9話 魔王に弟子入りにきたのは天使みたいな少女だった
あれから3日ほど経過していた。
その間俺はただ惰眠を貪り休息に勤めていた。
アステールは毎日決まった時間に差し入れを持ってやってきた。
替えの衣服や食料類など、必要物資全般になる。彼女には感謝せねばなるまい。
これらだけのことではなく、アステールは俺の命の恩人だった。
俺が希代の魔術師との体の主導権争いに勝てたのは、おそらくアステールから命を分け与えられたことによってもたらされたのだ。そうとしか考えられない。完全に半死半生だった俺を延命するために分かたれた白龍の命は俺の魂を強化した。
その作用によるものか以前よりも感覚が鋭くなっているのを感じた。
もう一つ別の回路が開いたように鋭敏だった。今日は散策に出て近くの様子を確かめているのだが、遠くから水の気配を感じて向かってみれば本当に川があった。
さらさら──とせせらぎの音色と清涼な空気が届く。
降りそそぐ穏やかな日差し、小鳥たちの鳴き声が響きわたる。
ふと気がつく、かすかに水の音に混じって歌が聞こえたことに。
それに導かれるように足を進める。
進んで行った、その視線の先には一人の少女が川辺の岩に腰かけていた。特徴的なのは真っ白な翼だ。普通の人間にはない翼を広げるその姿は天使……。いやまさか。
有翼種は初めて見たがおそらく亜人の一種だろう。
気配を完全に消す俺の存在には気づいていないようだった。
「ふんふんふーん」
彼女は幻想的な雰囲気をぶち壊す調子っぱずれの鼻歌を歌っていた。
隠れてよくよく観察する。瑞々しい若さを感じる年若い少女だ。翼を出すために大胆に背中がざっくり開いた衣服を着て、腰には護身用なのかシミターを引っ提げている。だいたい15,16ぐらいであろうか、目尻が下がった優しい顔つきで、赤い髪はツーサイドアップだった。
監獄世界にこんな子もいるんだなと思わせる。
少し見とれて足元が留守になり、かつんと小石を蹴飛ばした。
その瞬間、少女はぴくりと反応して振り向いた。
彼女は大きな瞳で俺を見据えた。
怯えさせたかと思いきや。岩からひょいと降りると無警戒に近寄ってきた。
「こんにちは」
「ああ」と頷く。
彼女は物珍しそうに左右に行ったり来たりして俺を眺めていた。食い入るように俺の顔を見つめて……ぴーんと何かに気が付いたようだった。
「え? あ、貴方は。もしかして」
距離を詰められて俺は一歩下がる。いくら可憐な少女とはいえ監獄世界の住人だ。警戒は怠れない。一皮むけばとんでもない悪党が出てくる可能性は十分にあった。
俺が後退した分さらに少女がずいと一歩踏み出して、ぎょっとする。
「なんのつもり──」
行動を非難しようとして、彼女は全く予想外の行動を見せた。
「弟子にしてください!」
がばっと頭を下げた。
「はあ?」
俺は茫然と立ち尽くす以外できやしなかった。
なんだか最近こんなことばかりだった。
焚火からパチパチという音が聞こえた。
俺達は拠点にしている館のすぐ近くの切り株に腰を下ろしていた。
少女にカップを差し出す、雲のように白い湯気が立ち上る。アステールが持ってきた食料類にまぎれていた粉で作った飲み物、その正体はココアだ。カップの中身もそうだし、少女の正体もそのように甘そうだった。
「私落ちこぼれなんです。悪いことをするのに抵抗があって。お父さんからはそんな様で将来一人で生きて行けるのか不安だと言われてしまって」
眉根を寄せて心底落ち込んだ様子で彼女は語る。なんだか翼まで項垂れていた。
「でもそれじゃいけないって分かってるんです。だから!」
座った状態からバッと身を乗り出した。
「貴方みたいになりたいんです!」
落ち着け──と彼女を手で制する。
「ちょっと待て。俺が誰だか分かってるのか?」
「はい。もちろんです。残虐王さまです。アステール様から話を聞きました」
対応に困って「あー」とか「えー」とか適当に相槌を打つ。
俺のことは伏せると言っていたわりには話しているじゃないか。
「あんなところで何したんだ」
「実はお会いしたくて来てたんですが……お日様が気持ち良くて、つい」
やはりこの身体の正体を知っていて、そんな戯言を言っていたのだ。俺の様子など気にもせず少女は興奮したように捲し立てる。
「私のお父さんの周りの人はみんな貴方ほどの凄い悪はいないと口を揃えて言います! どうすれば貴方のような凄い悪党になれますか!? 私も立派な悪党になりたいんです」
立派な悪党とはなんだ、とは思ったがそれは置いておこう。
なんて酷い勘違いをしているものだ。年若い子供が悪いことに憧れてしまう一種の病気のようなものか。それともまさか監獄都市の外の世界とは悪党ほど讃えられる世界なのか。
はあと一つため息。こんな小娘の相手をしている暇はなかった。
「帰れ」
「嫌です!」
ぶんぶんと首を振る。
「弟子にしてくれるまでお傍を離れません!」
「困るんだが」
「人を困らせてる。凄い。私悪者っぽいです」
勝手に感動して頬を紅潮させる。
絶妙に人を苛つかせるのが得意なタイプのようだった。
はああともう一つため息をついて頭をガリガリ掻き毟る。
このままではらちが明かない。この梃子でも動かない珍客を良いように考えるべきだ。こう見えて監獄世界の住人、邪見に扱って少女に反旗を翻される、なんてことも考えられなくはないのだ。今は上手く転がしてやるべきだろう。
「分かった弟子にするよ」
「本当ですか! ありがとうございます!」
身を乗り出した拍子に結った髪の毛が尻尾みたいにパタパタと揺れる。
彼女は鳥なのか犬なのか。どうも特性がはっきりしない子だ。
「よろしくお願いします! マスター!」
少女はびしっと敬礼した。いったい何の敬礼なんだか。
見かけは儚くも美しいのに、ひとたび口を開けば神秘的な空気は消え去っていた。
「そう言えば君の名前は?」
「私のことはルシャとお呼びください」
告げられたのはファーストネームのみ。監獄世界ではフルネームを知られるのを嫌い、愛称や偽名を使う風習があるのだと聞いたことがあった。
何はともあれ、こうして俺は弟子を持つ羽目になった。