59話 神と人間と英雄と魔王
ずりずり。そう異音が響き渡る。木々を押し潰し砕く音と、ずるずると何かを引きずるような物音が近づくにしたがってゾッと悪寒が這い上がる。
強力な敵の接近を告げるギフトだ。明確な感覚として強烈な存在感を放つ力がやってくることをわずかに遅れて捉えた。
次第にその全貌が明らかになる。山を覆い尽くすと思わんばかりの大蛇が姿を現した。黒々とした鱗が鈍く輝き、黄色い目玉の縦一直線の黒く瞳孔がギョロギョロと周囲を見渡す。
「おおお。あの威容。まさしく神々」
長老が震える声で畏れ敬服するようにその場で膝を折った。祭壇から距離を取って俺たちはその姿を目視していた。その大蛇はあまりに巨大で、見かけ倒しでない、内包されたとてつもないマナの波動を発している。長老はそれを感じ取ったのだ。
フィルネシアは大蛇を目の前にして恐怖のあまりに震えていた。
そうだ、怖くないはずがないのだ。いくら覚悟をしていたとしても恐ろしいものは恐ろしい、悲しいものは悲しい、辛いものは辛いのだ。そんなことは当たり前のことであった。
それでも彼女は己の使命を投げ出さずに、逃げることもせず、恐怖に打ち勝とうとしているのだ。両手でブローチを握りしめて、ただその場に佇んでいた。
誰もが自らの行動を縛られている中でただ一人、俺だけが前へと一歩踏み出した。するとイリナ姫が俺の腕を掴んで止めた。そして訊ねる。
「な、なにをする気なんですか」
「彼女を助ける」
「でもそれで他の人々に危険が及んだら。もし相手が本当に神々なのだとしたら」
さすに正義感の強いイリナ姫も神々だという相手にしり込みしていた。精霊や神々に逆らうことはしたくない、それは人々の心の奥底に信仰として残っているのだ。
「イリナ姫はどうするのが正しいと思う?」
「私には分からない。もう何が正しいのか……あたなにはそれが分かるのですか。どうして、どうして迷わずに行けるのです」
俺はその縋りつくような言葉をバッサリと切り捨てる。
「正しさは関係ない」
「え?」
イリナは意味が分からなかったように呆然と口を開けた。
「俺は悪党でいい。ただの悪者でいい。人々にいくら謗られ魔王と呼ばれても構わない。あれほどの覚悟を示した子を助けられないならば正義などいらない。だから助ける」
そう、今ならよく分かる。かつて戦いに明け暮れた俺に必要だったものは栄誉でも栄光でもなかった。こんな健気で心優しきものを助けてやりたいがために力を求めたという、本当はただそれだけだったのだ。
大蛇の口から細長い舌が伸ばされてフィルネシアに触れた。
もう幾ばくかの猶予もない。俺はイリナ姫の手を振り払い進む──その寸前にフィルネシアの前に飛び出す影があった。それは一人の少年であった。
「ジャン!?」
フィルネシアは信じられないといったように目を見開き、叫び声をあげた。
「駄目よ! なんで来てしまったの!」
「君を一人にできるか!」
こちらも叫びだった。それも心の底からの。
彼はこの道中について来てはいなかった。おそらく先回りしていたのだろう。愛する者を助けたいがために。
だが、それは無意味な行為だった。少女の覚悟を無下にしかねない。何の力もない少年がその場に立ったところで、できることは何もない。ともに儚く散る未来が待っていることだろう。
しかし力無き少年には、この場の誰よりも早く神々の前に立ちはだかることができる心の力があった。
「私は貴方が生きてさえいてくれれば、それで良かったのに」
「君がいない世界で生きるなんて嫌だ!」
「なんたることを!」と長老は狂乱して金切り声をあげた。
「小僧! なんたることを! 神の怒りを買うでない! 下がれ!」
甲高い叫びが少年に飛ぶが、彼は蛇とにらみ合ったまま頑として動かない、無力な少年は神と呼ばれる存在に一歩も引かずに対峙した。そんな勇気も大蛇の前では意味をなさなかった。殺意を持った瞳に射すくめられた少年はその場を一歩も動けなくなる。
これはギフト、格下を威圧するものだ。大蛇は少年をも獲物と定めたのだ。
「愚かな真似を。もう駄目だ。馬鹿な小僧め」
長老の言葉は正しいと、俺もそう思った。
彼はあまりにも愚かだ。無為、無謀にして、愚行、あまりに無意味。だがそれゆえに美しいのだと、俺はそう思うのだ。
意味がないことにこそ、どこまでも一途な思いを捧げること、時にはそれは信念と呼ばれ、時には愛情とも呼ばれ、あるいは一種の狂気にも似たその感情を俺はよく知っている。
大蛇が少年に襲い掛かる、そう思われた瞬間に大蛇の鼻先に雷光が舞い降りた。轟音と同時に目を焼くほどの強烈な稲妻が大地を焦がした。蛇が怯んだ隙に俺は少年少女を庇うように前に立つ。
「でかい蛇だな。お前は本当に神とやらなのか?」
乱入者を射殺さんばかりにその蛇の目は俺を見ていた。威圧のギフト、大気を震わせるほどの気迫が襲い掛かった。俺はそれを跳ね返し、遅れて俺の隣にやって来たアステールに問いかけた。
「アステール。やつをどう思う」
「なんてことはない。ただのミズガルド族の特殊変異体だ。スケールはちょっと大きいが」
「つまり?」
「ただの魔物だ。倒せない相手じゃない」
「そうか」
言葉と同時に一瞬で踏み込んで剣を振るう。狙いは頭、一撃で殺すつもりだった。体中のマナを練り上げて剣に載せて一閃、振り下ろす。だが──ガキンッ! と巨大な鋼に受け止められたように刃は頭部には通らなかった、かなり強力な守護壁によって攻撃は遮られていた。
「ふむ」
それでも動揺はない、俺は昔から強かったわけではない。ずっと自分の力が通じない敵と命をかけて戦い続けてきた。一で通じないなら百、もしくは考え方を変えればいい。
空中の俺に向けて大蛇は口から液体を吹きかけた。強烈な毒液だ。一滴たりとも当たるわけにはいかない。空中を足場に跳ねて、それを躱し切った。慣れ親しんだ魔道具だ。念入りな準備はやはり正しかった。
俺はさらに空を蹴って大蛇に突進した。
精神を落ち着けて冷静に相手のマナの流れを見る、俺の目にはっきりとその流れが見えていた。もう一度頭部、同じ場所を狙うと見せかけて、寸前で体の向きを変えて回転しながら刃を切り下ろした。そこはマナの巡りが薄い場所だ、刃は守護壁を貫いて、鱗の隙間の柔らかい鼻先を抉り切った。
『キシャアアアアアアアアアアア!』
大蛇は憤怒の絶叫をあげてのた打ち回る。その度にずしんずしんと、山を揺らすほどの振動が起こった。やがて大蛇は態勢を整えると、シューシューと空気が通り抜けるような高い噴気音を発した。
俺たちは互いに睨み合う、その最中、魔物の黒い瞳孔が怪しく紅く光った。すると足元から体が冷え込むような恐怖心が心に訪れた。すぐに察知する、これは目と目が合ったものを魔術にはめる魔眼系のギフトだ。
付与されているのは対象を恐慌状態にする魔術だ。まともに受けたが残虐王の持つ高い「恐慌魔術耐性」が働き身体がやや鈍るほどに抑え込んだ。
もともとこの手の術の対処法は用意してある。即座に無心になり延々と訓練でやってきたように剣を構えた。深い呼気とともにマナを全身に巡らせ、細胞一つ一つを活性化させる。そうすることで、わずかな恐怖心など吹き飛んでいた。
久しぶりの強敵だ、いつも以上に気力気合が充実していた。
──じっくりと楽しもうじゃないか。
わずかに冷笑を浮かべる。さらに戦いを続けようとしたところで、ドオン! と大蛇の体中で爆炎がさく裂した。術者はイリナ姫だった、その二つ名に相応しい圧倒的な火力だった。しかし彼女の力をもってしても魔物には大きなダメージを与えられてはいない。やや鱗が焦げついているのが確認できた。
魔術の余波で木々が燃える、強い風に吹かれて火は燃え上がり、その強い煙に燻られるのを嫌ったか大蛇は体の向きを変えて、俺たちの目の前から去って行った。
どうやら引いてくれたようだ。長年受けて来なかった痛みというものを体験したせいか。それとも寝起きの今は体力が万全ではないためか。こちらも足手まといを抱えて戦いたくはなかったから、俺にとっても好都合な話だった。イリナ姫の加勢も助かった。守るべきものが後ろにいるというのに戦いに酔うところだった。
「愚かな! なんたる愚行を!」
長老が俺達に詰め寄った。髪の毛を逆立てて尋常ではない憤怒を宿している。
「何も知らないよそ者が正義のつもりか! 我々を破滅に追い込んでおいて!」
「勘違いするな婆さん」
俺を正義などと面白いことを言う。
「俺は悪党だ。それもこの世で一番の大悪党」
俺の名乗りに村人たちはすっかり呆気に取られていた。
「だから神なんぞ恐れはしない。神を殺してその娘は俺がいただこう」
フィルネシアもジャンも含めて、みなが静まり返る中で、
「……正しさは関係ない」
イリナ姫はポツリと呟いた。
すぐさま村に帰還した俺たちは村人総出の集会に参加することになった。断続的に山のほうから小さな揺れが襲いかかり建物が揺れる。魔物を退けて以来なんども細かい大地の震えが襲いかかっていた。
地震などほとんど経験したことのない村人たちは半ば恐慌状態にあった。口々に不平不満と半ば憎しみの宿る言葉を交わしていた。
「やはり神々を怒らせたせいだ」
「厄病神め」
俺たちに向けられるのは厄介者め、という憎々しげな感情ばかりであった。ピンと空気が張り詰めて、一歩間違えば血気盛った行動を起こしかねないほど殺気立っている。
「落ち着きなさい。みんな」
それを長老は一声で落ち付けた。
「もう一度捧げて。お怒りを鎮めていただくことを祈るしかない」
人々の視線がフィルネシアに集まった。そこに込められた意思は罪悪感か、それともそれが当然だと驕るものか。
「シア。覚悟はできておるな」
迷いのない表情でフィルネシアは頷いた。
「はい。もちろんでございます」
きっと自分の命を捨ててまでともにあるとしたジャンの意思を感じて、彼に生きていて欲しいとますます強く思うようになったのだろう。
「シア」
ジャンの真っ直ぐな瞳から逃げるように、フィルネシアは目を逸らし続けていた。俺はいつも不思議に思う、互いが互いを思いやる純粋な思いとはなぜここまで美しいのかと。
「今度こそ邪魔はしないでいただきたい」
長老は鋭い言葉を俺たちに突き付けた。
「それはできないと言ったら?」
俺の言葉でまたしてもぴりついた空気が室内を満たした。
「婆さん」
だが俺は一切動じず、この空間を満たすように静かに彼女らに問いかける。
「自分たちの安全のために、たった一人をあんな化け物の餌にして何も感じないのか?」
生贄にされた少女は泣いていたではないか。その涙は周囲に責任を押しつけられ、裏切られた悲しみによるものだとしか思えなかった。
「この子は泣いていたぞ。誰にも気づかれないように声を殺して。それがどういうことか分かるか。この子は生贄にされるというのに、あんたらを気遣っていたんだ。死ぬ間際にも、ここまで大切に育ててもらって幸せだったと言っていたんだ」
それがどれほどの覚悟と、決意のもとに放たれた言葉であることか。
「それでも本当に何も感じないのか?」
人はそこまで堕ちることができるのか、俺はそう問うているのだ。会堂の中の人間は恥じ入るように静まり返っていた。だがその中で一人だけ口を開いた。
「何も感じていないと思いますか」
そう言った長老の顔には深い憐れみと絶望の感情が刻まれていた。
「この子は儂の孫です。この手でとりあげた大切な子です」
かつての光景に思いはせているのか震える手を眺めた。
「生きていて欲しいに決まっております。どうかこの子の代で神々が目覚めることのないようにと毎晩祈りました。私の代の時に神々は起きなかった。次の代の娘は立派に勤めを果たしてくれました。だからこの子がお役目を果たすことはないと思っておりました。このまま眠り続けてくれるだろうと希望を抱きました。この子が歳を取る度に希望は大きくなりました。このまま健やかに成長できるのではないかと」
よくよく見ればフィルネシアが握りしめていたブローチと似たものを彼女はしていた。代々家に伝わるものなのだろう。
「しかし今となってはそれも儚い夢でした。今回の目覚めはあまりにも早すぎたのです」
無気力感につかれたように言葉から感情が消え去った。全てを諦めきったかのような瞳だ。それを見ると心がざわついた。
「これはもう決められたことなのです。神々の怒りを買えば村は滅びます。我々は真に精霊と神々を敬い畏れる者たち」
長老はただ事務的に語る。
「我々はこうやって生き延びてきたのですから」
老婆もフィルネシアも、村人たちも力無きゆえに絶望した瞳をしていた。力無きものに選べる道は少ない。どれほどの苦痛を強いられる道であろうと歩く他ないのだ。
そんな瞳を見る度に俺は……。