前半
夕焼けの日差しが差し込む放課後の教室。
机の向きを変えて向かい合わせにして席に着く。
互いに教科書とノートを広げ、シャーペンを片手に香織の明確な説明を拝聴する。
香織の説明はとても分かりやすく、自分がいまいち解っていなかった部分にかかっていたもやを次々に晴らしていく。
「・・・と、いうことよ。わかった」
「・・・」
「・・・ちょっと、聞いてるの」
「あ、ごめんごめん。ちゃんと聞いてるよ」
ご立腹で聞いてくる香織に慌てて謝罪する。
決して聞いていなかった訳ではない。その香織のころころとした耳に心地よい声に聞きほれていた。
「まったく。里奈がお願いしてきたからこうして教えてあげてるのよ」
「はい。わかっています」
机に両手をついて大げさに謝罪をする。
そうなのだ。先のテストでのあまりに不甲斐ない結果の為、再試となってしまった。これで及第点を取らないと色々とまずい。
そこで香織に頼み込んでこうして放課後に補習の講師をお願いしている。
香織は才色兼備を地で行くような人間で、その麗しい面持ちと立ち居振舞いは数々の男どもを魅了して、その才は常に成績上位者であることが如実に示している。
そんな私に無いものを全て持ちそろえている香織が、何故か私の親友なんかをしてくれている。
香織にとっては取り巻きの一人でしかないはずの私の切実な願いを聞いてくれて、こうして補習に付き合ってくれる。
「ほんとにごめんよ。私がバカだから・・・」
「そうやって自分を卑下しない。里奈はやればできる子なんだから」
「・・・・ありがとう」
香織の手を握り締めて握手する私の手を振りほどきながら香織は言葉を続ける。
「はいはい、そういうのは追試を通過してからね。さあもうひと頑張り」
「・・・へい」
頭を切り替えて再度目の前の問題に集中する。香織の助言が効いた為、先ほどよりはとっかかりが見つけ易い気がする。
勢いに乗った所で数問を連続で解く。
ふと、顔を上げると私のノートを真顔で見ながら、手ではシャーペンをクルクルと回し続ける香織の姿。
私が視線を上げた為、視線がぶつかりそれが香織には救難信号に見えたらしい。
「ん?何か解んない所が有った?そんな感じには見えなかったけど」
あなたの心の内が解りません。
口から出そうになる本音を必死に抑えて、オブラートに包んで声に乗せる。
「今日はいきなりこんな事お願いしてごめんね。他の子と遊ぶ約束とか有ったんじゃないの」
突拍子もない私の疑問に若干面食らいながらも、香織は答えてくれた。
「うーん、わかんない。誘われる前に予定が入っている事を話したから、誰からも誘われなかったし」
「ふーん。・・・もし予定が入っていたらそっちを優先したんでしょ」
そんな嫌な聞き方をしてしまう自分が大嫌いだ。
しかし香織はそんな私の心の陰りにも気が付かずに真顔で答えてくれた。
「そうねぇ、もしその先に入っていた予定がただの遊ぶ約束だったらそっちを断っていたかもね。友達と遊ぶのもそこそこ重要だけど、再試を通過する事のほうが大切でしょ。
里奈が再試を落とす事は、親友として避けたいし」
香織にとって私は大切な親友たちの1人。そんな親友の1人が困っていれば手を差し伸べて助けるのは当たり前、と言うことだろう。
それはとてつもなくありがたいし、嬉しい。
しかし、それでも、私は香織の特別な一人になりたいと心の奥底で思ってしまう。
そんな邪悪な心の奥底には気が付かなかったふりをして、香織に言葉を返す。
「ありがとう。絶対再試を通過するから。そしたらどこか遊びに行こう」
「そうね。「皆で遊ぶ」っていう目標が在ると頑張る動機になるんじゃない」
香織の無意識で放つ鋭利なナイフが突き刺さる。そうじゃない。そうだけど、そうじゃない。
「まあ一番はテスト自体を落とさないように常に勉強をしていれば、こんな慌てて詰め込むような事をしなくて済んだんだけどね」
「・・・正論過ぎて、返す言葉が見つかりません」
二人で笑いあってから、気を取り直して目の前の問題に集中した。
気が付けばとうに窓の外は真っ暗になっていた。教室の蛍光灯に照らされた壁掛け時計を見るともうすぐ完全下校時間。
「そろそろ時間切れね。」
私の行動につられて一緒に時計を見上げていた香織が呟いた。
「どう、少しは理解が進んだ」
「・・・ばっちり、と答えたいところだけど、まだいまいち不明瞭な部分も」
この放課後の時間で書き進んだノートを見返して、正直な感想を答える。
「見てた感じだと、あとは数さえこなせば自分のものに出来そうな感じだったけど」
私の答えに意外そうな顔で答えてくれる。
「じゃあ、明日も続きをやろうか」
まさかの香織の一言に飛び上がりそうになるのを抑えて答える。
「香織が大丈夫であれば、是非とも」
すがる様に頼み込むと、苦笑しながらも了承してくれた。
決して役得ではない、と自分に言い聞かせる。解らない所があるのは本当だから。
自分の浮足立ちそうな気持を抑え込んで、香織に感謝の気持ちを伝える。
そうこうしていると完全下校時間を知らせる放送が入る。慌てて勉強道具を鞄に詰めて、校舎の外に出る。
「こんな時間までつきあわせて本当にごめんね。でもすっごく助かった」
「いいよ。私も一緒に復習して勉強になったし、人に教える事は自分の理解にもつながるし」
「出来れば明日もまたよろしくお願いいたします」
ふざけて大げさに頭を下げて懇願する。
「あはは。大丈夫だよ、明日も付き合ってあげる」
香織の満面の笑みを独り占め出来ている事に気が付いて、今回の追試に少しだけ感謝した。
「じゃ、また明日」
「うん、また明日」
校門の前で別方向に分かれる。
帰り道が同じ方向であればもう少しおしゃべり出来るが、実際は全くの逆方向。それに電車通学の私は駅と学校の往復路以外のこの辺の地理をよく理解していない。
仮に香織の家を知っていればお邪魔して勉強を教わるという手も取れただろうが、流石にそれは香織に申し訳なさすぎる。
何よりもこんな不純な気持ちを隠している自分が香織の家を知る事は、事態の悪化を招くにせよ良い方向にはまず転ばないだろう。
自制の意味を込めて、香織に会うのは学校の中だけで良い。
翌日の放課後も同じように机を移動させて、対面で補習を開始する。
「本日もよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
ふざけて大仰に挨拶を交わす。
「と、言っても教えられる所は大体昨日教え終えちゃったから、今日は問題集を解くのを監督してるわ」
「りょーかい」
昨日言われた様に基本的な部分は理解している、気がする。
その為か、香織は昨日ほど饒舌にはご教授してくれなかった。
だから私はただ黙々と目の前の問題集を解いていった。
そんな徐々に書き連ねられていく私のノートを、相変わらずの真顔でシャーペンを回しながら香織は眺めていた。
香織に教えてもらう前は全く取っ掛かりすら掴めなかった問題たちが、悪戦苦闘ながらも解けるのは確かに快感だ。
パズルゲームの難問に対して頭をこねくり回して解いた時の様な爽快感がある。
そんなわけで途中からは意気揚々と問題に取り組んだ。
ふと、香織のかみ殺した欠伸を聞いてしまった。
それを聞いてしまった瞬間、全身から冷汗が出たのを感じた。心臓が早鐘を打つ。
なんてことをしてしまっていたのだろう。
考えてみれば当然だ。こんな低レベルな補習につき合わせてしまった、しかも二日連続で。
それなのに私は自分の勉強の事ばかりに気を取られていて、香織に対する心配りを完全に忘れていた。
なぜ途中途中で雑談を挟む事を思いつかなかったのだろう。
香織だって本当は私との約束以外のもっと楽しい約束が有ったかもしれないのに。もしかしたら後ろ髪を引かれる思いでその約束を断ってきたかもしれないのに。
自分勝手な自分が本当に嫌になる。
考え始めたらそのことばかりが気になって既に頭の中は大混乱状態で問題なんか解ける状況ではない。
「あ、ごめん。集中の邪魔をしちゃったかしら」
私の筆の速度が落ちたことを直ぐに気づいて申し訳なさそうに香織が言ってくれるが、謝りたいのはこちらだ。
「あ、ううん。全然そんな事無いよ」
冷静に答えたつもりだが声が上ずっているのが自分でもわかる。
「でも、香織のせいじゃ無いにしても集中力が切れちゃったのは本当かも」
苦笑いを浮かべながら、未だこちらを心配してくれているであろう困ったような顔をする香織にこたえる。
わざとらしくならないように、壁掛け時計に視線を向ける。完全下校時間まではもう少しある。
しかし、これ以上香織をこのひどい有様の空間に束縛する事が私にはとても出来ない。
「今日はちょっと早いけど、この辺で終わりにしよっか。なんとなくコツみたいなものも掴んできたし」
「・・・なんか私のせいみたいでごめんね」
謝らないでほしい。香織への配慮を欠いたのはこちらなのだから非難はされても謝罪はされる身の上ではない。
こちらが弁明を重ねれば重ねるほど言い訳がましくなっていく。完全に泥沼だ。
どんよりとした暗い空気の中、勉強道具を鞄にしまう。
校門までほぼ無言のままついてしまう。
「あれ、今日はもう終わり?」
校門あたりで騒いでいた男子グループの一人が声をかけてきた。
香織の彼氏なのだが、香織本人はその関係を皆に対して未だに隠し通せているつもりで居る。
傍から見ればバレバレの関係性を、隠しきれていると思い込んでいる香織がかわいい。
そんな香織にとって特別な人間の一人。私としては香織の彼氏というだけの存在で、知人以上友人以下という関係でしかない。
いつもであれば香織とのひと時を邪魔するだけの存在だが、今日は、今日だけはありがたい。
「あ、純隆君」
香織が声をあげる。
その香織が彼氏にかける声がいつも以上に嬉しそうに聞こえる。それだけ私と二人きりの時間が苦痛だったという事だろうか。
それが私の思い込みなのか本当にそうなのかは、できれば知りたくない。
「じゃ、じゃあ私は先に帰るね。じゃあね。」
まさに脱兎のごとく校門前から立ち去る。
一方的な私の態度に、香織が何かを言おうとしていたが気が付かなかったふりをして、歩を進める。
駅までの長い通学路。ぐちゃぐちゃな心の中で後悔と絶望が幅を利かせる。
「・・・明日、どんな顔して合えば良いんだろう。」
口からぽつりとこぼれた疑問。
気まずくなるぐらいなら御の字だ。下手をすれば明日以降の学校生活は生き地獄かもしれない。
「もうやだ・・・」
これまでの学生生活をほぼ皆勤賞だった私だが、初めて心の底から明日の学校に行きたくないと思った。
いつもの帰り道が涙でぼやける。