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前門の虎、後門の狼、みたいなことわざが前世にあったなぁ。なんて現実逃避をする。目の前には、額から血を流している、あちこち痣だらけでぐったりとしたアンリ嬢がいて。その彼女の足を掴んでいるのは、引きずり男爵だった。
——ドレイル・ラグ。
無造作に結ばれた長い髪。際立って整っているわけではない、そこそこな容姿。虚ろな眼はどこを見ているのかもわからず、不気味さを増している。服装は、どこか時代を感じさせるようなフリルシャツにウエストコート。ジャケットは身につけておらず、夜会後の自室にいるような格好にも見える。けれども、なんでも知ってる本が教えてくれたように、貴族としての風格は確かに感じられる。
「……ゥウ」
でも、その虚ろな瞳には知性の輝きはない。ただ愉悦からか、口元は笑みを象っていたけれど。言葉を発する知能は、既に持っていないように思えた。もし本当に知性がないなら、目の前で身代わりバナナを投げれば逃げられる。
でもそのときに、アンリ嬢のことを離してくれるかは、確信が持てない。
(どうする、どうする……!?)
ほとんど無計画で、衝動に突き動かされた代償。相手を救うどころか、自分の身を危険に晒すだけ。背後からは騎士の怪異が近づいてきていることが、音からわかって。でもどうにかしないと、助からない。焦る思考は何も答えを導き出してはくれなくて。ゲームの時のように、身代わりバナナを使って、目の前のアンリ嬢を見捨てるしかないのかな…。そう心が折れかけたとき、思い浮かべた言葉の一部が引っかかって。
(……身代わり、バナナ……身代わり…。そうか!)
突如、天啓にも似たひらめきが舞い降りる。アンリ嬢も救えて、私も助かって。そして、うまくいけば、どちらの怪異も相打ちになってくれる妙案が。どれもアイテムがゲームのときと同じ効果を持つ物じゃないと、意味ないのだけれど。それはもう、天に祈るしかない要素なので。抵抗せずに死ぬか、一縷の望みに賭けるか。それだったら、私は後者を選ぶし、大体の人はそう!
「……ゥウウウ!」
気絶して動かなくなった生きている獲物と、動き回るくらい元気な獲物。どちらを取るかを決めたのか、アンリ嬢を手放したドレイルが、私へと手を伸ばす。本来ならば金縛りにあって動けなかったであろう体は、身代わりバナナを持っている副次効果か、自由に動かせた。
「……っ〜!」
だから、まず身代わりバナナをドレイルに投げつけた。身代わりバナナを真正面からぶつけられたドレイルは、嬉々として身代わりバナナを鷲掴む。絵面はシュールすぎるけれど、ドレイルにはあれが人に見えてるんだから、仕方ない。
「ゥ……?」
さっそく引きずろうとして、そのあまりの手応えのなさにドレイルは戸惑っている。そのうちに、次の行動を開始する。
「染みたり冷たかったらごめんなさい……!」
小声の早口で気絶しているアンリ嬢にそう告げると、私と彼女に消臭剤の体で売られていた消えるんをぶち撒ける。ツンとしたアルコールの匂いが微かにして、その後すぐに無臭になる。そのせいでリノリウムの床が、びしょ濡れになった。消えるんの水溜まりに、ドレイルの姿は映っていない。
(え、怪異は水溜まりに映らないんだ)
場違いにもそんな新たな気づきを得ていても、時間は進む。ガシャン、と音を立てて騎士の怪異が近づいて来ていた。
「早く帰れよ〜」
騎士の怪異の深淵のような真っ黒な目には、私たちは映ってはいないはず。でも、触れられれば流石に怪異も気がつく。だから、足元に引っかからないように、アンリ嬢には申し訳ないけれど、彼女の体を壁側へと転がして、私も壁に背中を貼り付けて息を殺した。
「…ゥウ……ゥウウウ!!ウガアァァァア!」
そのとき、ドレイルが身代わりバナナが人間でないことにようやく気がついたらしい。雄叫びを挙げて、バナナを投げ捨てる。ドンッという鈍い音が、顔のスレスレのところで鳴った。これが当たっていたら、消えるんの効果は消えていたので、冷や汗がだらだらと流れる。
「早く…帰れよ〜」
騎士の怪異は周囲を見渡しながら、注意深く歩みを進める。それを見て、失敗したかな、と少し考えた。怪異同士をぶつけて、相討ちにさせようと思っていたから。でも、騎士の怪異を見るに、理性があると怪異同士は衝突しないようだ。だからここからは、息を潜めるしかない。
(早くどっか行ってくれ〜!)
念じる気持ちでこの状況を観察していて、ふととあることを感じた記憶が蘇る。そうだ、ドレイルを見て、私は確かこう思ったはずだ。“虚ろな瞳には知性の輝きはない”と。
「……ゥウウ、ウウゥァアア!」
その答えを示すかのように、無警戒だった騎士の足を、ドレイルが捉えた。そして、次の瞬間、ドレイルはひしゃげた騎士の足首を握りしめていた。足の向きが既におかしいことは、ドレイルにとって気になる要素ではなかったらしい。元気よくジタバタと暴れる騎士の怪異に、ニンマリと口角を引き上げて、歩き始めたのだ。
ズル………ズル、ズル
重たいものを引きずるような音と、合間に挟まれる騎士の怪異の鎧の擦れる音が、ゆっくりと遠ざかっていく。それが聞こえなくなるまで、私はただひたすら、息を潜めていた。
「……た、助かった」
実感は薄いままそう呟くと、ドッと疲れが湧いてきて。へなへなと地面に座り込む。そして未だ目覚めないアンリ嬢を見て、彼女を保健室に連れて行かなければとぼんやりと思う。
「お!悪い子ちゃんたち発見〜!」
あと少ししたら動こう。そう考えたとき、場違いに明るい声が廊下に響いた。声の方を見ると、研修生だと名乗ったアル先生がそこにはいて。
「なになに?イジメ?それにしてはなんというか過激じゃない??伯爵令嬢ちゃんってそんな暴力的なんだ〜!怖〜」
まるでギャルのようなテンションに、先程までの緊迫した空気との差がありすぎて、思わず口籠もる。けれど、男手があるなら保健室に運ぶのが楽になる。そう思って、弁解するべく口を開いた。
「…アル、先生。彼女、階段から落ちてしまって、しばらくしてから気絶しちゃったみたいで、美術室前の廊下で倒れてて……。それで、運んでる途中だったんです」
「そっかそっか。イジメじゃなくて、安心したよ。じゃあ俺が保健室まで運ぼうか?」
首を傾げながら覗き込まれて、その近さに息を止める。
あのとき廊下で「お?かわいこちゃんだ。さよなら〜!」なんて、随分な挨拶を受けたときは、ほとんど彼の顔を見なかったけれど。こうして見ると、整った顔立ちは甘く、あのときのようにフレンドリーに振る舞ってもモテそうだなと思った。それに、可愛らしい顔立ちなのに泣き黒子のおかげでどこかセクシーでもある。目の色は、たぶん翡翠色。でも青味が強く、どちらかといえば花緑青の色に見える。
「お願いしてもいいですか……?」
「もちろん!研修生とはいえ、せんせーだしね。でも2人は一気に運べないかなぁ。誰か呼んで来るから待っててくれる?」
そこまでさせるわけには、とか、私は歩けるので大丈夫ですとか、そんなことを言おうと思っていたのに。アル先生が雰囲気を変えて、ゆっくりと囁く。
「おやすみ、ユラ・フルクトゥアトさん……?」
その言葉を認識した途端、視界がぐらりと揺れて意識が保てなくなる。なぜ急激にこんな眠気が。そんなことを考える間もなく、私は意識を失っていた。




