49話 新たなる日常とは2
自由都市の新たなる日常では多くのことは良いように回っているように見えた。しかし、だが悪い面もあるにはあった。
やはり亜人の危険を懸念する人間たちも存在した。家族を抱える人間たちの心配の念というのは非常に深いものだ。それは一概に切って捨てていいものでもない。
「本当に大丈夫なのか?」
行く先ではセレーネに詰め寄るように何人もの人間が囲んでいた。
「ゴブリンやオークは人間の女を襲うって聞いた。あなたたちエルフだって危険なんじゃないのか」
セレーネは愉快そうに笑った。
「ふふふ。面白い迷信だ」
セレーネは通りかかった豚の頭を持つ獣人、オーク族の男を呼び止めて直球の質問を投げかけた。
「私と寝たいか?」
「え!」
その時のオーク族の顔は見ものだった。困り果てた表情で視線を泳がせる。上司に無理難題を言われて、なんと断ればいいか迷っているようだった。
「あのー。確かにセレーネ様はお綺麗だとは思いますが。えー。少々細すぎるというか、お顔も小さくて。肌も白すぎるかなと。つまり……もっとふくよかで筋肉がないと僕の好みでは。決してセレーネ様を侮辱するつもりはありませんが」
「気をつかわなくてもいい。それが当然だ」
手間をかけたなとオーク族の男に対して微笑して、ぱちりとウインクする。そして周りの人間たちを見渡した。
「貴方がたはゴブリンやオークの女性を抱きたいと思うだろうか」
「え? いいや」
人間たちは首を横に振った。
「それと同じだ。まともな知性のある亜人は人間の女性など襲おうとは思わない」
エルフは亜人の中でも比較的、人間と親しい歴史を築いてきた経緯がある。彼女の言葉には説得力があった。
「おそらく魔物のせいで混同しているのだろう。魔物には単体では繁殖できない種……例えばミノタウロスだな、他にも人間や亜人に憑りついて女性を襲わせ、その胎を母体にするおぞましい種もいる。最近はあまり発見例が挙がってはいないが。やつは本当に忌々しい存在だ」
純血にこだわりを見せるセレーネにとっては他人事でもないのか、憎々し気な感情が口調に交じっていた。さらにセレーネの話は続く。
「そもそもオークという亜人は人間の間で他の魔物と混同されている面がある。我々は豚の頭を持つ亜人をオークと呼ぶ。おそらく貴方がたが言っているのはオーガのことだろう。緑色の肌を持つ鬼だ。こちらは確かに先のミノタウロスのように女性を襲う。亜人の中にも鬼人族という種族がいるが、こちらはやはり繁殖のために人間をわざわざ襲ったりしない。心優しく信念のある種族だ」
なるほど、と周囲の人々から感心した声があがった。納得がいった者達も多く、次第に人の群れはまばらになっていく。
「セレーネ様。かっこいいですね」
ルシャはセレーネの堂々とした様子に感心しきっていた。
人の波がなくなったところでセレーネに声をかける。
「苦労かけてみるたいだな」
「大丈夫です。これしき当然のことです」
俺の顔を見つけるとセレーネは即座に居住まいを正して、畏まった喋り方をした。敬語はいらないと何度も言っているのだが、そうもいかないらしい。
「前みたいに普通に喋ってもいいんだぞ」
「しかし、主様にそんな」
筋が通ったというか、生真面目な性格なのか難色を示す。
「人間なんか怖くなかったって、あの時の威勢は良かったぞ。あっちのほうが似合ってる」
「どうかご勘弁を。主様」
セレーネは弱々しい声で顔を耳まで赤く染め上げる。
そんなセレーネはイリナ姫に目を止めた。
「そちらの方は……もしや」
「イリナ姫だ」
紹介するとセレーネは胸に手を当てて軽くお辞儀するエルフ族の礼を示す。
「エルフの指導者のセレーネ・ティタノアと申します。姫。以後お見知りおきを」
「これはご丁寧に。パラディソスの第一王女。イリナ・パラディソスです」
対するイリナは騎士の礼を返した。
「姫。貴方に敬意を」
「どうして?」
「貴方はこの地の民を救うために単身で乗り込んだのです。人間とはいえ敬意を表します」
だがそこでセレーネの瞳は剣呑な光を宿した。
「しかし敵となれば容赦はいたしません。貴方は主様を倒した人間の一人なのですから」
「よく、分かっているわ」
イリナはわずかに気圧されたようにごくりと喉を鳴らした。ところで、
「ひゃ!」
セレーネはルシャに擽られたせいで甲高い悲鳴をあげる。
「こ、こら。ルシャ!」
「セレーネ様。顔怖いです。せっかくなんだからみんな仲良くしましょうよ」
「まったく」
ルシャが能天気にへらへらと笑うとセレーネの圧迫感が消え去った。
そして同時に全員の注意が一瞬にして別のことに注がれる。和気あいあいと駆けながら俺たちの横を通り過ぎた子供が転んで苦痛の声を挙げたからだ。
「大丈夫?」
「あ、天使のお姉ちゃん」
ルシャは翼を梳いて羽を一枚取ると少年に渡す。
「弱いですけど、癒しの力が宿ってるので。どうぞ」
羽に宿った光の粒が膝の怪我に触れると少年は目を丸くした。
「凄い。痛いくない!」
ルシャは良かったと、優しげに微笑む。
「気をつけてね」
「うん!」
子供同士、手を大きく振り合った。
そしてルシャは何やら悩み始めた。
「うむむ。今の悪党っぽくなかったですね。私」
「子供が好きな悪党はいるだろ。別に。俺も子供は好きなほうだ」
「は! な、なるほど。奥が深いですね」
3秒で考えた言い訳で納得してくれるあたりはありがたい。
イリナ姫はルシャを微笑ましそうに眺めて言う。
「良い子ですね」
「ああ。一緒にいると救われる」
時間は緩やかにすぎていった。
元の世界ではずっと狂気的なまでに最強の座を求めて生きてきた。そんな俺がこんなに穏やかな日常を、監獄世界で得ているというのもおかしな話だった。
「ルシャ。ちょっと待っていてくれ」
「え? はい」
都市の中でひときわ高い建物である見張り台、その真下に来た時にルシャに言った。きょとんとしながらもルシャは大人しく頷く。
俺はイリナ姫に先んじて螺旋階段を登っていく。背後を取られるのはあまり好きではない、しかし相手はイリナ姫だ。彼女の生真面目な性格からして不意打ちのような真似をするとは思えなかった。
階段を上り切り、見渡のいい城壁の見張り台にまで出ると強い風が吹きつけた。
「平和、ですね」
「そうだな。確かに今は」
眼下には自由都市の全貌が広がっている。イリナ姫にはこの都市を見て欲しかったのだ。忌憚のない意見と、込み入った話をするためにルシャを下に置いてきた。イリナもその意図は察しているのだろう。
「ひとたび戦争が始まればこの平和も終わる」
「……」
イリナは重苦しくも口を開いた。
「あなたは本当にあの残虐王。魔王なんですか」
静かに核心に迫る言葉を問いかけた。
「私は残虐王の行った非道の噂をいくつも知っています。あなたは世紀の大悪党だと誰もが言います。でもあなたの言う通り自分の目で実際にこうやって見ていると、とてもそんなふうには見えません。私はあなたのことを知っているようで何も知らなかったんです。まさか手をかけて私を騙しているんですか。それともあなたは。本当は」
口にするのを躊躇うように一拍間が開いた。
それは彼女の信念を揺るがしかねない言葉だったからだ。
「いい人なんですか?」
この世界で弱い者のために戦っている、そう見えているのだろう。しょせんそれも物事の一側面にすぎない。
「俺は悪党さ」
レギルの言う通りだ。俺に相応しいのは英雄などではなかったと今では分かる。俺は我儘な人間なのだ。欲したものをどうしても手に入れたくなる。
「俺はこの世を俺の好きなように変えるつもりだ。これ以上の悪はないだろう」
残虐王の模倣をするつもりはないが耳に残った言葉を口に出していた。
「それが」
──亜人と人間がともに暮らせる世界を作ること。
彼女の中ではそう繋がったはずだ。事実俺はそうしたいと考えている。ルシャやラナやアステール、それだけでなく他の亜人たちのためにも、平和に暮らせる世界を作ってやりたいと思う。しかし。
「イリナ姫。俺は貴方と敵対したいとは思わない」
心から正直にイリナに向かって俺は告げた。
◇◇◇◇◇◇
イリナは自らの信念が大きく揺らいでいるのを自覚することになった。
どうしても分からなくなりつつあった。何が正しいのか。今まで残虐王は倒すべき悪の首魁としてしか教えられてこなかった。それが正しいとずっと信じてきた。しかし今はもうそうは思えなくなりつつあった。
惑う心の中でただ一つの確固たる指針があることが救いだった。それはエル・デ・ラント。彼の行方を探すことだった。