神石明(かみいしあきら)
この話はすべてフィクションです。
元号が変わるこんな歴史的な瞬間でさえ僕はいつも通りだった。
高田馬場駅から急行で10分と少し、お馴染みの黄色い電車で到着する駅が僕の住む街だ。
僕は神石明、35歳。会社員。結婚してもうすぐ1年。共働き。子供はいない。
某大手食品工場の協力会社(要は下請け)で勤務する、極めて平凡な男だ。2年ほど前から工場でフォークリフトに乗る仕事をしている。
僕の両親や妻の両親も共に健在で、たいした貯金もないが借金もなく平穏に暮らせている。
妻とは大学で知り合った。同じサークルの後輩で、付き合って10年目に(2年間の同棲を経て)結婚した。
結婚するのが遅かったと自分でも思うが、その理由として僕自身に結婚願望がなかったこと、30歳までには死んでいると本気で思い込んでいたことの2つが挙げられる。この点に関して今でも妻に申し訳なく思っている。ほんの少しだけれど。
ああ、今結婚したと言ったが実際はただ籍を入れただけで、式を挙げるために目下準備しているところだ。来春、都内で予定している。
僕の趣味はスマホゲーム(三国志系)をすることや海外ドラマを見ること、もちろんYouTubeもよく見ている。スマホゲームにはそうだな。ここはあえて少なく見積もるけど、100万は課金したと思う。通貨の単位もあえて書かないけど、米ドルではないから安心してほしい。
それと半年ほど前からボクシングを始めた。きっかけはカネロアルバレスというミドル級のボクサーの影響だ。ただ最近では早くも熱が下がり始めており、ジムに行く機会も減り続けている。多分きっと梅雨のせいだとは思うけど、やはり自転車でジムまで30分以上かかるのは少し遠かったかもしれない。
思えば小さい頃から何事も平均以上に出来るタイプだった。勉強も運動も1番ではないが上位の方で、両親は僕に期待していたと思うし、何より僕自身が自分に期待していた。
でもそんな僕が職を転々としたままついに35歳を迎えてしまうのだから、本当に人生とは思うようにいかないものだ。
さて今日も高田馬場とは逆方向に電車で3、40分揺られ勤務先へと向かう。電車の中で「35歳 転機」だとか「仕事 つまらない」といったワードで検索して、胡散臭いサイトに書いてある言葉にほんの少し感動したり共感したりして過ごしている。
そう、ただの時間つぶし。これを生まれてから今までずっと繰り返してきた。多分これから先もそう変わらないのかもしれない。断わっておくが、決してそれを悲観して絶望しているわけではない。けれどこの先、まるで太陽みたいな明るい人生が僕に訪れそうもないこともわかっている。そうこうしているうちに降車駅に到着しそうだ。
勤務先近くの駅で降り、そこから徒歩で15分程で僕の働く工場がある。正門と裏門があって下請けの僕らは裏門から入る。
作業着に着替えタイムカードを押して、寒い工場内でミーティング後業務を開始する。決まった時間になると食事休憩や短い休憩が取れる。最近は人が少ないので残業は多少はあるが、それでも多くて月に40時間程度だ。
給料は多くはないと思うが、安くて味も悪くない食堂があるし、休みもきちんと取れるから格別悪い仕事ではないと思う。体もさほど使わないし、会話も必要最低限で済むし、何より客がいないのが1番いいところだ。
この仕事に就く前に接客業を6年程やっていたが、ストレスがひどくて毎日缶ビールを3本は飲まないと眠れなかったし、煙草も1日1箱は吸っていた!!
今では煙草をやめ、お酒も家では全く飲まなくなった。これにはきっと妻も喜んでくれているはずだ。
仕事を終えてそしてまた電車に乗って家へと帰る。妻と他愛のない会話をしながら食事をして、ゲームやYouTubeを見て眠くなったら横になる。
妻の仕事の帰りが遅い場合は独りでコンビニ弁当とお菓子を食べることもある。(最近はそれが増えている気がしないでもないが)
これから先どうしたいとかどうなりたいといった明確な夢や目標は持っていない。ざっくりとしたものならあるけれど、おそらくきっと皆と同じようなものだろう。だから成功できないのか。
いや、そもそも成功とは何だ。高額な報酬と引き換えに衆目に晒されてプライバシーを失う生活なんて僕は全くもって興味がない。
僕、神石明の考える最上の生き方とは、決して目立つことなく起伏も少ない、だが安心で平穏無事な毎日を送ること。ただそれだけなのだから。