88話 過去3
セレスと二度目に会って以来、俺は彼女に付きまとわれるようになっていた。俺が愛用していた庭園のベンチに「おはよう」とひょっこり顔を見せる。それから場所を変えても「おっと。こんなところで会うとは奇遇だね」と遭遇する。
ある日、どうしても一人になりたくて、人目につかない場所を探し回り屋上に落ち着き、ベンチで身体を休めていた。今度こそ会うこともないだろうと思っていたら。
「やあ。偶然だね」
セレスは当然のように現れてひらひらと手を振って挨拶をする。俺はとうとうセレスに言った。
「あんたストーカーなのか?」
「すすすストーカーだって!?」
心外だとばかりにいきり立った。
「こんな綺麗なお姉さんを捕まえてストーカーとは失礼だね!」
「美人でもストーカーにはなる」
「美人だなんて照れちゃうな」
へらへら笑う。一人で楽しそうな人だなという感想がぼんやり浮かんだ。断りもせずに俺の隣に座るとその拍子にちゃりんと金属音がなった。セレスが首につけている南京錠のついた首輪からだ。それに目にとめるとセレスは自分から説明する。
「ん、これ? ファッションだよ。可愛いだろ」
「似合ってない」
「こらこら。女性のセンスに口出しするんじゃない」
セレスは怒ったように眉を吊り上げ、軽く頭を小突かれた。その子供みたいな様子にわずかに笑みが浮かび、それを自覚して口を閉じて黙り込んだ。
「どうしたの。今日は一段と暗いね。もしかして星座占いで最下位だった?」
いつものように馬鹿みたいな軽口に付き合う気分ではなかった。理由は他愛もない出来事だ。
今通っているこの病院は俺の病気を治す最後のあてだ。俺はともかく両親に落胆がなかったわけがない。治療が思わしくないとなると、父は苛立ちを見せるようになっていた。近頃は家政婦に当たり散らし、不機嫌さを隠そうともしていない。そしてある時に聞いた。
「いっそあのまま死んでくれれば良かったものを」
呪いの言葉を吐いた父の姿はひどく醜悪に見えた。彼の本音を直接口から聞いたのは初めてのことだった。その時感じたのは悲しみなどではなく失望感だった。我ながら女々しいことに一欠けらの期待感があったのかもしれない、彼らも少しぐらいは尊敬できる人間ではないのかと。
くだらない思い出を振り払って、ふうとため息をついた。そしてそのまま無言でベンチから立ち上がる。
「待ちなよ。占いなんて適当だから落ち込まないほうがいいって」
「もうほっといてくれよ」
八つ当たりのように厳しい口調で突きつけた。
「いい加減、付きまとわれると迷惑なんだ」
「……そっか。ごめん。私空気読むのが苦手でさ。迷惑かけちゃったか。もうしないよ」
気まずそうな顔を見せるセレスを見て、少し罪悪感もあったが、もう付きまとわれるのはこりごりだった。どうしてだか分からないがセレスの笑顔を見ているとわずかに心がざわめいた。
バツの悪さを感じながらも歩み去る、その寸前に後ろから声が聞こえた。
「ふははは。なーんて言うと思ったか! 簡単に騙されおって、しょせんは小僧よ。もう逃がさないぞ!」
そのまま後ろから羽交い絞めにされる。男と女とはいえ年齢が違い過ぎた、まったく抵抗しようもなかった。
──いったい何なんだ、この人は。
俺にとってまったく未知の生態をした謎の存在だった。
「ほら遠慮しないの! お姉さんとお話ししようね!」
「は・な・し・て・く・れ」
逃げようとする俺とさせまいとするセレス、お互いに引っ張り合う。だがやはり力では彼女のほうに分があった。
「研究員を呼ぶからな」
また逃げだしているのではないかと思ったのだが。
「ちゃーんと許可はとってる。諦めなさい」
「分かった。分かったからまずは離してくれ。用件ぐらいは聞く」
仕方なくこちらから譲歩した。力が弱ったところで振り払うと、ベンチに腰を下ろした。セレスも隣に座って、語り始める。
「聞いたよ。少年。いろいろと」
セレスの言葉には含みがあった。
「マナ欠乏症で魔術が使えないんだね」
否定する意味もなく大人しく肯定した。
「でも気功の力なら使えるはずだよ。あれは精霊の恩寵に頼らなくても使える。自分の中にあるマナ、つまり生命力から湧き立たせればね。いきなりは危ないから無理だけど、ゆっくり気功を鍛えていけば生命力が強くなって、マナの総量の底上げにだってなるよ」
「それで?」
「良かったらお姉さんと一緒に修行の旅に出かけないかい。もういじめられないように鍛えてあげるよ」
セレスは胸を張って言った。
対して俺は小さくため息をつく。どうやら彼女の目論見はいじめられっ子の少年を助けてあげようと、その程度のことだったようだと。
「いい。俺はどうせ長くない。無駄なことはしなくていいよ」
暇つぶし程度にやっても良かったが、彼女から教わるのは面倒だった。今以上に付きまとわれることになると分か切りってきたからだ。
「ほんと生意気な男の子だな。捻くれちゃってまあ。そんなしかめっ面じゃあ人生楽しくないでしょ。もっと笑ったほうが楽しいよ。ほら、にーってしなよ」
無遠慮に俺の顔を掴もうとする手を払いのけた。
「あんたに何が分かる」
彼女の笑顔を見るとさざ波立つ、その理由がようやく分かった。それは苛立ちだ。こうまでもいつも楽し気な姿を見せる彼女に俺は無意識にも苛立ちを覚えていたのだ。
「俺のことなんて何も知らないだろ。あんたみたいにへらへら笑ってられる能天気なやつに何が分かる」
いつになく棘のある言葉で攻撃した。そうすればその笑顔も見せなくなると思った。しかしまったくもって予想外のことに。
「あははは!」
セレスは楽しげに笑ったのだ。
「どうして笑うんだよ」
「それはね、楽しいからだよ。悲しいのに笑うわけないってば」
真理だとも答えになっていないとも思った。
「楽しければ笑って、悲しければ泣くんだよ。どうして人間ってこんな簡単なことができないんだろうね。不思議不思議」
へらへら笑いながら言葉を続ける。
「だからさ、辛い時は辛いって言っていいんだ。誰かに頼ってもいいんだよ」
真っすぐ過ぎる善意、その精神はあまりにも清らかで、俺などが近寄ることは許されないとすら思えた。俺は何とも言えずに、ただ黙っているしかなかった。
西日が空を橙色に焼く。セレスは今日は出直すと言って去っていった。それから屋上のベンチに座り込んで景色を眺めていた。迎えの人間から何度も連絡が来たが無視していた。ガチャン──ふと屋上の扉が開く音がして振り向く。もしかしたらセレスが戻ってきたのかもしれないと思った。
「やあ。また会ったね」
声の主は灰色の髪をした少年、ロイスであった。
「今日はどうしたんだ」
まさかこんな短期間で顔を会わせることになるとは。父親の仕事場に来る頻度などそう多いものではないと思っていたのだが。
「ちょっと手伝いがあったんだ」
「手伝い?」
「亜人の子供が部屋に閉じこもっちゃってて。説得にね。ほら、話をするなら同じ子供のほうがいいだろ」
「亜人なんているんだな」
「いるよ。亜人は珍しい力を持ってるからここで研究されてるんだ」
記憶の中でいくつかの事象が線を結んだ。セレスと研究者、そして外出許可と珍しい力。
「……セレスっていう人は」
「へえ、彼女を知ってるんだ。あの人も亜人だよ。なんでも凄く貴重な力があるらしいね」
「いつか逃げられそうだな」
あの調子では本気で逃げようと思えばすぐにでもできそうだった。
「大丈夫だよ。亜人は首輪をしてるんだ」
「そうだったかもな」
「あれに逃げられないように魔術が込めてある」
「それは実験体ってことか?」
「言葉は悪いけど、そうなるかな。この国に亜人を守る法はないからね」
わずかな動揺が走り抜けた。
「そんなことが許されるのか」
「これも世界のためだよ」
彼は迷いも見せずにそう断言した。世界のため、しかし亜人とてその世界の一部ではないのか。
「人間の世界の」
ロイスは重ねてそう言った。その時、俺たちの間には決定的な違いあると感じた。気づいた時には立ち上がっていた。
「どうかした?」
「悪い。俺は行くところがある」
それから飛ぶように走りに走った。息を切らしてセレスのいそうな場所を探した。日を改めて次の機会を狙えば確実だったが、どうしても今この時会いたかったのだ。激しい運動によって肺が悲鳴をあげた。無理をしすぎていた。だが体に鞭うって探し回ると、ようやく見つけた。
「どうしたの。そんなに慌てて」
セレスは驚いたように目を丸くする。彼女はいつものように首輪をしていた。ロイスの話ではそれは実験体である彼女を逃がさないためのものであった。
これほど自由奔放な人が、その実誰よりも捕らわれている。そんな中で生を謳歌して輝きを放っている。その姿はあまりにも残酷で、あまりにも歪な美しさがあった。
セレスは悪戯っぽく笑った。
「もしかしてお姉さんに会いたくなって来ちゃったのかな」
俺は「ああ」と頷いた。
「へ?」
らしくもない返事にきょとんとした顔を見せた。
「悪かった。何も知らないのは俺のほうだった」
俺とセレスで、どちらが不幸だなどと言うつもりもなかった。あまりに建設的でない発想だ。ただ分かったことがあった。これほど壮絶な環境下にあってもあれほどまでに輝けるのだと。
「俺に気功の力を教えてほしい」
「いいよ。少年。一緒に青春しようぜー」
セレスはにかっと笑うと俺の肩に手を回そうとして、俺はさっと身をかわす。
「暑苦しいのは勘弁してくれ」
「むう。相変わらずだね、君」
たいそう不満そうにセレスはうなったものだった。