Layer-001
果てしなく広がる草原と、満天の星空。七色に輝く天の川が、その景色に幻想的な彩りを添えていた。
この光景は、地底の住民にとっては夢のようなものだった。
少しだけ左右を見渡し、視線を銀河の流れに沿って移動させると、ぼんやりと人影が見えた。
足を踏み出すたびに、草を踏む音がやけに大きく響き、吹き抜ける風が自然の香りを運んでくる。
やがて、その人影がはっきりと見える距離まで近づいた。
「彼女」は、こちらに背を向けて立っていた。
銀白色の髪が夜風に揺れ、星の光を受けてきらめく。その姿は、視界の中でひときわ目を引いた。
「約束だよ、ともちゃん。」
風鈴のように透き通った声が、耳を優しく震わせる。
この声にも、この約束にも覚えはない。それなのに、思わず口をついて出たのは――
「……七梓…星辰。」
名を呼ばれたのが聞こえたのか、少女はゆっくりと振り返る。
次の瞬間、理由のわからない圧迫感が脳を襲った。まるで、開けてはならない扉が鎖で強く閉ざされるかのように。
視界がどんどん滲み、やがて少女の輪郭が銀河の光に溶けていく。
そして――全ての感覚が途絶えた。
まるで炎が吹き消されたように、世界は漆黒へと沈んだ。
西暦2607年。
土曜日の朝。人工太陽の光が、地下1016-136441区の家々に降り注ぐ。もちろん、その中には「プリスラ孤児院」も含まれていた。
閉じた瞼が光に刺激されてわずかに動く。そして、ゆっくりと目が開いた。
視線の先には、壁際のフィギュア棚、机の上の小型ホログラム星図、そして右手首に巻かれた黒いリストバンド。見慣れた自室の光景が、目に映る。
「……やっぱり、思い出せない……」
少年――弓崎倫也は、そう呟くとスマートフォンを手に取り、時間を確認した。
午前五時五十九分。
この一週間、目覚ましが鳴る前に目を覚ますのが続いている。
大したことではないが、なんとなく「記録」しておきたい気分だった。
倫也はベッドから抜け出し、浴室へと向かう。
右手をセンサーの上にかざすと、白い光がともり、鏡の中の自分の姿が映し出された。
どんなときでも、鏡の中で一番目を引くのは――
額から左目を横切り、左頬へと弧を描く「し」字型の傷跡。
そして、変わらないのは黒髪と、何よりも、その目。
世界のすべてを拒絶するかのように、どこまでも冷めた瞳だった。
身支度を終え、倫也は階下へ降りる。
この時間なら、ちょうど朝食の準備をしているはずだ。
階段を下りると、年少の子供たちがすでに起きて、廊下で元気に追いかけっこをしていた。
彼らにぶつからないように、倫也は壁際に寄る。
そして、目的の場所――キッチンへと向かった。
そこでは、二人の女性がIH調理器の前に立ち、食材や食器が慌ただしく動き回っていた。
ひとりは孤児院の責任者、南明川燈。みんなからは「燈ママ」と呼ばれている。
そしてもうひとりは、今日の朝食当番の少女――倫也より二歳年上の姉、雪山凌奈。
凌奈の特徴を挙げるなら、それは「すべてが目立つこと」だろう。
先天的な遺伝の影響で、彼女の瞳は血のように赤く、肌は血の気のないほどに白い。そして、腰まで伸びた雪のような純白の髪。
その異質さのせいか、大抵の人が凌奈を初めて見たとき、吸血鬼か妖精と勘違いする。
しかし――今朝は少し違和感があった。
本来なら、朝食の準備は家にいる四人の最年長の高校生たちが交代で行うはずだ。
しかも、料理補助用のロボットもいるのに――
「またロボットが故障したのか?」
予想外の声がキッチンに響いた瞬間、凌奈は驚いて肩をぴくっと震わせた。
「お、おはよう、倫也。」
「週末なのに、ずいぶん早起きだな。」
「新しいロボットに買い換えたらどう? この型ももう旧式だろ。」
「孤児院の財政状況が、飢え死にするほどじゃないけど満足に暮らせるほどでもないって、きみも知ってるでしょう? 余裕なんてないのよ。」
倫也は唇を引き結び、それ以上何も言わなかった。
実際は、燈ママが思っているほど孤児院の経済は逼迫していないことを、彼は知っていたからだ。
朝食を済ませた後、倫也は黒いTシャツ、黒いロングパンツ、そして黒いパーカーを羽織り、駅前のカフェへと向かった。
道を歩けば、人間とロボット、そして機械装置がそこかしこに存在している。街行く人々の会話、作業を手伝うロボット、そして低空を滑る車両。運が良ければ、巡回中の「北門連軍」の隊員を見かけることもある。
駅に近づくにつれ、建物はどんどん高くなり、広告スクリーンがビルの壁面に密着して、商品宣伝の映像を流していた。孤児院のあるエリアと比べると、ここはずっと華やかで、色とりどりの光が大気の中を漂っている。
約束の時間まで少し余裕があったため、倫也は百貨店をぶらつき、自分の好きなアニメやVTuberの公式グッズを物色することにした。
時刻は午前7時50分。買い物を終えた倫也は、カフェに到着した。
受付を担当するロボットに案内され、空いている席に腰を下ろす。テーブル端のセンサーにそっと手をかざすと、メニューを表示するホログラムが空中に浮かび上がった。紅茶を一杯注文し、どれだけ待つことになるのかわからない時間が始まる。
午前8時4分。
カップの中の紅茶は残り三分の一。約束の時間を4分過ぎたころ、倫也の苛立ちは徐々に募っていた。
彼は遅刻や無駄な時間を極端に嫌う、効率至上主義者である。
自ら決めた「5分ルール」に従えば、あと1分待っても来なければ、せっかくの買い物で上がった気分も台無しになるところだった。
そんなことを考えていたその瞬間——。
カフェのガラス窓越しに、向かいの通りを全力疾走する二人の姿が目に入った。
一人は信号の変化をじっと見つめ、もう一人は時間を気にしている。その焦り具合から、明らかに約束の時間に遅れまいとしているのが伝わってくる。
信号が赤から青に変わる瞬間、少女は素早く左右の車の往来を確認し、大股で三歩ほど駆け抜けてカフェのある通りへ。一拍遅れて、少年も彼女の後を追いながら走ってきた。
「8時4分40秒……ギリギリセーフ!」
二人はまるで当然のように倫也の座る席に腰を下ろし、ホログラムメニューを開いて注文を始める。
「で、今度は何があった?」
「まずはっきりさせておくけどね、私たちが孤児院を出てすぐ、強盗事件があったんだよ。それで——」
「それで、リリコが追いかけた、だろ?」
「えっ? なんで分かるの?」
倫也と少年は同時にため息をついた。一方、少女——時見リリコは、「どうして私の行動を見ていたかのように言い当てられたのか?」と、不思議そうに首を傾げていた。
この二人——天宮迴と時見リリコは、倫也と同い年で、誕生日も彼より早い孤児院の仲間である。
迴は東洋的な顔立ちに、西洋人のような金髪を持つ美少年だ。
それだけではない。彼の成績は学年トップ、スポーツも万能で、特に頭脳は群を抜いている。すでに大学へ飛び級進学できるレベルにあり、地球最高の評価を誇る「オケアノス大学」からの入学許可を得ているほどだ。
おそらく高校卒業を待たずに地上へ行き、さらなる研究に打ち込むことになるだろう。
一方、リリコは迴とは正反対。
勉強に関することはすべて彼女にとって苦行であり、成績を気にするそぶりすらない。
愛らしい顔立ちに肩までのショートボブの茶髪、引き締まったスタイルを持つ彼女は、明るくお気楽な少女だった。
彼女は孤児院の周辺エリアでは名の知れたアスリート……いや、アスリートという言葉では表しきれないほどの「体力怪物」だった。100メートル走の記録は9.03秒、立ち幅跳び4.11メートル、握力120キロ。彼女の身長と体重は一般的な女子高校生と大差ないにもかかわらず、この驚異的な身体能力を持っている。
やはり、時として「遺伝の力」は、理屈では説明しきれないほどの差を生み出すものなのだろう。
同時に、廻、リリコ、倫也、凌奈の四人は、他の人々から「孤児院高校生四人組」と呼ばれることもあった。
この奇妙な呼び名の由来は、単に年齢が近いというだけではない。四人は不思議なことに、ほぼ同じ日に孤児院へ預けられ、それ以前の記憶をほとんど失っていたからだ。
さて、週末の朝に彼ら三人がカフェで待ち合わせた理由は――
廻は、プラズマライトストリップを搭載し、ホログラム投影対応のキーボードエリアを持つ、未来的なデザインのノートパソコンを取り出し、テーブルの上に置いた。その外見は、「経済的に苦しい孤児院の子供」とはかけ離れていた。彼はキーボードを打ち込みながら言った。
「昨日、またあの常連客から依頼案件が来たよ」
「常連客?『firefly』のこと?」
「そう。その『firefly』から、これまでの依頼案件よりずっと難易度の高いものだ。ターゲットは『地表』にある」
「地表……!」
その言葉を聞いた瞬間、リリコは緊張し、倫也はカップの中の紅茶を見つめながら、それを今すぐ飲み干すべきか考えた。
「報酬は?」
「これまでの五倍だ」
「ご、ごばいっ!?」
驚きのあまり叫びそうになったリリコは、慌てて自分の口を押さえた。
「firefly」からの依頼案件で報酬が五倍となると、それは莫大な金額に違いなかった。
「成功したら、家のロボットを新調しようと思うんだけど」
「“ジョージ”のことか?」
「いつの間にロボットに名前なんか付けたんだ?」
「確かに、あれはもう寿命だろ。でも燈ママに怪しまれないか?」
「どうせ大学に行く前には、こんなこと辞めるんだろ?」
「燈ママや凌奈姉さんに隠れて依頼を受けてることが、いつ終わるかはどうでもいい。大事なのは、『firefly』がこう言ってるってことだ」
そう言いながら、廻はノートパソコンを操作し、「firefly」から届いた依頼のメールを表示させた。
「これがあなたたちへの最後の依頼案件だ。
地底第4層にある『薬物化学研究センター』へ潜入し、指定されたデータ『project_BD』と『project_RY』を盗み出し、ブラックマーケットの密接ネットワークを経由して、このメールアドレスへ送信しろ。
また、これまでの依頼案件はすべて、この任務のための準備だった。そして、この依頼案件はあなたたちの失われた記憶とも関係している。
慎重に行動することを勧める。」
リリコと倫也はメールの内容を読み終えると、言葉を失った。
その理由は、依頼の難易度だった。
「今までの依頼は、あたしたちを訓練するためのものだったって?」
「それより問題なのは、今回は地表に行かなきゃいけないってことだろ!」
「この依頼、断れないのか? 僕、地表で死にたくないんだけど」
「倫也、お前何言ってんだ?」
もともと、廻は自分、リリコ、倫也の三人が人並み外れた能力を持っていることに気づき、その力を活かして誰かの役に立てないかと考えたのが始まりだった。
最初は単純に、近所の人々の専門的な作業や体力を要する仕事を手伝い、相場よりも安い報酬で請け負っていた。
しかし、ある日「firefly」からの最初のメールが届いた。そこには今回と同じく「この依頼は君たちの失われた記憶と関係している」と、一字一句違わず記されていた。
「firefly」が最初に彼らへ課した依頼は、「地底第12層にある有名建設会社の幹部の自宅に潜入し、不正な粗悪建材の購入証拠を盗み出すこと」だった。
そして、その報酬は三万ドル。
この建設会社は、地底ではすでに悪名高く、廻はこの依頼を試してみる価値があると考え、三人で実行することを決めた。
結果として、この事件をきっかけに、三人組はダークウェブの裏社会で名を知られるようになり、「冬の大三角」と呼ばれるようになった。
その後も依頼は次々と舞い込み、その内容は次第に「北門連軍」の規範から逸脱し始めていた。
そこで、廻は依頼案件の選別を行い、犯罪に関与するような仕事はすべて断るようにしていた。
また、三人はブラックマーケットのコネを利用して、仕事に必要な電磁兵器や特殊装備を購入し、専用の倉庫を借りて保管していた。
余った金は、たいてい孤児院の税金を「北門連軍」に納めるためや、ちょっかいを出してくる地元のチンピラたちを黙らせるために使われていた。
もちろん、燈ママや凌奈姉にはこのことを一切秘密にしている。こんな危ないことをしているなんてバレたら、一ヶ月の外出禁止は確定だろう。
孤児院関連の話はさておき、依頼案件を引き受けると決めた場合、次に考えなければならないのは「地表」にどうやって侵入するか――
「倫也、どうせ『地表』への潜入方法を考えてたんでしょ?」
リリコが自信満々の笑みを浮かべながら問いかけた。
「……まさか、もう通行証を手に入れたのか?」
「ブラックマーケットなら何でも手に入るよ? 俺たちが聞いた時も『そんなの簡単だろ』って軽く返されただけだったし。となると、あとはどうやって研究センターに潜入するかが問題だね。」
「いや、システムをハッキングすれば済む話じゃないのか?」
「地表の防衛システムを地底と同じ感覚で考えないでくれる? データが研究センターの内部システムに保存されてるならまだしも、もし地表のどこかのクラウドサーバーにあるなら、話はもっと厄介になるよ。」
「ちょ、ちょっと待った! 廻、もう依頼案件を受ける前提で話進めてない?」
「お前、自分の失われた記憶に興味ないのか? 俺はめちゃくちゃ気になるけどな。それに、大体の作戦プランはもうできてる。」
「えっ、そんな早いの!? さすが天才!」
「問題ないなら、移動中に計画をまとめて送るから、地表に向かう途中で詳しく説明するよ。」
「……今日出発?」
「なんだ、推しのVtuberが配信でもするのか?」
「いや、ちょっと展開が早すぎて……。」
三人ともまだ学生だ。特に理由もなく夜外泊なんてしたら、帰宅後に凌奈の訊問が待っているのは明白だった。
だからこそ、廻は「今日中に速攻で終わらせる」という作戦を提案したのだ。
二人は廻の提案に同意すると、すぐに小さな倉庫へ向かい、装備を整えた後、今まで足を踏み入れたことのない地表のエリアへと向かった。




