第三話 剣聖
「君が…剣聖なのかな」
バリバルの話では、剣聖は老人だったはずだ。目の前にいる女性が剣聖であるはずがない。しかし確かに、彼女は腰に刀を差している。
困惑するイグリダを見て、女性は薄く微笑んだ。
「私はペトラ、剣聖じゃないわぁ」
「そう…か…、それでは、その刀は何かな。俺は剣聖の武器として聞いていたのだが」
「そうねぇ、これは剣聖の武器よぉ。私は剣聖の弟子なの」
なるほど、ようやく合点がいった。魔法ではなく、剣で最強となった男がいるのなら、イグリダのように稽古をつけてもらいたいと思う人間が現れても何もおかしくはない。おそらくペトラも、なんらかの目的があって修行をつけてもらっているのだろう。
それにしても、森で疲れ果てているところにやってきてくれるとは、なんと運がいいのだろう。
「ペトラ、剣聖の屋敷まで案内してもらえないだろうか。俺も剣聖に弟子入りするために来たのだ」
「………」
ペトラは考え込むわけでもなく、ただ穏やかに微笑んでいた。返事がないということは、何かしら問題があるのだろう。流石に剣聖とも呼ばれるのだから、自力で屋敷にたどり着けないと弟子入りはさせてもらえないかもしれない。
「いや、すまない。甘えたことを言ってしまったね。忘れて欲しい」
「………」
またしても何も言葉を発さないペトラに、イグリダは流石に違和感を感じた。まるで時が止まったかのような感覚だ。魔法の類か、或いは———
「…まさか」
いや、ありえない。現に、先程まで会話をしていたのだ。
だが万が一ということもある。イグリダはそっとペトラの顔を覗き込んだ。
「ふむ、間違いない」
完全に眠っていた。
※
出会った瞬間から、ペトラの声は色っぽいと感じていた。無論、イグリダがペトラの魅力に魅入られたという訳ではないが、声の特徴としては間違いないと思っていた。
だが、それは完全に勘違いだった。ペトラはただ睡眠欲に耐えていただけだったのだ。目を少し細めているのも、ただ単に眠いだけなのだろう。
正直、会話中に立ちながら眠ってしまうというのは理解し難いが、世の中には様々な人間がいる、と無理矢理納得した。
ペトラ曰く、剣聖に会うのに特に条件はないそうだ。そもそも人が訪ねてくること自体が数年ぶりとのことで、ましてや弟子になるためにやってきたのはイグリダたちが初めてらしい。
「もうすぐ着くわぁ」
先頭を歩くペトラが、首だけをこちらに向けて眠そうに言った。同時に、アラスタが唾を飲み込んだのが見えた。
アラスタはまるで氷にでもなってしまったかのようにカチコチに固まっている。イグリダには想像することしかできないが、おそらく、王家の人間として剣聖に会う以上、失礼な態度は取れないからなのだろう。
「そう緊張する必要はない」
イグリダは優しく声をかけた。
「君は王子として剣聖と交友関係を結びにきたわけではない。ただ、俺の仲間として振る舞ってほしい」
「わ、わかった…」
少し緊張がほぐれたのか、アラスタはまるで風船の空気を抜くような深呼吸をした。余計に体が固まってしまいそうだ。
小さな洞窟のようなものを抜けると、やがて木陰の奥に立派な屋敷が見えてきた。
クアランド王都とはずいぶんかけ離れた、独特な建築だ。おそらくこの周辺の地域の建築技術だろう。風通しの良い、大自然の息吹をより感じられる作りになっている。
そしてイグリダの目に、一人の老人がうつった。
外にむき出しになった床に腰掛けた、灰色の髪の老人だ。かき上げた髪を全て後ろにまとめている。服はペトラと同じように奇妙な服を着ているが、下はペトラとは違い、露出が限りなく少ないものを履いている。あれは確か、袴と呼ばれる、王都でも稀に見かける衣服だ。そしてその腰には、ペトラよりも少し大きめの刀が2本差してある。
紛れもない剣聖の姿だ。
「セン、お客さんよぉ」
ペトラが声をかけると、センは瞑っていた目をゆっくりと開いた。
鈍色の目だ。
「初めまして、剣聖セン」
穏やかなイグリダの声に、センは目を細めた。
「お主、名は?」
「イグリダです」
「そちらの少年は?」
「ア、アラスタです。王子です。あの、イグリダの仲間です」
できるだけハキハキと話そうとするアラスタを見て、センとペトラは苦笑した。
「何用か」
「あなたの元で、戦い方を学びたい」
直後、センは目頭をつまみ、深いため息をついた。
「まあそうだろうな…」
「驚きました。あなたには人の心を読む力が…?」
「ふっ、そのような魔術は心得ておらん。ただ、主の目に野望を感じただけだ」
「………」
正直、あまりこの話は長続きしてほしくない。自分のことをそう易々と語るわけにはいかない上、今は時間が惜しいのだ。
「どうか、あなたの技術を教えて欲しい。魔法を使わずに魔法使いと戦う力が、私には必要なのです」
「お主は、無条件でわしに剣を教えよ、と?」
センは鋭い眼光をイグリダに向けて放った。そのつもりでここを訪れたイグリダとしては、返す言葉がない。
「何と図々しい青年だ」
「私には支払えるものなどありません」
「…………よかろう」
センは口元の髭をなぞりながら、やがて決心したように頷いた。
「条件を達成すれば、戦い方を教えよう」
「条件とは?」
「ペトラに勝て」
その一言に、イグリダは僅かに目を見開き、アラスタは心配そうにイグリダを見上げ、ペトラは船を漕いだ。
「ペトラには4歳の頃から剣を教えている。もし主がこの屋敷に滞在し、独学で修行し、何度も剣を交えるうちにペトラに勝てるものなら、実力を認め、わしが直々に剣を教えよう」
「屋敷に泊めてもらえるのですか」
「まさかただ宿を探し求める旅人というわけではあるまい?」
センはニヤリと笑うと、そばに置いてあった菓子を口の中に放り込んだ。話は終わりとでも言うようだ。
「それではペトラ、部屋に案内して…」
そう言いかけ、イグリダは口をへの字に曲げた。ペトラはすでに夢の中だ。
これからの苦労の約四割は、ペトラが占めることになるだろう。
※
屋敷といっても、大きさは王都の屋敷には遠く及ばない。一階に居間と台所があり、二階に個室が3部屋あるだけだ。独特な建築と匂いを楽しみながら、イグリダとアラスタは新鮮な気分で屋敷内を歩いていた。
廊下の突き当たりの部屋にたどり着くと、ペトラは箒を手渡してきた。
「お掃除、頑張ってねぇ」
「掃除…」
どうやら長いこと使っていないらしい。部屋に入ってみると、なるほど、確かに煤だらけだ。虫の巣が張り、床は少し剥がれている。もう前の住居人がここを去って、少なくとも一年は経っていそうだ。
しかし箒での掃除は慣れている。おそらく数分足らずで終わるだろう。
「アラスタ、君はこのスペースを…」
言いかけて、イグリダは口を閉じた。アラスタが手のひらを前に突き出していたからだ。
「どうしたのかな」
「『ウィンド』」
直後、凄まじい風圧がイグリダを襲った。
否、これは風圧ではない。まるで魔法の中心に吸い寄せられるかのような力だ。この技術にイグリダは目を剥いた。
風属性の初級魔法『ウィンド』は、魔法使いが最初に習得する四つの攻撃魔法の中で最も攻撃力が低く、最も攻撃範囲が広い。相手を強く押し出す力があり、魔法使いはこの特性を利用して、攻撃ではなく牽制用の魔法として使いこなす。
だが、今アラスタが放った『ウィンド』は、相手を押し出すのではなく吸い寄せる性質を持っていた。これは当人が魔法を放つ際に魔法陣を改変し、性能を大幅に変えることによって起きたものだ。
(中級魔法を使えない未熟な少年だと評価していたが…)
彼は中級魔法を学ぶ前にすでに魔法陣改変の技術を身につけていたのだ。どうやら天才らしい。
「君はすごいな…」
「えへへ」
照れ臭そうに笑うアラスタに笑いかけ、イグリダは部屋を見渡した。
ウィンドによって集められた煤は、部屋の奥に固まっている。あれを箒で掃けば掃除は終わりだ。
この身で魔法の神秘を感じれば感じるほど、剣聖の実力に興味を持つ。この強大な力に立ち向かうためにも、まずはペトラに勝つことから始めよう。
「アラスタ、君はこれからどうするのかな。やはり魔法の勉強を?」
「そうだね、この部屋を使わせてもらうことにするよ。イグリダはペトラに挑み続けるの?」
「…無策に挑むわけではない…が、まずは様子を見ておかねばならないね」
「それじゃ、今から?」
「ああ、少し行ってくるよ」
そう言って、イグリダは部屋を後にした。
木の匂いがする、良い匂いだ。旅で疲れたイグリダの心を癒してくれる。天下を統一したら、この空気感の国を一つ作ってもいいかもしれない。
階段を降り、居間に入ると、センが茶を飲んでいた。
「来たな、イグリダ」
センは湯呑みを置くと、壁に立てかけてあった木の棒をイグリダに渡した。
「これは?」
「主の武器だ。折れにくいよう細工がしてある」
そう言い、センは再び座ってしまった。
武器、それは旅に出て以降、久しく手にしていなかった。挙げるとすれば『死神』の村の鍬だろう。あれに比べて遥かに軽い。
「ありがとうございます」
「ふっ、武器とは言ったが、それは武器とは呼べん。主とペトラがお互い怪我させぬよう用意したものだ。本物の武器が欲しければ、ペトラに勝つことだ。さぁ、ペトラ、相手をしてやりなさい」
「……はぁい」
ペトラは身を起こし、同じく壁に立てかけてあった木の棒を手に取り、こちらを流し見る事もなく庭へ歩いて行った。
彼女は何を考えているのか全くわからない。しかし会話は通じる。何とも不思議な気分である。
イグリダも庭に出ると、ペトラは無言で木の棒を構えていた。何を話すつもりもなく、ただ戦いの合図を待っているかのようだ。
「ルールは、相手に一撃与えれば勝ち。武器を奪うのもあり。剣技、戦意操作はなしだ」
センは居間から声を張った。
聞き慣れない単語だ。ペトラが小さく頷くのを見て、イグリダは納得した。おそらくセンがペトラに教えた技術だろう。それこそが魔法に対抗する術なのだ。
もうすでに戦闘は始まっている。ペトラが微動だにしないのは、イグリダに先手を譲ると言うことだろう。
舐められたものだとは思わない。事実、二十年近く剣を振り続けた相手に初見で勝てるなどとは微塵も思っていない。
だがイグリダも魔物と戦って十数年、相手の攻撃を分析していけば、そのうち勝利への糸口は見つかると信じている。
ジリジリと距離を詰めていくイグリダに、ペトラは警戒することなく構えている。まるでイグリダの動きが全て読めているような態度だ。事実そうなのだろう。
だが、あえて手のひらの上で踊る。負けが許されている以上、相手の技を出し尽くさせるのみだ。
「はぁ———ッッッ!!!」
自分でも笑ってしまうような、正面からの斬りかかり。故郷で披露すれば笑いものだろう。単純な斬りかかりは、躱して横から反撃を取るだけで勝てる。
だが、ペトラはそうしなかった。彼女は下から剣を切り上げ、イグリダの攻撃を正面から弾いたのだ。
「な…ッ!?」
予想だにしなかったことだ。この動作はイグリダが知る反撃よりも遥かに効果が薄い。
躱して反撃を取るのであれば、武器を振るまで最小限の動きで可能だ。しかし武器を一度振り上げ、もう一度下ろすのでは、反撃のスピードが明らかに遅い。イグリダがもう一度剣を振り下ろせば、反撃を防ぐことができる。
しかし、次の瞬間にイグリダの左肩を、強烈な打撃が襲った。
「!?」
間違いなく、今のは攻撃だ。要するに負けである。負けであることは理解できたが、攻撃は見えなかった。
イグリダは相手の攻撃を見切るのはかなり得意な方だ。村に魔物がやってきたときの初陣でも、師にはそのことで褒められた。何年も戦っているが、攻撃をまともに喰らったことはほとんどない。人間離れしたアグラの動きも簡単に見切ることが出来た。
だが、今のは違う。イグリダの目を持ってしても見切れなかった。あれは特別な技術ではなく、長年刀を振り続けてきた彼女の努力の賜物だろう。
勝てるのか?この相手に。そんな疑問がイグリダの頭に渦巻く。
いや、やるしかない。一刻も早く打開策を見つけなければ、盗賊王には程遠い。
「もう一度、手合わせ願いたい」
※
昼過ぎになっても、進捗はほとんどなかった。
まず、ペトラは一歩も動かなかった。ただイグリダの攻撃を捌いているだけだ。これではイグリダが反撃を喰らうだけで終わる。
正直不利だ。相手の強さに食らいつくには、カウンターで攻めていくのが一番効果的だが、それが封じられればイグリダは攻めざるを得ない。
だが、相手のカウンターは見切れない。このままでは埒があかない。
「戦いには三つのカタチがあるんだ」
「三つのカタチ…何かな」
イグリダに問われ、アラスタは本を置いた。
「攻め対攻めと、攻め対守り、そして守り対守りの三つだ」
それは当然のことだ。戦う以上、攻めか守りのどちらかには属することになる。攻めか守り、どちらか得意な方を選んで戦うのだ。
しかし、アラスタにはもう一つ先が見えているようだ。
「これはただの戦術じゃない。目的に左右されるんだ」
「目的?」
「うん。イグリダは多分魔物と戦う時、攻めの型で戦ったことがないんじゃないかな」
そう言われて、イグリダは眉を顰めた。
確かに覚えはない。戦う魔物は誰しもが、攻めの型でイグリダと戦ってきた。
「それは、魔物がイグリダに危害を加えなければ、イグリダも攻撃する必要がないからなんだ」
「……すまない、よく分からないな」
「うーん…」
アラスタは首を捻らせ、数秒悩んだのち、やがて口を開いた。
「君が今まで魔物を攻撃する必要がなかったのと同じように、ペトラには君を攻撃する理由がない。何せ、僕らが勝手にここに住み着いてるだけだからね。向こうに何の利益もないなら、守りの型がよほど効果的だ。君が攻めざるを得ないのは必然なんだ」
「…守りの型では戦えない…か」
「うん。だから勝つなら、相手を攻めの型に誘導するか、攻めの技術で自分が勝るか、この二択しかない」
「…なるほど」
当然、慣れない木の枝で戦うのは、攻めも守りもペトラの方が経験は遥かに上だ。かといって、あの能天気なペトラが攻めざるを得ない状況など考えられない。
つまりイグリダは、攻めの技術を磨いていくしかない。
「やるしかない…な」
依然、それは変わらない。
※
「はぁッッ!!」
ペトラが振り下ろした木の棒を、イグリダは見切っていたように弾いた。
イグリダが浅はかな剣撃を行えば、同じカウンターを喰らうことはすでに分かっている。それが分かっているのならカウンターの対処は簡単だ。一度剣を振り上げている以上、振り下ろす以外に反撃の手段はないのだから。
だが、問題はその先にある。
カウンターを防いだとしても、再びイグリダが剣を振り下ろせば、ペトラのガードが間に合ってしまうということだ。これは大問題である。
現状イグリダには、相手のガードを崩して攻撃する以外に手立てがない。相手が守りの体勢である以上、それしか方法はないのだ。
だが、ガードを崩してもすぐにガードされてしまう。そして万が一ガードが間に合わなそうな場合は、ペトラは飛び下がって距離を取る。壁に追い詰められればいいのだが、あいにくペトラは、相手の攻撃を反対側にいなす術も持っているようだ。追い詰めても、互いの向きが変わってまた反対の壁まで押していくというループに入る。
「はぁ…はぁ…」
息を切らして、イグリダはその場に座り込んだ。戦闘中だが、イグリダが攻撃してこなければペトラは何もしない。
策を強いて挙げるとすれば、相手の武器を奪うというものだ。しかし武器を刀と見立てている以上、正面から武器を掴みにいけば攻撃を喰らったという判定になるだろう。横から掴むか、ペトラに直接掴みかかるかだ。
しかしそれは間合い的に現実的ではない。木の棒は意外と長いので、互いの距離は思っていたよりも離れているのだ。武器を奪うのであれば直接ではなく、相手の武器を弾き飛ばす方が成功率は高い。
それも、ペトラよりも自分の方が打撃が正確だった場合のみだ。
「食事だ」
センの声ではっとし、イグリダは空を見た。
夕日だ。気づけばかなりの時間が経ってしまっている。
(問題ない、まだ1日目だ)
自分にそう言い聞かせ、イグリダは床に上がった。
食事はなんの変哲もない、普通の家庭料理だった。なんと、普段はペトラが作っているらしい。彼女の場合は料理中に寝てしまいそうだ。
風呂は外にあったので、全員で交代で入った。そして夜は、アラスタと同じ部屋で布団を敷いて寝た。
明日は進捗がある。明日こそ、攻撃を見切って見せる。
そうして、1週間が経った。
※
月を見上げながら、イグリダは縁側に座って物思いに耽っていた。ここの空気は故郷とは違うが、イグリダの心は何故か安らいだ。
庭にはさまざまな木が植えられているが、どれもイグリダの知らないものばかりだ。この地域の文化は一通りセンに聞いたが、新しい国を作るにあたって、これらの木も熟知しておいた方がいいだろう。
進捗はほとんどない。覇王になる目的は、この調子で果たされるのだろうか。
「…弱気だな」
この程度で目的を諦めるのなら、イグリダに最初からその資格はない。覇道を進み、武力で世界を統治する。その目的を果たすには強き心と、強大な武力が必要だ。
アラスタには信頼されている。同じく世の中を変えようと奮闘する彼にまっすぐな目で見つめられて、弱気になるなど許されない。
「あらぁ」
不意に、背後から声がかかった。
「…ペトラ、どうしたのかな」
「気になっただけ」
眠そうにそう言って、ペトラはイグリダの隣に腰掛けた。
「伸び悩んでるのねぇ」
「その通りだが…、俺は勝てると信じているよ」
「どうして?」
「俺は覇王になる者だからね」
覇王と聞いて、ペトラは微笑んだ。
「誰かを守るための武力は、とても強い力になるわぁ」
「…ありがとう」
そう呟き、イグリダははっとした。心なしか、救われたような気分だったのだ。覇道を歩んで今まで、誰かに励まされたことなどなかった。
まだまだ未熟だ。
「君は、どうして眠そうなのかな。それも強くなるための秘訣だということかな」
うとうとして船を漕ぎ始めるペトラに、イグリダは問う。
流石に覇王がペトラのように眠そうだったら民も安心できないので、参考にするつもりはないが。
「私はねぇ、物心ついた時からずぅっと、眠くて眠くて仕方なかったのよぉ」
「…………それは病の類ではないか?」
「ふふ、そうねぇ」
優しく微笑み、ペトラは立ち上がった。
「寝るわぁ」
「ああ、おやすみ」
ペトラの後ろ姿を眺めながら、イグリダは大きく欠伸をした。彼女を見てると自分まで眠くなってくる。
だが所詮はもらい欠伸だ。まだ練習はできる。
イグリダは木の棒を手に取り、庭に出て素振りを始めた。
(ペトラのように、真っ直ぐな斬撃を放てるよう…)
両手で木の枝を振り下ろす動作も、数日でだいぶ慣れてきた。だが、慣れただけだ。攻撃の威力とスピードが増したわけではない。
一回、二回、まずはゆっくり、正確に棒を振り下ろす。より真っ直ぐな力で、仮想の敵に攻撃を与える。
三回、四回、早める事なく、ゆっくりと、継続して攻撃を与える。
五回、六回…
「……ッ!」
突如、正面から何者かが斬りかかってきた。
イグリダはその攻撃を棒でいなし、慣れたバックステップで距離をとった。
「…筋は良いみたいだな…」
青年はそう呟き、手に持つ木の棒をこちらに向けた。イグリダは対応するように、油断なく青年を睨んだ。
黒い着物と袴で全身を覆った男だ。髪はちぢれ生え散らかしている。そして腰には———刀が差してある。
(もう一人弟子がいたのか…?)
だとしても、イグリダを攻撃する理由にならない。センがそのような指示を出すはずがないのだ。何故ならセンがイグリダに出した条件はあくまで、滞在するうちにペトラに勝て、というものだけだからだ。
「君は誰かな」
「…俺じゃない。アンタが何になるか…心配事はそこだろ」
直後、アグラに勝るとも劣らないスピードで青年が斬りかかった。
「く…ッ」
剣撃をいなし、イグリダは再び距離をとった。だがすでに、青年は間近に接近していた。
かろうじて身を翻し、守りの構えを取ると、今度は背後に回り込んでいた。
(何なんだ…!ペトラとはまるで気が違う…!)
ペトラからは何も感じられなかった。反撃するときですら、まるで彼女が戦っているつもりはないような感覚に襲われた。
だがこの青年はその正反対、殺意をむき出しにして攻撃してくる。攻撃が止む気配がない。
「…どうした、反撃しないのか?」
「そんな余裕はない!」
「…ふん、必死だな」
そんな会話をしつつも、イグリダは反撃を狙っていた。このまま防戦一方で戦っていれば確実に負ける。
そして、青年が少し大振りに棒を振った瞬間、イグリダは渾身の力を込めて真っ直ぐに棒を振り下ろした。
「はぁぁぁぁ———ッッッ!!!」
非の打ち所がない攻撃。青年は棒を振った隙で瞬時に守れない。
勝利だ。
「…!」
沈黙が、イグリダを支配した。それは勝利に対する愉悦などではない。自らの手中に武器が存在しないことに対する驚愕である。
数秒後、イグリダは自分の武器が蹴り飛ばされたことに気づいた。
「…ペトラと戦いすぎたか。…あいつは刀しか使わないからな…」
そう呟き、青年は手に持っていた木の枝を放り捨てた。
「…俺はトーア、アンタに戦い方を教えてやる」