありがとう」柴田の口調も『いつも通り』だった。そして『いつも通り』の格好に着替えて、彼はバスルームに向かって行った。彼らしく、少しだらしなく、薄茶のバスタオルを首に巻き付けている。

 彼の風呂の時間はいつも二十分程度だった。圭子は男にしては少し長いような気がしていた。しかしこの間に彼女は食事の準備を終わらせてしまい、彼が風呂を上がって食卓に着くのを待つのだった。大体は買ってきた『いつも通り』の惣菜だ。

 どれも二百円程度だ。準備にもさほど手間は取らない。それを彼はおいしいと言って食べるのだから、問題ないだろうと彼女はそう思っている。

 自分も働いているのだ。

 二十分が経った。バスローブに着替えた彼は風呂から上がると、『いつも通り』黙ったまま惣菜の並んだテーブルの椅子に、腰を掛けた。

「いただきます」彼は早口に小さな声で言って、手も合わせず、やはり『いつも通り』に食事を始めた。全てが 『いつも通り』 だった。

 すると箸を持った圭子は自分が食事を始める前に、先日、美子との会話で自分が感じたことを、向かいに座って食事を始めた柴田も感じるか、感じてくれるか、彼の顔を見つめてゆっくりと話し始めた。彼女は二人がいるキッチンの明かりが何時もより暗く感じた。

「あなた、私達もそろそろ子どものことを真剣に考えない?子供をどうするかなんて二人で真剣に話したことがないじゃない?」

 圭子は、久々に柴田の目を真直ぐに、真剣に、少し強く見ながら言った。しかし柴田は驚きを超えて、なにかあきれた様な表情で圭子を見つめ、彼がコンビニで買って来た百円のキンピラを摘まもうとしていた自分の箸を止めた。

「僕らには子供は必要ないだろう。それは君も感じている事だと思っていたけど」

 そう早口に言うと、彼は止めていた箸を再び動かし、百円のキンピラを摘まみ、ゆっくりと口に運んだ。その言葉に、圭子は深い悲しみを感じた。思った以上に、彼は平然としている。

「でも、経済的にも少し余裕もあるし、そろそろ考えても・・・」圭子は少しきつく大きな声で言ったが、柴田は相変わらず、興味なさそうな表情だった。

「そういう問題じゃなく」とキンピラを、ポリポリと音を立てて噛みながら柴田は言った。

 圭子はキッチンがいつもより更に暗く、そして狭く感じられた。彼の平然とした態度、それが圭子を妙に攻撃的にさせた。

「私は子供が欲しいわ」言いながら、彼女は自分が彼に言ったその言葉に本当は恐怖心すら覚えていた。 

 柴田は無言のまま食事を続けている。圭子は箸を止め、茶碗を手にしたまま柴田をきつく見つめていた。

 彼女は時間の経つのが何か妙に遅いような気がした。

 そのまま柴田を見つめていた彼女は、時間が止まっているような感覚にも襲われた。しかし時間は何時も通りに落ち着いて流れていたのだった。

「子供を育てていくことによって、二人の結びつきが強まるものだとも思うわ」

「僕らみたいな年齢で結婚した夫婦は、子供を必要としないコンパクトな生活をすべきだ、子供ができたら、このマンションも引っ越さなければならない、教育費も掛かる、その分、貯蓄に回したほうが生活は安定するんだ。そしていずれ家を建てよう」。

 彼女は、本当に自分が子供を欲しがっているとは、思っていなかった。彼が子供と言う言葉に、どんな反応を示すか彼女は見てみたかっただけだった。ただ自分があのとき、子供という言葉に受けたショックを、自分の気持ちを柴田にぶつけているだけだった。彼が同じようなショックを感じるのか。彼女は彼にも同じショックを感じて欲しかっただけなのだ。

 また、彼女は、彼の貯蓄の本当の目的が、別な処にある事を知っていた。彼はお金を貯め、将来独立して、自分で会社を作るつもりでいるのだ。そのため今の二人の生活費は彼女の給与からだし、将来のためと言って、彼の給与は全て貯蓄していた。彼女は彼からその話を直接聞いた訳ではないが、彼の読んでいる本を見て、彼女も気が付いていた。彼女はそれには反対するつもりは無かった。助けになろうと決意していた。ただ自分に本心を明かしてくれない彼が寂しかった。

 相変わらず柴田は、買ってきた二百円の惣菜をおいしいと言って食べていた。食事の後、圭子はTVを観ていたが、柴田は『いつも通り』コンピュータの本を読み始めた。

 そして『いつも通り』の一日。何もない一日が過ぎた。


 何故かしら圭子が突然、どこでもいいから一緒に旅行に行きたいと柴田に言い出した。柴田も今、会社の新しいプロジェクトに関する仕事で少々ストレスを感じていた。「悪くない」彼もそう思い、二人は今度の三連休に京都へ出かけることにした。

 圭子は、何度も出かけている街、前の彼とも行った街だったが、京都が好きだった。行くたびに新しい感動を発見する。ホテル、飛行機、チケットの予約はすべて柴田が受け持ち、二人は一拍二日の京都旅行に出かけることにした。「たった一泊か」圭子はそう思いつつ、柴田と、二人きりの旅行は、新婚旅行で金沢へ行って以来だったので、本当は少し緊張していた。

 京都は暖かい、彼女はその暖かさを想像するだけで体温が上がって来るようだった。

 今の札幌は初雪がすでに降ったけれど、まだ根雪にはなっていないという状態だった。その頃の札幌は、街全体が少し汚い。国道はまだ、乾燥した茶色の路面が顔を出している。しかし、気温はやはり冷たい北風の吹く冬だった。寒かったのだ。

 出発の日の朝、まだ暗く、朝早い時間に、二人は起き出し、出かける準備を始めた。

 一泊だったので彼の荷物は何時もの会社に持っていくリュックに収まった。しかし圭子の荷物を見てみるとやたら大きなピンクのトラベルバックを引っ張っていた。

「何が入っているのだろう?」柴田は不思議に思った。

 部屋を出て、二人は高速バスで千歳の飛行場へ向かった。

 飛行場まで高速バスで四十分はかかった。

 七時を過ぎても、朝の空はまだ薄暗らく、やはり確実に雪の降る冬は訪れている様だった。

バスに乗ると二人は並んで後ろの方の席に座った。

 そしてしばらくすると、圭子は走っているバスの窓の外から、ようやく東の水平線が帯の様に徐々に細く、オレンヂに色づいて来るのを見た。彼女は久しぶりの美しい夜明けに思わず心が洗われる様だった。空が青く明るくなり、バスが飛行場に着くと、圭子は久しぶりに飛行機に乗ることに、心が子供の様にはしゃいだ。

 飛行機の中では、圭子は音楽を聴きながら目を瞑っていた。

 音楽はクラッシックだった、曲名など分からなかった、ただクラシックという事しか彼女には分からなかった。彼女は、滅多に、というより全く、クラッシックなど聞かないのだ。

 彼女がちらりと横を見ると、柴田は汚れた雑誌を読んでいた。「クラッシックが聞けるのに」彼女は、そう思いながら何となく優越感に浸りながら飛行機の中のクラッシックを聞いた。曲名など、どうでもよいのだ。曲を聞いて、感動を覚えれば、それで十分なのだ。そう思いながら、彼女はすぐに眠り込んでしまっていた。

「圭子、おい圭子・・・」

 柴田に声を掛けられ、気が付くと飛行機は、すでに伊丹の飛行場についている。

「よく眠っていたな」彼が言うと、圭子は恥ずかしくて顔が赤くなり、イヤホンを外し、止めたままのシートベルトをそっと外した。

 そのまま彼女は黙って彼に付いていき、二人は飛行機を降りると飛行場からバスに乗り込み京都へ向かった。そして、今晩泊まる予定のホテルに着いた。ホテルに入ると、このホテルは京都で最高級のホテルだと柴田は言った。部屋は、素敵な畳の香りのする、きれいな和室だった。前回、金沢へ新婚旅行に行った時も、畳の部屋だった。

 

 二人は荷物をまとめ外へ出た。きれいな庭園を見るために、西芳寺に行くことにした。

「西芳寺は、天平年間に行基が開いた寺で、それから六百年後に、足利尊氏が再興した寺である。衰徴していた2つの寺院をあわせて中興し、夢窓国師を迎え西芳寺と名付けたと言われている。百二十種あまりの種類を持つ、苔の庭園は、建久年間に藤原師員が作り、室町初期になって夢窓疎石が造園したとされているらしい」そのような歴史的な話が圭子は怖かった。彼女には歴史というものが、人間の死の証のように感じられる。そして未来とは自分には見えない世界、子供たちの世界、自分の存在しない世界、つまり自分の死後の世界、そう思っていた・・・。

 庭園は、まさに大きく広がる緑の大海そのものだった。圭子はその緑の大海に激しく感動を覚えた。そして二人はタクシーに乗り、京都の街中まで出てから街中を散策した。古都の時間は重く優美に流れ、この街の尊厳さを表している。

 風は静かにさざなみ、冬の光は二人を優しく照らしていた。

 山々の緑は可憐にひかり、白い雲が空にたたずんでいる。

 どこまで歩いても疲れる気がしなかった。

 圭子はいつもより柴田に寄り添って歩いた。

 街中では若く、愛らしい、芸子さんがシャナリ、シャナリと歩いている。それを見て、圭子はその芸子さんの美しさに胸を打たれていた。

 お昼は、そば屋に入った。歴史を感じさせる佇まいだった。

 久しぶりにそばを食べた。彼は山菜ちゃづけだ。京都の打ちたての茶そばは味も香りも十分楽しめた。コーヒーの味がわからない彼女でも、味も香りも素敵に感じた。

 そして甘味どころで甘いものを食べ、店員さんに久しぶりに、ご夫婦と呼ばれ、圭子はすごく嬉しそうな表情を見せていた。

 圭子は、久々に柴田と一緒に歩き、一緒に時間を過ごすのが、なぜかうれしく思えた。

 そして突然、圭子は彼女の心の中に登りあがるような思いを感じた。

「柴田はどう思っているのか。この今の二人だけの時間を、どう感じているのか」。

 言葉にして、表現してもらいたい。一言でよかった。彼女の胸の内に、強い衝動が雲の様に渦巻き登り上がって来た。そして、横を向き、柴田の顔を見てみたが、いつもと変わらなかった。彼女のその強い思いは、満たされない思いとして心の中に沈んでいった。

 夕暮れが近づいてきた。京都の街の散策もそろそろ終了だ。こうして歩き回るのも何年ぶりだったろう。圭子がそんなことを考えながら歩いていた。その時、柴田の視線が、すれ違う若い女性を、目ざとく追っていることに気が付いた。圭子は彼の右腕を掴んで言った。

 「どう、好みの女の子はいた?」彼女は柴田を見ながらきつく問い詰めた。

 「なんのことだい?」彼は一瞬ぎょっとしたが、しらばっくれた。

 「女の子を見ていたでしょ?」彼女は容赦なく問い詰めた。

 「向こうが僕を見るんだよ」柴田はさりげなく逃げた。

 「何言っているの。あなたが見るから、向こうが見るんじゃない」圭子は、柴田の逆を向いたまま、掴んでいた彼の右腕を思いっきり抓り言った。

 夕食は懐石料理だった。圭子は久しぶりに、お酒を飲みながらの食事だった。柴田は、京都の歴史を、一生懸命に彼女に話して聞かせたが、彼女の頭は酔いが回って歴史を理解するどころではなくなっていた。

 その夜、寝りについた彼女は夢を見ていた。不思議な夢だった。小さな赤い猫の様な獣が、二人のマンションの中で暴れだしたのだった。部屋の中にある、すべての生活用品を破壊して叫んでいる。なのに、柴田は圭子を置いて一人で逃げてしまった。

 彼女も彼を追いかけて必死に逃げようとしたが獣は彼女を許そうとはしない。獣はだんだんと大きくなっていく。獣はやがて二人の住んでいるマンションを破壊して叫び出した。大きなその叫びは、空に届くような大きさだった。獣はマンションを破壊すると、ほかの家々も踏み倒し暴れ始めた。激しく暴れ回り彼女に襲い掛かろうとしてくる。

 圭子は助けてほしかった。柴田に助けてほしかった。誰も居ない、柴田だけのはずなのに、彼はなぜか圭子を置いて逃げてしまった。分からなかった。柴田の今の想いが彼女には分からなかった。

 そこで彼女は目が覚めた。

 横で寝ている柴田の顔を見つめ、圭子はふと疑問に思った。

「この男は、本当に私を愛しているのだろうか・・・・」

 そんな大きな疑問を圭子は胸に抱えたまま、二人は何事もなかったように札幌へ帰り、普段の生活へと戻った。


 京都から帰った次の土曜の休日だった、圭子は今日も夕食のおかずにする惣菜を求めに一人で街のスーパーへ、そして柴田は近くの古本屋に出かけていた。その日も札幌の空一面を鉛色の綿飴の様などんよりとした雲が覆っていた。

 圭子が買い物を済ませ、電車に乗ろうと駅で並んで待っていた時だった。その時、いよいよ雪が降り始めてきたのだが、やっぱりその雪は白かった、真っ白だった。それを見た圭子は何故か思わずホッとしてしまった。どんよりとした鉛色の灰色の雲から、彼女が悔しい程に真っ白な雪が降り始めてきたのだった。そんな雪を眺めていると、しばらくして電車がやって来た。すると彼女は買い物袋を右手にぶら下げ、足早に電車に乗り込んだ。電車を降りた彼女は、マンションへの道をやはり右手に買い物袋をぶら下げ、少し駆け足になっていた。その時、マンションの近くにある交差点で、彼女が信号を渡ろうとした直前、パトカーのサイレンの音が彼女の右の耳から左の耳へ突き抜けていった。そしてそのサイレンの音に追われるように、一台の黒い車が、明らかに法定速度違反で、交差点に突っ込んできたのだ。

 圭子はこういう車を見ると、思わずその車の前に飛び込んでやろうかと思う。「そうすれば、この車の運転手の速度違反も暴かれるはずだ。自分も、正義の味方で死んでいけるかもしれない」そんな事を思ってしまっていた。

 空も暗くなって来ている。彼女は急いだ。そしてマンションに着き、カギを開けようとすると、鍵は開いていた。柴田は家にいる。少しほっとした気持ちになり、ドアを開けた。圭子が部屋に入ると、柴田は本を読んでいた。彼はよく勉強をする。コンピューターの本を読んで、一日中勉強していることもある。父親が学校の数学の先生で、よく勉強する人だったらしいのだ。その背中を見て育った彼も、やはり、よく勉強するようになったらしい。(これは柴田、本人の話だ)

 彼は今日も圭子には全く分からない、難解な、コンピュータープログラムに関する本を読んでいる。そんな柴田を見た時、圭子はいつも感じてしまう「そうなのだ、自分は、彼の頭の中にあるもの、心の中にあるものが何も理解出来ていない」

 彼女は何となく悲しみを感じた。

「今日は本屋に出かけなかったの?」圭子が本を読んでいる柴田に尋ねた。

「特別用事はなかったから」柴田は本を読んだまま、圭子を突っぱねるように言った。圭子は、何時も彼女の知らない、理解出来ない世界に没頭している柴田に、その時、大きな淋しさを感じた。彼女は部屋での彼との会話もだんだん少なくなっていく様な気がする。もう少し、自分自身の方向を向かせたいと彼女は思った。

「明日の日曜日一緒に出掛けない」圭子は思い切って聞いてみた。

 柴田は一瞬、平手打ちでも食らったような表情で驚いて圭子を見つめ、すぐに視線を本に落として言った。

「今忙しんだ」圭子は納得できない様子で、問い詰めた。

「何かあるの」思いっきり挑戦的な口ぶりで彼女は言ってみた。

「新しいプロジェクトを任されているんだ」

 柴田は投げ捨てる様に言っただけだった。悲しい思いと、悔しい思いを感じながら、ふと彼女はとんでもないことを口にした。

 自分でも、なぜそのようなことを言ったのか、分からなかった。

 先ほどの速度違反の黒い車、それとも京都の夜の悪夢のせいだったのか。

「あなた、私が死んだらどうする?」圭子は、突然強い口調で叫んだ。

「何を言っている。現に生きているだろう」それでも柴田は冷静に答えた。

 その柴田の冷静な態度が、圭子を逆にイライラさせ、彼女の心を攻撃的にした。

「でも明日、私が生きている保証はないわ。きょう寝むったら、明日目を覚ます保障はないのよ。ひょっとしたら、明日の会社帰り電車に飛び込んでバラバラに砕け散ってしまうかもしれない!もしかしたら、自動車に轢かれて真っ黒な血を流して死んでしまうかもしれない!」

 彼女は顔を赤くしながら突然立ち上がって大声で叫んだ。

「なぜそのようなことをする必要がある」

 驚いたような表情で、座ったまま、圭子を見上げながら柴田が言った。

「あなたが私を見てくれないからよ!あなたが私を愛してくれないからよ‼」

 圭子は、目に涙を浮かべて見せようとしたが、涙は流れなかった。

 柴田は黙ったまま、圭子を見上げていた。

 圭子は、何とか目に涙を浮かべて見せようとしたが、どうしても出来なかった。何も言わずに二人は暫く見つめあった。

 少しすると圭子は落ち着いて言った。 

「私たち幸せなのかしら?」                   

「今、僕らは十分に幸せじゃないか。この前は一緒に京都にも行ったじゃないか」柴田は言った。彼女は彼に、どうしても「愛」と言う言葉を口にして欲しかったのだ。しかし、自分も涙すら流せなかったのだ。た本当に自分が彼の愛を求めているのかさえ疑問を感じてしまった。

 

 圭子は、何も言わずに、その夜、柴田が寝ている間に、貯金の入った彼の通帳を持って一人でそっと部屋を出た。「これがなければ柴田は何もできないはず」彼女はそう思ったのだ。

 次の日の朝、いつも通りの朝だった。目を覚ました柴田は少し疲れていた。横に圭子がいない事にはすでに気が付いていた。テーブルに書置きがあった。

「しばらく実家に戻ります。圭子」

 彼は本当は彼女が出ていく瞬間に気が付いていたが、負けず嫌いの彼がそれを引き留めることは出来なかった。

「どうせ、三日もすれば戻るだろう」彼は思っていた。


                    *


 そろそろ一週間が経つが、彼女は帰っては来なかった。

 二人は、ほとんど意地の張り合いに陥っていた。

 

 その日、柴田はいつも通りの時間にベッドを出ると、出勤の準備を始めようとしていた。時間は六時三十分。初冬のこの季節、夜が明けるにはまだかなりの時間があった。柴田はまるで案山子のようにゆらりと立ち上がり、だらしなく衣服の散らばった煙草臭い部屋の電気をつけ、いつも通り顔を洗おうと、洗面所に向かいかけた。

 その時だった、昨日の課長のあの一言が彼の耳に稲妻のように響き渡った。

「契約解除」!

 そうなのだった。彼は会社をクビになったのだった。

「契約解除」その言葉はクビとは言わなかった、課長の彼に対する最後の思いやりの言葉だったのかもしれない。とにもかくにも、もう彼は会社に行く必要はないのだった。

 原因は今回のプロジェクトの失敗だろう、柴田は思っていたのだが「契約解除」の事実はやはりショックだった。

 そして、柴田はもう一つ重要な事実に気が付いた「金がない」。

 柴田の給与は、自動的に圭子の持ち去った通帳に落ちるようにしていた。柴田のこずかいは1月分として圭子からもらっていた。その金がそろそろなくなるのだ。

「その内に母に借金しよう」彼は思った。母には結婚する前の借金もかなりある。が、そのかなりたまっている母への借金を柴田は返すつもりはなかった。どうせ母も覚えちゃいまい、彼は思っていた。彼女は八十歳、認知症の症状も出始めているのだった。柴田にしてみればいい金ずるだった。それに圭子もそろそろ帰ってくるだろう。彼は思いながら、すばやく顔を洗い、まず朝食を取った。

 

 その後、「何をしよう・・・」彼は馬鹿になったように考え込んだ。

 暫く柴田は考え込んでしまっていたが、取り敢えず、じっとしていられずに、部屋を出る準備を始めた。何時も寝間着にしている、紫の汗臭いパンツにトレーナーを脱ぎ捨て、ベッドの上に放り投げた。

 初冬の夜明けの部屋の空気は、いつもより冷たく、切れる様な痛さだった。彼は通勤用に使っている、一週間続けて履いている黒のチノパンと、三日間着ているタバコ臭い濃い緑のトレーナーに着替えた。そして先月、中古の家具屋から三千円で買った、座り心地のいい藤椅子に座布団を敷いて、腰を掛けTVのスイッチをつけ、テーブルの上のタバコの箔から一本タバコを取り出しくわえた。が、ライターが見当たらなかった。五分は探したが見つからなかった。彼はタバコは諦めた。出勤、いや、出かける電車の時間までにはまだ三十分はあった。ニュースを見ながら三十分経つのを待った。

 交通事故に殺人事件、おまけに戦争ときたが、ニュースの中の出来事は、彼にはまるで、すべて、ただの他人ごとに思えた。いや、事実それはただの他人ごとなのだった。

 その日の三十分はいつもよりゆっくりと、とても長い三十分で、柴田には少しじれったくもあった。ようやく三十分経つと、彼は立ち上がり、いつものハンチング帽をかぶり、去年から着ている紺のジャンパーを少しだらしなく引っ掛け、テーブルの上のタバコの箱を無造作につかむと、ポケットに突っ込んだ。 

 通勤用に使っていた黒のリュックを背負い、部屋のドアを開け、外に出ると、いつもの通りにゆっくりと階段を降りた。そして歩道に降りた彼は、まだ少し暗い道路をまるで犯罪者のように素早く左右を見渡し、道路を横切り、そしてやはりいつも通りに俯くと、ジャンパーのポケットに手を突っ込み、電車の駅へ向かって足早に歩き始めた。

 この時間、風もなく、まっすぐな歩道には、人一人歩いていなかった。

 所々で赤黒いカラスが捨てられたゴミを奪い合うようにつついていた。

 道路には時々、空車のタクシーが走っているだけだった。

 少しいくとコンビニが見えてきた。

 その時、まだライターを買っていなかったことに気が付き、ジャンパーのポケットに無造作に手を突っ込むと、財布を取り出し、コンビニに入った。

 ライターを買うと早速タバコを一本取り出し、火をつけ、大きく煙を吸い込むと、腕時計を見た。今日は、いつもの時間より、少し早いかもしれなかった。

 彼はズボンのポケットから携帯灰皿を取り出し、立ち止まった。百円のグレーの携帯灰皿だった。以前この辺でタバコを吸いながら歩いていた時、近所の住人に睨まれたことがあったので、それ以来、灰皿は常に持ち歩くようにしていた。中には吸い殻が詰まって膨らんでいる。立ち止まった彼は、もう一度タバコを大きく吸い込むと、空を見上げた。まだ真っ黒な空は、何も見えなかった。

 そんな時、駅に電車が近づくのが見え、加えていたタバコを路上に捨てて踏みつけると、携帯灰皿をズボンのポケットの入れ、足早に駅に向かって歩き出した。

 街に出てもすることもなく歩き廻るだけだった。

 金のない一日というのは非常に単純なものだった。することが決まってしまうのだ。その日も昼飯は近所のすき屋で済ませることにした。結局それ以上の事をすることもできないし、それ以下の事にする訳にもいかないので、一日が非常に単調なものになってくるのだ。

 

 だが、圭子が部屋を出て、もう一つの問題があった。彼はまだ四十だった。胸中に、性的欲求を、そろそろ感じ始めていたのだ

 彼はその日、予めパソコンで調べておいたデリバリーヘルスとやらに、思い切って連絡することにした。金は残り少ない残高の通帳からATMで引き落としてきた。そして部屋に戻って、彼は女が来るのを待つことにした。

 連絡してから女が来るまでの間に彼は部屋をかたずけ流し台の皿とコップを洗い、ベッドの布団をそろえて消臭剤をかけた。散らかっていた衣類を箪笥にしまい、部屋の中に掃除機をかけた。すると連絡してから一時間程たち、女が部屋にやってきた。

 柴田が思っていたより若い女だった。長い黒髪だけがいやに美しく、厚化粧の白い顔に真っ赤な口紅がなまめかしく輝いていた。

 しかしその女をみた瞬間に何故か柴田の胸中の性的欲求は、何故かろうそくの灯が消えていくように消えてしまっていた。圭子の方が全然美しかったのだった。

 女は部屋に上がり込むと何も言わずに寝室へ向かい、赤いウールのコートを脱ぐと、続けざまに着ていたピンクのワンピースと黒の下着を脱ぎ捨てた。

 柴田は部屋の中央にすえた炬燵の上に二つのコップをおいて、それに安物のインスタントコーヒーを入れると彼女に進めた。

「飲まないかい?」      

「どうしたの?」

 寝室のベッドに裸で腰を掛けた彼女は、少し不思議そうな顔で、柴田を見つめながら言った。

「時間は四十分よ」

「いいんだ」

「こっちに来て坐って」柴田は少し微笑むように言った。

「それならいいけど」女はやっぱり不思議そうに彼を見つめ、素っ裸のまま立ち上がり、炬燵に入ってきた。

「・・・・・・」しかしここ最近、女とまともに向かい合ったことが全くなかった彼は微笑みながらも言葉を失ってしまっていた。

「出身はどこだい?」柴田は苦し紛れに女に何とか尋ねた。

「あんたに関係ないでしょ」女は怒った様に彼を睨みつけた。

 それでも彼はニコニコと微笑みながら、女を見つめてコーヒーを口にした。

「気持ちの悪い人ね」

「どうせならビールでも無いの?」女が言った。

「酒は飲まないんだ」彼が言った。

 柴田はここ最近、酒を飲まないようにしていた。糖尿の気が出て来て、圭子にも注意されていたのだ。

 女はあきれたように表情を少し崩し、コーヒーに手を差し出した。

 正直、女を見た時に、圭子の方が全然美しいと思った事で彼の心は満足し、彼の胸中にある男の欲求は十分に満たされてしまっていたのだ。

「料金は安くならないわよ。金はあるんでしょうね?」

「大丈夫、お金は準備してるよ」柴田は言った。

 そして四十分経つと、素っ裸の女は立ち上がり、彼に向かって右手を突き出した。

「時間よ」女が言うと、彼はいつもの黒いリュックの中の財布を取り出し、中から新品の一万円札を一枚取り出し女に渡した。すると女はポケットの中から皺くちゃの千円札を取り出し、三枚そろえると投げつけるように彼に差し出した。 

 彼は「おつりはいらない」、そう言いかけたが流石に言葉にはならなかった。そしてその皺くちゃの千円札を三枚素直に受け取った。

 女は服を身に着け、部屋に投げ捨てていた真っ赤なウールのコートに身を包みながら言った。

「私は美千代。またよろしくね」

「次があるから」そう言うと玄関に出て靴を履き、まるで真っ赤な猫のように素早く部屋を出て行った。

 彼は満足していた。今度の時はビールを用意しておこうと彼は思っていた。炬燵の上のコーヒーカップをかたづけ、そのままベッドに入って柴田は目を瞑った。いい一日だと柴田は思った。彼はそのまま若干の眠りについた。

 その日、彼が目を覚まし、部屋を出ると街中にはまるで雪が降る様に雪虫が跳ねていた。思わず空を見上げると、空には雲が満ちていた。財布の中は皺くちゃの千円札三枚しかなかった。通帳にももう金はない。柴田は結局、認知症の母を当てに、ポケットからスマホを取り出し連絡をした。

「生きてるか?」彼が電話に出た母に突っぱねる様に言った。

「そう簡単にくたばりゃしないよ」母も突っぱねる様に答えた。

「今から帰る」彼は言った。

「どうした?コメか?金か?」

 母は彼が連絡すると必ず聞いてきた。仕方ないだろう、大学でプログラミングを学んだあと、会社を転々として、金に困ると必ず母に連絡していたのだ。母は彼が結婚したことさえ忘れている様だった。

「帰ったら話す」そう無責任な返答をして、彼は連絡を切った。 

 その日、久しぶりに彼はバスに乗った。彼がバスに乗り込むと、バスは空いていた。彼は一番後ろの窓際の席に深々と腰を掛け、窓から外を見つめた。家までは四十分だった。ターミナルに着くと彼はそこで降りて昼食を取ることにした。彼はターミナルにある食堂の八百円の唐揚げ定食が気に入っていた。今日、彼は母からの借金を当てに、少し贅沢をすることとして、千二百円の辛みそ唐揚げ定食を食べた。 

 自宅に帰っても食事は魚ばかりで肉は出てこないのだった。母は帰ると必ず柴田の好きな稲荷寿司を作り、柴田の好きな、ホッケかシャケを焼いてくれたのだ。しかし母は、自分が食えないからと言って、肉は焼かないのだった。

 

 玄関の前に立った時、玄関は以前来た時よりも、少し古くなっている様な気がした。

 何も言わずに家の中に入っていくと、母は、もうすべて知っているように目敏く彼に言った。

「何があったんだい」

「会社をクビになった」母は少し俯き、その表情に陰りを見せたようだった。

 そして柴田に向って言った。

「金はもう貸さないよ。失業保険が出るんだろう」彼は驚いた。

「そんな、失業保険が出るまで三ヶ月もあるんだ。その間収入がないんだよ、お袋の借金当てにしてたんだよ」彼は懇願するように、母に泣きついた、しかし母は一度行ったことは変えない人間だった。

「頼むよ・・・」彼は、苦し紛れに泣きついた。

「うるさいね、お前、私にいくら借金があるのか知ってるのかい!」

 顔を真っ赤にして母は叫んで、彼を家から追い出した。

 母は彼の借金を全て覚えていた。こうなったら取り敢えず、「契約解除」の事実を、圭子に知らせなければと彼は思った。


                  *

 

「済まないが俺は会社を辞めた」

 月の終わりになってから、ようやく圭子に一本の携帯が入った。

 柴田からだった。彼は「契約解除」という言葉を使うのを躊躇してしまった。それは彼の負けず嫌いな性格と自尊心の高さからだった。しかしそれが、圭子に対し根本的な誤解を生むことになってしまった。

 圭子は思った。

 「本当に済まないと思っているのだろうか?

 そしてなぜやめたのか?

 やめてどうするつもりなのか?」

 なお柴田が自分に本心を明かさないと思った圭子は、彼の通帳から金を全額引き出し、その紙幣をあっさりと、すべて、庭先で火を付け燃やしてしまった。

 圭子は、彼の夢が、目的が、無残にも美しくメラリメラリと音をたてて燃え上る様な気がした。紙幣が美しくメラリメラリとオレンヂの炎を上げて燃える様子を冷たく見つめていた圭子は、その時、背後に強烈な柴田の存在を感じ、薄く笑みを浮かべて振り向いた。が、そこに彼はいなかった。その振り向いた時の圭子の笑みは、悪魔的に美しかった。

 少しすると、玄関から叔父さんが出てきて言った。

「何を燃やしているんだい圭子?楽しそうだね?」

「いいえ、つまらないものです。楽しくとも何ともありませんわ、叔父さん」

 圭子はそこで、もう一度薄く微笑みながら言った。

「そうかい。風が出てきたから気を付けるんだよ」

「はい、分かりました、叔父さん。」圭子は言った。

 

 それから一週間が経っていた。その夜は満月だった。

 夜空に大きくて重そうな満月が浮かんでいる。

 夜空に今にも落ちそうに浮かんでいる。

 雲一つない夜空、風もない、色もない、音もしない、目に見えるのは丸く大きな満月だけ、落ちそうに浮かんでいる。手を伸ばせば届きそうだった。それを見ていた彼女は決心した。自分に正直になる事。

 圭子は真っ赤な口紅をぬり、下着も真っ赤なブラに真っ赤なパンティー。そして自分の服の中でもお気に入りの、胸の開いた赤のワンピースを身に着け、鏡の前でポーズを取った。何も思わなかった。そして一人で出かけた。

 ジャズのかかる素敵な店、そう、以前、直美と来た店。

 圭子は、7時に店について中を見回した。もうカップルは気にならない。一人でビールを飲んだ。「柴田のことは何も考えない。彼も自分のことを考えていない」そう柴田のことを考えながらビールを飲んだ。ビールを2杯飲んだ後、ウイスキーを頼んだ。「今日は声がかからない。せっかくの真っ赤なブラに、真っ赤なパンティーは、今日は空振り」そう思い店を出た。

 今日は飲みすぎた、タクシーで帰ろうと思って、タクシーを待っていたその時、後ろから男の声がした。

「一人で帰るの」若い声だとは思ったがよく覚えていない。何となく不潔な店で、二人で飲んだその後、彼女はホテルで真っ赤な下着を脱ぎ捨てた。彼は柴田より若いようだった、彼女はそう感じながら彼を受け止めた。彼は激しかった。何度も、何度も、彼女を許さなかった。「若いのはしつこいな」彼女はそんな風に思いつつ、何事もなかったように眠りについた。

 次の朝、彼女は目を覚まし、横に眠る男の顔を見ると、まだ学生のように見えた。  

 彼女は「こいつ、まだガキか」そう思いながら男を見つめ、そして心の中で思いっきり叫んだ「へたくそ」

「結局、ガキのマスターベーションの相手か」彼女はそんな風に思い、少し気だるさの残る体をベッドからお越し、素っ裸のまま、シャワールームに向かい、そのままシャワーを浴びた。彼女はシャワーを浴びながら考えようとしたが止めた。シャワールームから出ると、男は起きていた。

「君、指輪をしているけど、結婚しているのでしょう?人妻ってやつでしょう?」

 男が聞いてきた。圭子は黙っていた。

 圭子は長い髪をドライヤーで乾かし、真っ赤な下着をつけ、ワンピースを着た。

「ねえ、どう、お金出すから、定期的に会わない」男が圭子に言った。彼女は思いっきり男の顔をひっぱたき、一人でホテルを出てきた。

 部屋に戻り、時計を見ると、昼に少し前だった。圭子は昼食に出かけることにした。赤のワンピースはそのままである。そしてサングラスをかけ、お気に入りの帽子をかぶった。

 彼女は、今日は地下鉄に乗ろう、特に理由はないがそう思った。そうして、地下鉄に乗り街中まで出かけ、適当な喫茶店を見つけ甘いものを食べることにして、しばらく歩いた。久しぶりに、素敵な喫茶店を見つけた。入ると、広い店内はオレンジ色のライトで明るく照らされ、その下でカップルが楽しげに話をしている。

 そう言えば、財布にいくら入ってたろうか、圭子は急に不安になり、カバンの中を確認した。お金はあった。そしてカバンには、タバコも入っている。覚えていない。タバコの箱の中を見ると、数本なくなっている。彼女はお酒を飲むと、時々吸うことがあるが、最近、買った覚えが全くない。あの男と飲んだ時、何となく、あの男から貰ったような、そんな気がしてきた。圭子は少し不安になってきた。

 外に出ると、日は高く照りつけ、風は止まっていた。そろそろ昼だった。今の店で昼を食べてもよかったが、メニューを見ると、値段が高かった。そう、圭子は今、持ち合わせの金が少ない。柴田の通帳にも、もう金は入っていないのだ。

 昨日も使いすぎたようだ。まさかあの男と飲んだ時、私が出したわけじゃなかったのか。割り勘だったはずだ。しかし相手はガキだったのだ。彼女はかなり不安になってきた。

 お昼、彼女は何か無性にどんぶり飯を掻き込みたくなった。おもいっきりだらしなく、はしたなく、ガツガツと食べたくなった。おなかがすいている。そうだった、昨日もろくに食べていない。今日の朝も食べていない。彼女は来る途中に見かけた、すき屋に行こうと決めた。そして、すき屋でどんぶり飯をたべた、ガツガツとだらしなく、はしたなく食べた。

 そして店を出て、その日一日、外を歩いていた。目的などあるはずもなく、歩いているというのでもなく、昨日をただ彷徨っている様な感覚に包まれながら、心の中に何かしら贖罪の念すら覚え、彼女は誰もいない路を一人で歩いていた。目的がないのだから当然することなど無く、冷たい秋風に心を曝し、一人で彼女は歩いていた。歩いていただけだから、散歩だったのかもしれない。少し行った所で、枯葉が落ちて寒そうに並んでいる裸の並木を見つけ、立ちどまり、彼女は悲しげにその並木を見つめた。

 その時、圭子の頭上を、まるくオレンヂ色に沈みかけた陽を横切って、かあかあと鳴きながら、黒いカラスが一羽で飛んで行った。その黒いカラスを苦々し気に見上げた彼女は、何故なのか、悔しそうに枯葉の積もった茶色い路面に視線を移して、再び歩き始めた。

 交差点を超えたところで、犬を引いた知らないお年寄りが、

「こんにちは」圭子に向かいニコヤカに頭を下げた。知らない人だったので、彼女は何も言わずに通り過ぎた。

 近くの公園では子供達が俯いたまま、お互いに話すこともなく、動き回ることもなく、何かを見つめながら、黙ってベンチに座っていた。黙ったまま俯いて、足元の何かを見つめて、ベンチに座っていた。誰も乗らない、赤茶色に錆付いたブランコも、無口な初冬の風に吹かれ、何も言わずにブランブランとただ重たく揺れていた。

 暮れかけたオレンヂの冬の陽は、地平線にほぼ平行に、細く長く走っていた。その落ちかけた陽の光は同じ間隔、同じ高さで建っている、アパートメントの団地を弱々しく照らしだし、その影が細く長く団地の路面へと、黒く悲しげに伸びていた。それを見た圭子の心の中には、アパートメントの中で暮らしている人々の、愛のない生き様が、まざまざと浮かびあがってくるようだった。

 そんなこと思っている時、すれ違いざま、何となく眼があった、ハンチング帽を被り、紺のジャンパーを着た四十代半ばの男が、なにげに彼女に微笑んだ。彼女は男の顔を見た瞬間、心の中に艶やかに響く神の声を聴いた。そのまま俯き、すれ違って行った彼を、思わず圭子は振り向いた。

 稲妻の様に激しい電気が、彼女の頭の先から足の先まで強烈にビリビリと走り抜けていった。「柴田だ」圭子はその時、激しくトキメク、胸中の彼とのササヤカな思い出を感じた。

 全くの偶然だった。偶然以外、そこには何もなかったはずだった。そして振り向き、追い駆けた。人ごみにまぎれ消えて行った彼を追いかけた。紺のジャンパーにハンチング帽をかぶった彼を探し、追い続けた。会いたかった、彼と会いたかった。なぜかしら恋しかった、愛しかった、彼に強く抱きしめてほしかった。ただ、ただそれだけだった。

 彼女は取り敢えず、彼の声を聴きたかった。そして柴田の携帯に連絡を入れた。しかし呼び出し音がリリリン、リリリン、リリリンと三回なったところで、何故か携帯を切ってしまった。


                  *


 その日の真夜中に突然、柴田の携帯がリリリン、リリリンと枕もとで鳴った。柴田は驚いて目を覚ましたが、すぐに間違いだと思った。思い込もうとしていたのかもしれない。こんな時間に連絡をよこす友人などいやしないし、だいち彼に友人などいない。彼は五度目のベルが鳴ったら、携帯を取ろうと待ち構えていた。が、ベルはリリリン、リリリン、リリリンと三度鳴ったところで切れた。

 少しの寂しさを感じながら、柴田はベッドから起き上がり、電気を点けるとトイレに向かった。用を足し終えトイレから出て、電気を消した彼は、何時もの虚しさに襲われ、そこで寝ることをやめてしまった。枕もとの時計を見ると、まだ夜中の一時を少し過ぎたところだった。彼の胸中は少しずつ感傷的になってきていた。

 柴田は机の上のタバコを手に取ると、禁煙中であることも忘れ、タバコの箱から残り一本しかないタバコを取り出し、吸い始めた。今は圭子もいない、誰も注意してくれる人間などいなかった。ベッドに横になったまま、タバコを吸いながらベットの端の小さなランプを点けた。彼はタバコの煙がユラリ、ユラリと舞い上がるのを見つめながら、枕もとに置いていた先日からの読みかけの圭子の好きなA6判小説をまた読み始めた。しかし三分ほど読んだところで知らないうちに寝てしまっていた。

 彼は次の朝、少し気怠さを感じながらベッドから起き上がると、いつも通り新聞を読んだ。

 社会面の下の隅に小さな記事が出ていた『札幌・女性が線路に投身自殺』。柴田は気にも留めなかった。

 新聞を読み終えると食事をした。食事と言っても、パン一枚とコップ一杯のミルクだった。それ以上食べる気がしなかった。というより食べられなかった。金がなかった。 

 そして彼は散歩に出かけた。何時もの通り帽子をかぶり、紺のジャンパーを着て、俯いたまま彼は散歩に出かけていた。


「独立は、あと一社位勤めてから・・・」彼は内心思っていた。

 

 天気の冴えわたった気持ちのいい冬の空だった。

 知らないうちに圭子の美しい笑顔の様な青空だと彼は思っていた・・・。

「そろそろ帰ってくるに違いない」彼は思った。



                                  おわり


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