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81話 イリナの思い

「これで大丈夫だと思います。他にお怪我はありませんかイリナ様」


 赤髪の可愛らしい少女がイリナの腕の傷口に手をかざすと、柔らかな光を感じて瞬く間に傷をふさいでしまった。掌を開閉して調子を確かめるが、もう痛みはなかった。


「ありがとうございます。もう大丈夫です」


 イリナは感謝を告げる。逃げ出そうとした相手にこれほどの待遇は甘すぎると思うほどだった。


「はふう。今日はちょっと疲れました」


「ルシャ、もう力を使い果たしたか?」


 ルシャは疲労をあらわにして額の汗をぬぐった。 


「はい。もう空っぽです」


「ご苦労だった。もう危険はないと思うが念のため私から離れないようにな」


「はい!」


 白龍の女王アステールはルシャに付き添った。もう危険はないと言いながらも、ひな鳥を守る親のように周囲への警戒を絶やさずにいる。


 ニースはどうなってしまったのだろうかと気になった。残虐王に追われた以上、逃げるなど不可能だろう。


 イリナがもっと早く逃げていれば、ニースが命がけで救出に来ることもなかった。彼にこんな危険な真似をさせることも、人の命をもてあそぶような真似をさせることもなかった。


 ニースの所業は身も凍るほど卑劣な行いだった。しかしそれもイリナを助けるためのもの、イリナの責任なのだ。

 

 それに対して残虐王はどこまでもイリナを驚かせた。人質を無視して剣を抜いた時やはりこの人は魔王なのか、そう思った。だがイリナの予想に反して彼は剣を捨てた。人質を取り武器を奪う、これはいったいなんだ、いったいどちらが悪者で、どちらが正義だ。何が魔王で何が英雄だという。


 そのあまりの蛮行を見過ごすなどできず、ニースを制止した。あのまま残虐王と名乗る男が血に染まるさまを見ていられなかった。


 結局、残虐王は味方の血を流すこともなくことを収めてしまった。圧倒的なまでの武力を持つが穏やかな優しさがある。亜人たちが彼に従うのが分かる。こんな王を戴けば誰もが足下に跪くであろう。


 イリナは一歩たりとも動けなかった。仲間が命をかけて助けに来てくれた。逃げるべきだというのに。そうできなかった。何が正しいか分からなかったから。


 これが悪であることを肯定するものと、正しくありたいものとの差なのかと、そう思った。将来約束された王位を継ぐにはあまりにも未熟だと痛感させられたようだった。


 もはや今では何を選択しても遅すぎる、警護という名目でレストの傭兵、ザルドという男がイリナに一切油断なく目を光らせている。この目は仕事人のもの、情けや容赦などないものだった。


「あ、流れ星。きれー」

 

「こらこらルシャ! 離れるなって!」


 アステールはふらふらと歩きだしたルシャに注意を飛ばした。


「私の影に入ってますか。安全ですよ」


「ありがとうございます、レイちゃん。でも狭そうだからいいです」

 

 ルシャはにっこり笑って断った。


「人がせっかく提案してあげてるのに! 人間臭いハーフを私のプライベート空間に入れるなんて、どれだけ名誉なことか! 秘蔵の主様写真集もあるのに!」


「お、落ち着いてください。それならまた次の機会にでも私も一緒にお邪魔していいですか」


 ラナがレイチェルを宥めるように両手を揺らす。


「あなたは駄目。ライバルだから」


「えぇ! だ、駄目ですか?」


「う……。ま、まあ、そこまで言うなら考えてあげないこともないですわよ。あなたはライバルですけど、敵に塩を送るとも言いますものね」


 楽しそうな会話の輪の外でイリナはただ一人、残虐王が戻ってくるまで立ち尽くしているしかなかった。彼は傷一つなく行った時と同じ姿で戻ってきた。


「……ニースは」


「死んだ」


 衝撃が心を駆け抜けて、それはつつと頬を濡らした。


「悲しいのか?」


「悲しいに決まってるわ。仲間だったのよ。彼が死んだのは私の我儘のせい。彼が命を賭けてくれたのに私は迷ったまま何もできなかった」


「あの男は救いようのない悪党だった。人を殺し、魔物を叩き起こして悲劇を振りまいた。そして子供の命を弄んだ」


「分かってる。分っているわ」


 彼は悲しむ必要などないほど許されないことをした。唇を噛んで涙を殺そうとしても、一向にやまなかった。


「ただ……あなたを救いたいという気持ちだけは本物だった。あなたの涙はあの男への一番の手向けになるだろう」


「あなたは優しいのか厳しいのか分からないわね」


 思いがけない優しい言葉だった。


「あなたは言ったわね。みんながエルを裏切ってたって」


 他の人に聞かれないよう小さな声で問いかけた。ほとんど唇を読ませるぐらいの囁きだ。


 イリナは仲間全員のことを良く知っているつもりだった。特にロイスは神官であり研究者肌の男で、約束を守る律儀な人間だった。それが裏切りなど。


「そんなの信じられない。何か理由があるとしか思えない。あなたが何か知っているなら教えて欲しい」


 残虐王を真っすぐに見つめる。この問いはイリナが前に進むためにきっと必要なことだと感じたのだった。


 ◇◇◇◇◇◇


 俺はイリナの視線を受け止めながら考える。


 ニースの理由を語る気にはなれなかった。そしてその他の全てを話せば彼女も狙われることになる可能性すらある。そうだとしたら帰すわけにはいかない。どうするべきなのかと思考は乱れた。そして単純な疑問を口にした。


「エル・デ・ラントをなぜそこまで気にする」


「私は」


 決意のこもった強い瞳だった。


「あの人が好きだから」


「それは仲間として?」


 その時のイリナは今まで見たことがないほど大人びた顔をしていた。


「一人の男の人として好きなの。ずっと……昔から」


 今この時になってようやく実感がわいた。もう彼女は俺のあとを追いまわしていただけの子供ではないのだ。今も似たようなことをやっているが、そこには強い意思がある。


「答えて」


 嘘に嘘を重ねることは容易かった。だが彼女にはできるだけ正直でありたいとも思った。


「やつは知らなくていいことを知ってしまった」


「知らなくていいこと?」


「この世界にとって不都合なことだ。そのため冤罪をきせられ、消された。他の英雄たちですら、おそらくその駒にすぎない」


「私でも知らない、そんなことがあるって言うんですか」


 パラディソスの第一王女である彼女ですら知れない情報、世界の最深部の秘中の秘なのであろう。この世の深淵にはとてつもない闇があることになる。


「だが事実だ」


 俺はそれを誰よりも身を持って知っていた。


「この話は忘れるべきだと忠告しておこう。きっとあなたなら無視するだろうがね」


 きっとイリナ姫は調べることを選択するだろう。それがどんな未来をみたらすかは俺には分からない。しかし彼女は既に自立した大人だ。選択をするのはイリナ姫自身であるべきだ。


 すべてを話すべきかとも思った。だが。もし俺が正体を明かせばきっと彼女は苦しむはずだ。


 イリナは人間たちの英雄なのだ。それはつまり亜人を率いる俺とは必然的に戦い合う関係にある。俺のイリナに対する感情は男女の愛ではない、しかし仲間として、友人として、妹のような存在として大事な人だった。黙秘こそ、互いのためになる。きっと俺のような人間など忘れたほうが幸せになれるだろう。


「じゃあ、やっぱりあの人はもういないのね」


 イリナ姫は俺から背をそむけた。その声は震えていた。ひらひらと零れ落ちた水滴は地面に吸い込まれて消えていく。


「何も返してあげられなかった」


 その震える肩を抱くような、そんなことをする資格は今の俺にはなかった。だがわずかに彼女の苦しみを和らげ前に進ませてやることならできる。


「そんなことはない。最後にあの男から聞いた。あなたという人の成長の助けになったというだけで、満足していると。人生で唯一気がかりはあなたのことだけだと」


 以前の俺の人生で得難いものと言えば恩人の少女とイリナを助けてやれた、それぐらいなものだった。


 死の間際にこんなことを考える余裕はなかった。イリナ姫さえ疑っていたのだから。だからこそ彼女が信用できると分かる今この時にまで命を繋いでくれたこと、それを本当に感謝せねばなるまい。


 嗚咽が聞こえた。イリナ姫はこぼれる涙をとどめようと必死に涙をぬぐっていた。小さな少女のように。

 

「わたし全然成長できてません。迷ってばかりで。物語に出てくるみたいな正義の味方になりたいだけの馬鹿な子供です。わたしあなたみたいになりたい」


「だがあなたの正義に救われた人もいる。ニース・ラディットも。エル・デ・ラントも。この町の人々も」


 俺もこの子には人間を信用してもいいのだと教えてもらった。


「俺とは違ってあなたは人を救える人だ。あなたにはあなたの生き方がある。俺のようになる必要などない。姫にしかできないことをすればいい」


 ハンカチを差し出すと、イリナ姫は驚いたように目を見開いた。そして左手でハンカチを受け取り「……ありがとうございます」と目の端を拭った。


「魔王に慰められるなんて変な話」


 くすりと柔からに笑うイリナのその表情は、もう二度と見れないかと思っていたものだった。

 

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