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アンダーワールド  作者: そのAaron
第十六章 無の終局
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Layer-065

三日目、午前九時。

倫也は第二段階の薬物テストを終えたばかりだった。


住宅区に戻った彼の五感のうち、最初に環境情報を拾ったのは当然、聴覚だ。そしてその「環境情報」は、二日前に王学が言っていたことと一字一句違わなかった。


「皆さん! 今日も苦痛は続いています! こんな生活を受け入れる必要はありません! 地上で暮らす夢なんて存在しないんです! 今こそ立ち上がり、この地獄から抜け出すべきなんですよ! しかも! 私には完璧な計画がある! 絶対にここを脱出できる方法が! 皆さん、薬物ラボには死角があるのを知ってますか? あそこを通れば——」


そう、ドルトは今日も時間どおり中央広場の一角で、帰ってきた実験体たちに向けて脱走計画をわめき散らしていた。

もちろん、誰も相手にしない。


それでもドルトは満面の笑みで「売り込み」を続けている。


倫也も当然スルーし、ためらいなく中央広場の反対側——自分の住まいの方向へ向かった。

しかし、昨日と違う点が一つあった。王学とサファイアが家に入らず、玄関の外に立っていたのだ。


「……何があった?」


「弓崎くん! ちょうどよかった……サキ、サキちゃんが……!」


咲希は家の前で倒れ込んでおり、左手で胸を押さえ、額に冷や汗をびっしり浮かべ、顔色は真っ青。

二人は突然の異変に完全にうろたえていた。


「嘘だろ……どれくらいこうしてた?」


「たぶん長くはないよ。私たち、あいつより一、二分遅れて帰ってきただけだから……」


「失礼、ちょっと服をめくって」


「えっ? だ、誰の?」


「……その質問が本気で分からなくて言ってるならいいけど、もし分かってて言ってるなら、咲希が元気になった瞬間にぶん殴るぞ。準備できたなら離れてろ」


二人が二歩下がったのを確認して、倫也は咲希の右胸の上と左胸の下に手を添え、深く息を吸って集中し、一瞬で「エレマグネコンストラクション」を起動。

心臓へパルスを流し込んだ。


瞬間的な通電が心臓を刺激し、乱れたリズムが整っていく。

咲希の呼吸は次第に落ち着き、顔色にも徐々に赤みが戻った。


倫也は上半身を軽く起こして服を戻し、呼吸が安定したのを確認すると彼女を抱き上げ、部屋へ運んで休ませた。

ただ部屋へ入る直前、ふと立ち止まり、二日前にも同じことしたようなと既視感に襲われた。




数十分後、咲希はほぼ回復し、サファイアに支えられながら階下へ降りてきた。


「お、もう大丈夫か?」


「う、うん……」


「で、弓崎くん。サキちゃんって何が起きてたの?」


「んー、多分だけど……動悸だ」


倫也の推測では、咲希の身体が小柄なせいで、研究側が子供用サイズの電撃装置を用意しておらず、貼ったパッドが適切な位置に合っていなかった可能性が高い。

今日の電撃が心臓に余計な負担をかけたのだろう。


そのとき倫也は、自分がなぜ「エレマグネコンストラクシ」で応急処置ができたのかを思い出した。


あれは「冬季大三角」の依頼をこなした直後。

地底十五層で、ブラックマーケットに依頼を出しに来ていたある企業役員の秘書が遺伝性心臓病で倒れた。

あのとき彼女は倫也に、120、150、200ジュールの順で電撃を加えるよう頼んできたのだ。


(……いや、電力量ってどうやって調整すんだよ)


(「エレマグネコンストラクシ」は感覚で使えばいいんだって。ほら、直感直感!)


(お前、こういうときに限って役に立たねぇな!?)


秘書を「練習台」にしてしまった罪悪感はあった。

だがその謝礼として三万ドルを受け取り、さらに——

倫也はこのとき初めて、自分が電刀以外の形状は安定して作れないものの、電力調整や電磁波操作ならある程度できることを知ったのだった。


思い返しつつ、ふと頭に別の疑問が浮かぶ。

咲希の状態を見たあと、ずっと気になっていたことだ。


「一つ聞きたい。あの症状って、住宅区に戻ってどれくらいしてから出た?」


「えっ……あの……覚えてない……ごめん……」


「いやいや、謝ることじゃない。咲希のせいじゃないよ。でも、君らさっき『咲希より一、二分遅れて帰った』って言ってたよな?」


「うん、たぶん間違ってないと思う……」


「じゃあ、ちょっと面白いことになるな」


三人は同時に首をかしげた。


「お、面白い? ど、どういう意味?」


「……まあ、大したことじゃないけどな」


これ以上突っ込むな、という口調だったので、三人もそれ以上は聞けなかった。


そのとき——

外から慌ただしい足音が近づき、足音が扉の前で止まった瞬間、勢いよくドアが開いた。


「遅くなってごめん。今日の第五段階テスト、ちょっと時間かかっちゃって」


ファティマが満面の笑みで家に戻ってきた。その扉が開いた瞬間、倫也はいつもの癖で外の様子をちらりと確認する。


彼女の背後――中央広場の向こう側で、誰かがこちらを覗き込むように様子を伺っていた。しかし、倫也がその顔を確認するより早く、扉は閉じられてしまった。


「やぁやぁ、さっき何かあった? 咲希ちゃん、ちょっと顔色悪くない?」


ファティマが急に距離を詰めてきたせいか、咲希は反射的に倫也の側へ寄り、できるだけファティマから距離を取ろうとする。


「だ、大丈夫…さっき休んだから…もう大分良くなった……」


「……」


ファティマは胸を撫で下ろすが、倫也の隣に座るサファイアは二人の様子を見て、どこか含み笑いを浮かべていた。


「ねぇねぇ、ちょっと唐突なんだけど、一つ言いたいことがあってさ。」


「なんだ?」


「いやぁ、咲希ちゃんが弓崎くんにこんな懐いてるなんて、意外だなーって。」


確かに、雰囲気ぶち壊しの話題ではある。だが、この空気をほぐすにはむしろちょうどいい軽い話題かもしれない。


サファイアの一言で、当事者の二人は同時にサファイアへ視線を向ける。一方、そばで聞いていた王学も思わず笑い出した。


彼の話によると、咲希がここへ送られてきた直後の様子は、倫也が初めて出会った時のあの警戒心むき出しの「小動物」状態そのままだったらしい。三人は倫也たちより二日先に来ているにもかかわらずだ。


「まぁ、無理もないよな! 三日間で弓崎が二回も咲希ちゃん助けてるんだし、頼りたくもなるでしょ。」


王学が言えば言うほど、咲希の小さな手は必死にぶんぶん振られ、話題を止めようと必死になる。


対して倫也は、完全に無反応。額から頬に伸びる傷跡を指でなぞりながら呟く。


「そういえばさ、弓崎って妹いるの?」


「いないけど、姉なら二人いる。」


「おお、じゃあ咲希ちゃんが初めての妹ってわけか?」


倫也は口を結び、少し考え込む。


「じゃあ、私は何? 家族構成的に言うと。」


「この家で言うなら、王学さんが一番お父さんっぽいよね? 四十代だし。」


「うっ……!」


突然現実の年齢で殴り倒された王学は、沈痛な表情で黙り込む。

倫也は、話題の矛先が自分から逸れたことに内心ほっとした。


だが、そう簡単には終わらなかった。サファイアの注意が王学へ移った瞬間、隣の咲希がそっと倫也の服の裾を引っぱり、ほんの少しだけ顔を上げて視線を合わせてきた。


「弓崎……お兄ちゃん……」


その呼び方を聞いた瞬間、倫也はもう拒否できなかった。というより――あの顔を見て拒絶できる人間はいないだろう。


ただ、それは倫也の「脱出計画」に大きく関わる問題だった。

彼の計画には「自分以外の誰か」が存在する余地は本来ない。仲間と深く関わるほど、最後に自分だけ逃げるという未来が、耐え難いものになっていく。


もし、誰かを連れて行くのだとしたら……覚悟が「少し」どころでは済まない。




夕食後、ファティマと倫也が食器を片付けてキッチンを出ると、王学、サファイア、咲希の三人はリビングでボードゲームをしていた。


「王学、これからエマたちと集会があるんだけど、一緒に来る?」


「えっ? 行っていいのか?」


「もちろん。最近いろんな活動の手伝いや新人のフォローも一生懸命やってるし、全員一致で参加していいって。」


二人の会話の最中、サファイアが倫也を呼び止めた。


「弓崎弓崎! あとで外で待っててくれる?」


そこでサファイアと倫也の視線がふと咲希に向く。視線が四人の間を行き来し、そのたび黒い長髪がふわりと揺れた。


「……ああ、咲希ちゃんも一緒に来る?」


咲希はサファイアをじっと見て……その後、ふわりと笑みを浮かべた。




[20:00:00]


住宅区の中でも、ひときわ特徴的な外観の建物がある。

王学とファティマがその建物の前へとやって来た。


「うわぁ……噂には聞いてたけど、『集会』に参加するの初めてだな。」


「緊張しないで。お喋りしに行くくらいの気持ちでいいのよ。」


二人が近づくと、センサーが反応し、自動扉が静かに開いた。

その先の薄暗い廊下――神秘的な空気は、王学に少しの興奮と、少しの不安を与える。


長い廊下を抜けると、広々とした空間に出た。すでに多くの人が到着し、集会の開始を待っている。


部屋の中央には長いテーブルが置かれ、その両側にはそれぞれ形は違えど、どこか対称性を感じさせる椅子が並んでいた。

そしてテーブルの前後端――片方にだけ、他とは比べ物にならないほど豪華で気品ある椅子が据えられている。


王学の席はその最も端の位置、ファティマの席は尊位のすぐ隣だった。


席についた王学は、緊張した面持ちで周囲を見渡す。薄暗い照明の下、かろうじて見えるのは、華麗な絵が施された屏風や、雲や青龍が彫り込まれた柱。

外観は何の変哲もない建物だったが、内部だけは場違いなほど豪華な中華風の部屋となっていた。


数分後、最後の参加者――ヘスフスキ・アンヤメイソンが会場に到着し、尊位の椅子へ腰を下ろす。


「さて、みなさん。今日は何か共有したいことはありますか?」


その言葉に反応して、一人の参加者が手を挙げる。視線が一斉に彼へと集まり、彼が話を始めると場の空気が次第に和やかに、活気づいていく。

王学も、自分が最近経験した面白かった出来事を素直に話していった。


進行役のヘスフスキと、話題を共有する参加者たち以外に、ファティマとエマは黙って話を聞いているだけだった。

時折、二人が同時に耳に手を当てるのが妙に気になったが。


それでも王学にとって、「集まり」に参加し皆と交流できるという事実は、自分が普段から行ってきた“人への気遣い”がちゃんと評価されているように感じられ、嬉しさと達成感を強く与えてくれた。


全員がほぼ話し終えた頃、会は一区切りを迎える。


「みなさん、いつもこの住宅区のために尽力してくれてありがとう。では次に、特に優れた貢献をした住民を表彰します。」


ヘスフスキが五人の名前を読み上げる。その中には王学の名前もあった。

呼ばれた五人は席を立ち上がる。


「ご存じの通り、生活必需品の一部は研究側へ申請することで手に入ります。その中でも、住宅区の平和維持に尽力した住民は、審査を通過すると“武器以外の物資”を特別に要求する権利が与えられます。

例えば、今回の会で使っているマイクは、オンワルズさんが申請して取り寄せたものです。そして、この五名こそが、私たちの内部投票で選ばれた“その権利を得るにふさわしい住民”です。」


その言葉と同時に、参加者たちから大きな拍手が起こった。

王学は、響き渡る拍手の中で、胸の奥からこみ上げる誇らしさに満たされる。


「特別権利を得たみなさんは、一日かけて“欲しい物資”を考え、『担当区画の責任者』に届けてください。いいですね? もちろん、他のみなさんも引き続き住宅区の平和のために努力してくださいね。」


「「「はーい!」」」


ヘスフスキは満面の笑みで、みんなの元気な返事に頷いた。

そして最後に、エマが今日の「集まり」のまとめを行い、その日の会はお開きとなった。


会場を出る直前、同じく特別権利を得た住民の一人が、王学へ声をかけてきた。


「あ、君も……特別権利をもらったんだよな!」


「おお、そうだよ。帰る前にお互いおめでとうって言っとこうぜ!」


二人は拳を突き合わせる。


「でも本当、幸運だよなぁ。こんな機会、滅多にないし。」


「うんうん! 本当に光栄だし……期待にも応えたい。もっとみんなの生活の役に立てるように頑張らないと!」


「まぁ、そういうのもあるけどさ……俺、なんとなく分かってるよ?

パディシュさんが、君に『アピールの場』をわざわざ作ったんだよな?」


男はひそひそ声で耳元へ顔を近づける。他の人には聞かせたくないらしい。

しかし王学には、その意味がまったく理解できない。

その反応を見て、相手は驚愕したように目を丸くした。


「……まさか、本当に知らないの?パディッシュさんとオンワルズさんさ、あの『権利』を独占するため、数人の部下を育ててるんだよ。

ほら、俺たちもその一部ってわけ。」


その言葉を聞いた瞬間、王学の頭は真っ白になった。

知らない情報が一気に押し寄せ、思考が追いつかない。


「……え、えぇ……?」


「それにさ、あの『女の子』の件まで利用するなんて……パディシュさん、本当に手段を選ばないよなぁ。」


(……な、何を言ってるんだ?)


(みんな……本当に、人のために動いてるわけじゃなかったのか?)


(「女の子」って……咲希ちゃんのこと? 手段って……どういう……)


受け止めきれない。

耳に入る言葉の一つひとつが、信じがたい内容だった。


咲希が電撃で震えていたあの件――

もし、それすら“利用された”のだとしたら。


その瞬間、王学の中で警戒プログラムが作動し、思考が強制停止される。

まるでフリーズしたコンピュータのように、情報処理が完全に止まり、かろうじて残ったのは 「歩く」と「帰り道を判断する」という最低限の機能だけ。


そうして王学は、ロボットのように家へ向かって歩き出した。

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