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購買で買ったアイテムが入った手提げ袋を大切に抱えながら、廊下を歩く。少し時間は経ってしまったけれど、これからお昼ご飯を食べるのだ。
何を食べようかな、と胸を弾ませて廊下を歩いていると、ドンッと衝撃が襲う。
「ゥッ……!」
「あら、ごめんあそばせ?」
そっけない謝罪が耳を打つ。軽い足音と共に走り去ったのは、見間違いでなければ。
(……いまのミラ、だよね?)
嫌な予感が胸を這う。背筋をすうっと逆撫でされたかのような、軽やかな怖気が全身を伝う。お昼の時間はまだあるはずだ。それなのに、廊下を走る意味ってなんだろう。そう思いながら、ミラが走ってきた方向を目を凝らして見つめる。
けれど、特には何も見えなくて。
(……たまたま急いでただけ、だよね)
そう結論づけようとしたとき、遥か向こうの廊下の曲がり角から、出てきた存在に息を呑んだ。
ゆら、ゆらと体を左右に振れるようにして、ゆったりと歩いているだけなら、まだちょっと体調が悪い人とか、変な人なのかな、と思うだけなのに。
——その存在は、片手で何か人型のものを引き摺っていたのだ。
ゾゾっと生存本能からか、鳥肌が立つ。引きずっているのも、引きずられているのも男性、ということはわかる。けれど、それ以外の情報はうまく認識できなくて。足も視線も、縫いつけられたかのように動かすことができない。
(このまま、なんにもできないまま、死ぬの……?)
そう思ったとき。
「ちょっ…!あぶねーだろ!押すなよ!!」
「すいませんッ!!」
「爵位持ちだったら俺たちがあぶねーんだって!もっと丁寧に謝れよ!」
「申し訳ございませんでした!」
目の前をわいわいとじゃれあいながら男子生徒が横切る。ぶつかりそうになった子は文句を言いながらも謝ると、そそくさと退散していく。まるで顔と名前を一致させられるのは嫌だと言わんばかりに。
そして、その集団が通り過ぎたあと、私の視線の先にいたはずのソレは、綺麗に消え失せていた。
「……たす、かった?」
そう言葉にしてようやく、自分は助かったのだと、へなへなと座り込んだ。廊下の冷たさが足から伝わってくるのを感じられるのも、生きているからだ、なんて。そんなことすら考えて。ふと、とある事を思い出す。
(あっ。ヒロインが怪異のターゲットをモブに移すときは、ヒロインがぶつかる必要があったはず!)
つまり、購買から出たときにぶつかられた時点で、私にターゲットをなすりつけたのだとわかる。けれど、私以外にもモブはいたはずなのに、どうしてだろう。そんな疑問を残しながら、あまりのショックにお昼を食べる気も失せた私は、とぼとぼと廊下を歩いた。
(……もうこのまま授業サボって、帰っちゃおうかな)
その考えに突き動かされるように、私の足は玄関口へと向かっていく。その途中でガラッと音を立てて、とある扉が開いて。
「ん?」
ひらりと揺れる白衣。束ねられた艶やかな黒髪は、さらさらと風に揺れる。穏やかな声は、まるで午後の日差しのようで。やばい、と思った私と、にこっと笑みを浮かべたルキ先生の視線とが交差する。
「ふふ。もしかしなくても、帰ろうとしてるね?」
「イヤー、そんな、」
ぎくりと跳ねた肩を見つけて、さらにクスクス笑うルキ先生は、エスコートするかのように開いた扉を示して。
「どうぞ?」
こてん、と首を傾げて扉の先、保健室へと促すルキ先生からは逃げられそうもなかった。
*
キーンコーンカーンコーン
前世でも聞いていたチャイムそっくりな音が、午後の授業の開始を知らせる。その音を保健室でぼうっと聞いていると、目の前にかちゃっと小さな音を立ててティーセットが置かれて。
「午後の授業、始まっちゃったね」
「そう、ですね……」
ルキ先生は手際良く紅茶を注いでいくと、私に聞く事なくミルクを入れて、ミルクティーを作り上げる。そうして対面の席に座ると、頬杖をついてジッと私を新緑のような柔らかな緑の瞳で見つめた。
「何か、イヤなことでもあって帰りたくなっちゃった?」
小さな子に話しかけるかのような声音の問いかけが、私に投げかけられる。イヤなこと、そう聞いて真っ先に思い浮かんだのは、恋怪のヒロインであるミラに怪異のターゲットをなすりつけられたことだった。
入学式の日に追いかけてきた騎士の怪異とは明確に違う。アレは確実に、狙った獲物を必ず仕留めるまで追いかけてくるものだ。思い出すだけで、呼吸が浅くなって、手足が冷えていくような心地がする。
「ありゃ。ちょっと思い出したくない事だったかな」
その言葉に迷わず頷くと、ちょっとだけルキ先生の顔に苦笑が浮かんで。気まずそうにしながら、ぽちゃんと私のカップの中の液体に砂糖を落とした。
「大丈夫。今そのミルクティーには魔法をかけたから。きみの心配事や怖いことが遠のきますようにって、おまじないがね」
さあ、飲んでごらん。そう言ったルキ先生は、にこにことしながら私を見守っている。それに、ここまで小さい子みたいな対応をされるのはいつぶりだろうと、思わず笑みが浮かんだ。
「ありがたく飲ませていただきますね」
いただきます、前世の癖でぽつりと呟いてから、ミルクティーを口に含む。柔らかな甘さと、ほんのりとした温かさに、知らず知らずのうちに張りつめていた息を吐き出した。