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ズル……ズル…
何かを引きずるような音がする。規則的に、一定の間隔で。それに混じって、ぺた、ぺたと素足で歩くかのような音が微かに聞こえてくる。
——それは少し先にある廊下を曲がった方向から聞こえてくるみたいで。覗かない方がいいと、むしろ早くここから逃げろと、第六感が伝えてきている。
(え、動けない……?!)
だから逃げなきゃと思って、体に力を入れたのに、足は張り付いたように地面から離れなくて。それどころか、体は髪の一筋に至るまで、自由に動かすことができない。
まるで自分が彫像になってしまったかのように。
ズル……
焦る私を他所に、定期的に響いていた引きずる音が、ぴたりと止まる。ゾワゾワと体の中を走る怖気に、呼吸が浅くなる。走ってもいないのに、弾んだような浅い呼吸だけが、廊下に響く。
それは、まるで自分の所在地を知らせているような気すらして。焦る気持ちだけが、自分の中で膨らんでいく。
ぺた……ぺた
歩き出す音が、響き始める。それに着いていくような引きずる音も。気のせいでなければ、その音はゆっくりと着実に近づいてきている。
少し先にある廊下を曲がった方向から、だんだんと。
(やばいやばいやばいやばい)
せめてもの抵抗として、ぎゅっと目を閉じた。体が動くなら、真っ先に走り出すのに。
恨み言に近いことを考えながらも、ガタガタと震える私をよそに、その音は無情にも着実に近づいて来ている。
ズル……ペタ……
その音は気がつけば、自分のすぐ近くで止まっていた。瞼の向こうに、何かの気配を確かに感じている。けれど、目を開けることは恐ろしくてできそうになくて。
——はやくどこかに、行ってくれ。頼む。
なまぬるい呼気が、唇をくすぐる。耐えきれず目を開けたら、目の前にはがらんどうの眼孔かと見紛うほどの漆黒があっ、て…?
それが黒一色の眼球だと気がついた瞬間、ガツンと鈍い音がした。衝撃で視界が揺れて始めて、その音が自分の頭からしていたことに気がつく。
「ぅ……!」
痛みを認識する間もなく倒れ込む。それとほぼ同時に、足を人ならざる尋常な力で掴まれて。それは自分の足を持ったまま、引きずり出した。
顔を上げると目の前には、先程まで引きずられていただろう、名前の知らない生徒が捨てられていた。その顔は苦悶に歪んで、血に塗れていて。白く濁った瞳がただぼんやりと虚空を写していた。
——ズル…ズル。ペタ…ペタ。
引きずられる音にあわせて足音が夜の学園の廊下に静かにこだましている。逃げ出すことは敵わないまま、引きずられていく。階段であろうと構わずに、引きずられていくことしかできないのだ。
あの名前の知らない生徒と同じ末路を辿るのだと、痛みの中で否が応でも理解した。
*
「ッ…!?!?」
ビクッと筋肉が収縮して、変な浮遊感に襲われて飛び起きた。かなり怖い夢を見ていたことは覚えていて、助かったと反射的に思ってしまった。
冷や汗が、ぱたぱたと顎から滴り落ちる。怪異に引きずられる夢、だった。
時間を確認すると、前世でいう丑三つ時の時間で。ブラッディのせいで変な夢を見たのか、と一瞬考えたけれど、すぐに頭を振った。
「今回来るのは、きっと夢で見たやつと同じ……」
恋怪のヒロインは、怪異が出る前に前日譚で死ぬモブ視点の夢を見ることがあった。それはプレイヤーへの前知識を与えるため、のゲームシステムだったのだけれど。それと同じ現象が、幸か不幸か私にも起こっているのだろう。
「引きずる怪異は、満月の夜には出て来てない。だから、満月の夜以外の怪異のはず」
夜に出るのか、昼にも出るのか、先程の夢からはわからない。けれど、動けなくなる可能性を考慮するなら、学園の食堂の近くに併設されている売店、通称購買に行かないといけない。ゲーム内では、そこでお助けアイテムが色々買えたはずだし。
そんなことを考えていたら、時間はかなり進んでしまっていて。もう少しで日が昇るだろうと感じる時間になってしまっていた。けれど、恐ろしさから冷え切った体のせいで、眠れそうな気もしなくて。
「汗びしゃびしゃで汚いし、もう一回シャワーにでも入るか……」
そうして、温まってから。二度寝ができそうならしよう。無理ならもう諦めて起きていよう。そう考えながら、着替えを手に取って浴室へと向かった。でもたぶん、今日はもう眠れないんだろうなぁ、と思った。
「はずだったんだけどなぁ…?!」
ぴっぴぴ、ぴっぴぴ!!
目覚まし時計のように、けたたましく鳴く鳥の声で目が覚めた。名前の付け方が雑だなと感じた、ゲーム内でもお馴染みのクロックーという鳥だ。野生であろうと飼われていようと、奴等は決まった時間にしか鳴かない。メスが朝の7時頃。オスが17時だ。
ご都合主義すぎるとは思うものの、まぁゲームだしと思う。密かにファンの間では、ファンタジーっぽさを入れたかったけど失敗した名残とか呼ばれていた鳥である。見た目はどっからどう見ても、ニワトリなんだけれども。そして取れる卵は食用だけれども、色はブルー。そこはファンタジーしなくてよかったのでは?と常々思っている。
ちなみに安い卵がクロックーの卵で、高い卵はサンリィバードの卵。サンリィバードの卵は、オレンジっぽい黄色である。
「伯爵家とメリルが恋しくなってきた……」
自主退学を含む退学がなくて出られないなら、早く卒業したいなぁと、現実逃避をしながらシャツのボタンを留めた。