90話 過去5
「身を低くして隠れてて。きっと私が狙いだ」
セレスはそう指示してボックス席のパーテーションごしに男たちを伺う。
「セレスは?」
「私なら大丈夫。こう見えて結構強いんだよ」
俺たちを安心させるように微笑んだ。その会話の中でも事態が動いている。黒衣をまとったサングラスをかけた男はまたしても呪符を取り出して宙に放る。
「召喚」
暗黒から這いずり出てきたのは奇妙な生き物だった。見たこともない魔獣、優雅な尾羽を広げる美しい鳥ではあるが、どこか禍々しさを感じさせ、尾羽には身の毛もよだつような目玉紋様が無数にあった。目玉は本当に生きているようにギョロギョロと蠢いていた。
けたたましい鳴き声とともに魔獣の身体が火に包まれ、魔術が迸る。熱波が吹きすさぶ、その瞬間にセレスは身を挺して俺たちを庇った。だが幸いなことにこちらが狙いではなかった。
酷い焦げ臭さが鼻をつき、粘つくような空気を肌で感じた。辺りを伺えば何人かの客が魔術によってこと切れていた。
「まずい。他の監視役がやられた」
壁に完全に身を隠しながらロイスが焦ったように早口で言う。
「あれはどうやら僕らの連絡術式に反応するような条件付きの魔術式を組み込んだ人工魔獣だ。しかも腕利きを一撃で無力化した。あの男、尋常じゃない使い手だ」
耳をつんざく悲鳴があがる。魔獣に襲われた監視役の傍にいた一人の女性からだ。彼女はパニックを起こして裏口めがけて走り出した。希望を求めて必死な形相で、しかしその希望は儚いものだった。
ダダダダダッ! 銃口が火を噴き、鮮血が舞い散った。女性の背は血に染まり地面に倒れてもう動かなかった。
「ち! 動くなって言っただろうが」
目の前で行われた凶行に人々は恐慌状態に陥っていた、頭を押さえ座り込むもの、茫然と座り込むもの、逃げ出そうと立ち上がるもの、三者三様だった。
武装した男は頭上に向けて威嚇射撃を行う。ざわめき立った空気を銃弾の雨が消し飛ばした。
「動くな! 動かなきゃ何もしない! 俺たちの目的は亜人だ! ここにセレスって名前の亜人がいるだろう! 出てこい!」
「ロイス君。馬鹿なことはしちゃ駄目だよ。あいつらは子供にも容赦しない」
素早く耳打ちして、これ以上の暴虐を防ぐべくセレスは名乗り出た。
「私はここだ! 他人を巻き込むのはやめて!」
「ふん。聞いてた通りだな。馬鹿な実験動物だぜ。飼い主の手は噛めないってか」
武装した男の馬鹿にしたような発言を魔術師の男が制した。
「セレス。大人しく従ってもらおう。私は君に危害を加えるつもりもない。むしろその逆だ」
「逆?」
「逃がしてやろう。亜人のもとへと。君を助けてやる」
セレスは一瞬はっと息を飲んだ。その甘い誘惑に迷いが生じなかったはずもなかった。だが。
「人を簡単に傷つけられるようなやつに私は従わない」
「監視を始末しただけだ。敵を殺しただけのこと」
「今の女性は? 無抵抗だった」
「不幸な事故だ。逃げなければ何もしなかった。可哀想なことをした」
「不幸な事故だって。あの人には人生があった。家族だって友達だっていたはずだ! よくもそんなことが言えたな!」
セレスは口調に怒気を宿して吠えた。びりびりと空気を振るわせるほどの威圧を黒衣の男は涼しい顔で受け流し、サングラスを外すとセレスと見つめ合った。
「我々の利害は一致する、目先の情に流されて判断を誤るな。それが亜人のためになる。君のためにも」
「私には分かる。あなたは可哀想だなんてこれっぽっちも思っちゃいない。私を助けるっていうのも、自分の目的のためなんだろ」
「なぜそう言い切れる」
「その目はよく知ってる」
「目だと?」
「私のことを便利な道具か何かとしか思ってない目だ」
もはやその瞳に迷いはなかった。強い意志を宿していた。
「だいいち暗示の邪眼なんて使っておいて、そんな舌先三寸で誤魔化されるわけないだろ」
「なるほど。以後気を付けよう」
男は抜け目なく魔術を仕掛けていたのだ。悪びれもせずに彼はサングラスをかけ直した。だが容易く邪眼を退けるあたり、セレスも実力者だった。
「無関係の者にそこまで無償の愛を注げるものはそうはいないだろうな。君はあまりに純真だ」
「お誉めに預かり光栄だね」
「褒めてはいない。愚かだと言ったのだ。この世はそういうものから利用され死んでいく」
セレスの行いをバッサリと切り捨てた。
「私の目的は敵対ではない。だが今は穏便な話し合いは諦めるとしよう。強引にでも来てもらう。この場にいるすべてのものが人質だ。従ってもらうぞ」
「……分かったよ」
セレスはとぼとぼと男のもとまで向かい、ある程度近づくと一気に踏み込んだ。疾風のようにゼロ距離にまで間合いをつめる。魔術師が苦手とする超接近戦だ。
勢いを乗せた掌底が男の顎に向かって放たれた、躱しようもないタイミングであった、しかしそれは虚しく空を切る。その場から男の姿が消え去っていたからだ。物理的な移動ではない。残影すらも残さず、影も形もなく消失した。
「消え──」
周囲に目を送ったセレスは背後に現れた男の気配を察知して、振りむきながら拳を振るう。かちゃん、とその腕に手錠がはまった。そのもう片方は手すりに。あまりの手際にセレスは身を凍らせた。
「マナ封じの手錠だ。もう抵抗するな。破壊するよりも私のほうが速い」
「……君はいったい何者なんだ」
男は何も答えずにセレスが座っていた席に目を止める。
「他に誰かいたのか。姿は見えなかったが」
「誰もいない」
セレスは努めて平静に否定するが、その場には他にも人間がいたことを思わせる複数の皿が並べられていた。こつん、と靴音を鳴らして彼はゆっくりとテーブルに近づいた。このままでは子供たちが見つかってしまうとセレスは息を飲んだ。だが彼女にはもはやどうしようもなかった。
悠然と男はパーテーションに遮られた向こう側に到達した。
「ふむ」
座席には誰もいない──それを確認した男だったがまだ納得しなかった。念には念を入れて身をかがめて机の下まで覗きこんだのだ。セレスは祈るように目を瞑った。どうか上手く逃げていてくれと。
「いない、か」
サングラスの男は呟く。状況的に見て怪しいのは確かだったが、いないものはいなかった。彼はその場に誰もいないことを確認して離れていった。
その座席の足元の片隅にある通気口のネジが外れていることは見過ごされたのだった。
魔術師の男が俺たちの場所に来る直前に、俺たちは通気口をこじ開けて這いずりこんでいた。薄汚れた道だったが幸いなことに通気口の中を伝って、店の天井側に回り込むことができた。俺にはかなり厳しいルートだったもののロイスの手助けもあってなんとか体力を温存することができた。いざという時に動けなくては隠れた意味もない。
「助かったよ。よくナイフなんて持ってたね」
「便利だからな。俺は魔術使えないし」
小声で言葉を交わし合う。
下手をすればビールの栓抜きすら魔術で行うこの時代、ナイフの一本も常備してないと辛い。通気口を開けるのに魔術を使えば間違いなく探知されていた。
やがて足元から光が漏れている場所を見つけた。──隙間がある。焦りつつも音を立てずに移動すると、下の様子を覗くことができた。店内の客たちは一角に集められており、セレスは相変わらず手錠をかけられている。
「こんなの正気のさたじゃない」
ロイスは呟いた。俺もまさしく同意見だ。このパラディソスにてこんな愚かな真似をする人間がいることは驚きだった。それは彼らがよほどの馬鹿か、逃げきることが可能な腕利きであるということだ。
「あのサングラスの男、あれは遠隔操作の人形だな。うっすらマナの光が見える」
「他のやつらは捨て駒ってことかな。……でも何が目的なんだ。ここからいったい何ができる」
店内を上手いこと制圧はしたが、とどまったところでいずれ事態は明るみになり軍がかけつける。もって数十分といったところか。彼らにもそんなことが分からないはずはないのだ。ならばなぜ、と視線を巡らせて気が付く。
サングラスの男は床に血文字で巨大な魔方陣を描いていた。それは莫大なマナが織り込まれた、緻密な式だった。俺はそれがどこかで見たものだと既視感を覚えたのだ。何かの手掛かりになればと思い必死に記憶を探った。そしてたどり着いた答えは伝承や伝説の類がまとめられた本にあった。
「あれは……時空間魔法?」
「本当かい?」
「ああ。文献で見たことがある魔術式だ」
「もう時空間魔術の使い手はいないはずじゃあ」
「だがはったりであんなものを書くわけがない」
半信半疑のロイスだったがそれで納得したようだった。もし本当に時空間魔術ならばすぐに捕まえなければもう追うことはできなくなってしまうだろう。この警備の厳しい都市に唐突に現れたことも転移魔法を使ったのだとしたら頷ける。
サングラスの男は逃がすと言っていた。その真偽は定かではなく、俺としてはできればセレスには逃げてほしかった。だがセレスは選んだ、それを拒否することを。ならば俺はそれを手助けするだけのことだ。
「やつらを倒すしかないな」
「僕も協力する」
危険など省みない、ロイスにはそういう使命感が満ちていた。