46話 交渉
俺の目の前には残虐王の顔があった。壁にかかった大鏡を見つめている顔はかつての怨敵のものだった。残虐王はいつも不敵な笑みを浮かべていたものだが、今は疲れ果てているような顔をしていた。それはあてがわれた部屋が問題となっているのだ。
俺がいる場所は市長室であった。まさか俺がこんな役目を任されることになるとは思ってもみなかった。与えられた役柄は市長代行ということになる。ルディスあたりが手を上げるかと思えば辞退して、その他に成り手がいなくて半ば押し付けられたようなものだ。だが町の運営などノウハウの欠片もない。
基本的には実務はルディスや元市長の秘書メッリサなど元々この都市の運営に携わってきたものに大きく頼るしかなかった。主に俺はこの都市の代表として顔の役割を果せばいいということになっている。
しかし監獄都市に収める税金をなくすだけでこの都市は飛躍的に潤うはずだった。だがそれは完全に監獄都市とたもとを分かつということを意味しているため、住民たちとの慎重な話し合いが必要になるだろう。元より俺がいる時点で敵対しているようなものではあったが。
そんな思案に沈み続ける俺の目の前でイリナ・パラディソスは机に掌を叩きつけた。
「聞いているんですか!」
まったく、お姫様が品のないことだ。
「ちゃんと聞いている」
何度目かの問答にうんざりして投げやりに答える。
「ならばどういうことか説明してください」
「何がだ?」
「何がも何も。何のつもりなんです。自由にしていいとは」
「言葉通りの意味だ」
俺は疲労困憊していた彼女を拘束することはせず、治療をほどこしたあとも軟禁や監禁の類はしてはいなかった。捕虜としてではなく、普通の住民として扱っていた。
「無辜の民を襲うことさえしなければ好きにすればいいさ」
「そんなこと」
するわけがないというイリナの言葉だったが、俺は過去の出来事を持ちだす。
「いつぞやは襲ってきたのではなかったかな。それも奴隷にするために」
「あれは……確かに野蛮なことをしました。しかし」
「亜人は敵だって言いたいんだろう? そうやって教わって、それ以外を知らなかった」
イリナはぐっと言葉につまった。
「人が人に首輪をはめて鞭で打つなんて愚かだとは思わないのか?」
「そ、それは」
本来奴隷制などとうに廃止されて久しいというのに、なぜこの世界にて対象が亜人にならば許される。イリナ姫ならばおかしいと、そう思っていても不思議ではなかった。
「自由都市では人と亜人が急に共に暮らすことになる。もめ事は多いだろう。貴方にも協力して欲しい」
「私にですか」
「そうだ。あなたは英雄だ」
何を当たり前のことを、とイリナは訝しげな顔をした。
「あなたが英雄なのは絶望的な状況でありながらこの都市を救うために単身で戦ったからだ、そして俺たちと共に救った。住民たちの手前、手荒にするつもりもない」
そういう魂胆なのかとイリナ姫にも納得がいったようだった。
「私が逃げるとは思わないんですか」
「逃げるならいつでもできるだろう。その前に見ていけばいい」
「いったい何を」
悠然とそれに答える。
「この世界を。己の目でみなくては分からないこともある」
イリナ姫は黙り込んでしまった。彼女の性格的に手荒にするよりも、こういう扱いをすると律儀なところが災いして逆に逃げられなくなるのだ。もちろん逃がすつもりはなく、監視をつけておくのだが。
その時、扉がノックされてルディスが入室してきた。
彼は一枚の書状をひらひらと振ってみせた。
「監獄都市からだ」
「内容は?」
聞く前から分かり切ってはいた。予想通りだとルディスは頷く。
「長いから要約するとイリナ姫を開放せよという書状だ」
「どうするつもりなんですか」
と、まさしく話題の本人がそう問いかけた。
「そんなの決まってる」
受け取った書状を軽く振って答えた。
◇◇◇◇◇◇
「亜人の全開放が要求?」
残虐王から監獄都市に届けられた返答にはそう書かれていた。
レギルはため息をついて顔を覆う。それはレギルが想定していた要求の範疇ではあった。
しかしそれは容易く可能だという意味では決してない。実行するには本国に連絡を取って許可を仰がなければならないが、それをすれば失態が明るみに出る。
今のところはイリナ姫の所在については箝口令をしいて情報を握りつぶしている。本国への連絡はまだしていなかった。なんとか交渉で彼女を取り戻せば、しらを切り通してしまえばいいのだ。なんせこんな隔離された世界のことだ、国のご老人がたも知るよしもない。
上手くイリナ姫を救い出せれば、彼女はこれでレギルに負い目ができる可能性もあった。上手く丸め込めばきっと本国に報告するような真似はしないだろう。
「そんなふざけた要求はのめませんよ」
部下の一人が強張った口調で口にした。だが。
「イリナ姫の命は全てに優先される」
本当に余計なことをしてくれたと腹立たしい思いだった。彼女がいなければレギルの野望もとん挫してしまう。そして今まさにこの時は何に代えても彼女を取り返す必要があった。
「イリナ姫の解放までに亜人を一人ずつ殺していくと脅してみれば?」
部下の一人が提案し、
「相手が誰だか分かってるのか?」
レギルは彼を道理の分からない子供に叱責するように言う。
「人質なんて通用するわけがないだろう」
相手は残虐王、まさに人の命などゴミクズとしか考えていない悪鬼だ。それに人質などどうして通用するという。ちょっとした気まぐれや戯れにイリナ姫を殺されかねない。多少傷物にされていたとしても、それは何とでもなる。命さえ無事であれば。
何か方法はないのか、レギルは歯噛みする。
本国に連絡すれば亜人の解放を命じられるだろう。イリナ姫はそれだけ特別だ。兄がいるはずなのに王位継承権第一位、昔からパラディソスはそうだ。王位はその者の素質や性別、年齢など度外視して王が決める。
どういった基準があるのかは誰も分からない。しかし確かなのはイリナ姫はパラディソスにとってそれほど重要な存在だということだ。だからこそのレギルの失態だ。尋常ではない大失態だ。
だがそんな思考を吹っ飛ばす一言がレギルに告げられた。
「署長。それと交渉にはレギル・シルセス様を寄越すようにと残虐王が」
もし人間が魂を見ることができたら、レギルの口から飛び出ていったのが見えたかもしれない。それほどの衝撃だった。何を言われたのか脳が理解を拒否しているようだった。
「……私が?」
「はい。何か問題でも?」
不思議そうな顔で部下は問い返した。
──お前の頭はカボチャか、何がつまってる。問題どころの騒ぎではないだろうが。喉まで出かかった罵倒の言葉を飲み込む。英雄はそんな振る舞いをしてはならないからだ。
会うだと、あの男と直接。レギルは以前届けられたメッセージを思い出す。「必ず殺す」という怨念染みた伝言を。やつは復讐に燃えた狂った獣だ。そんな男と馬鹿正直に同じテーブルにつくというのは、その日のディナーにしてくれと言うようなものではないか。いったい何をしてくるか分かったものではない。
「なに。私がわざわざ行く必要もあるのかと思ってな」
平然な顔を取り繕って、極めて自然に見えるよう静かに言った。
「しかし、残虐王の指定ですので」
「……そうだな」
交渉相手は敵方のトップを選ぶのはもっともな話だ。部下はいったいどうしたのかと訝しげに佇んでいる。そんな彼にレギルは全精力を振り絞って告げるのだ。ぎりぎりと渾身の力で己の足に指を食い込ませながら。
「何も、問題はない。そうしよう」
あらゆる意味で頷くしか道はなかった。
それはレギルにとって地獄の日々の到来を告げていた。