42話 監獄都市と自由都市
それはひどく天気のいい日のことだった。自由都市にて見張りの兵士はあまりの心地よい日差しにうたた寝しかかっていた。
なにせ最近は平和続きで、彼らの武器が振るわれることもなく、見張り台に立っていることさえ必要なのか疑問に思うほどだった。
初めは違和感だった。視界の先の先、地平線の先に太陽の光を受け付けていないとでも思うような黒い微細な点を捉えた。最初はあまり気にすることもなかった、しかししばらくして、ふと気になってもう一度見直すと、その黒点は大きさを増していた。それは動いていたのだ。
見ている最中にも徐々にその大きさを増していった。
「なんだ?」
双眼鏡を覗き込み、じっとその異物を観察した。目についたのは黒であった。黒い、全てが黒い、闇の塊でできているとでも思うほど真っ黒で、巨大な物体だった。
彼はすぐにその正体にたどり着き、悲鳴をあげて双眼鏡を取り落とした。それは大蝕害、あまりにも無慈悲で絶望を告げる、恐ろしき化け物だった。
◇◇◇◇◇◇
時刻はやや遡る。巨大な蝕害の出現は監獄都市をも揺るがしていた。監獄都市の警戒網は自由都市よりもはるかに早く敵の存在を捉えていた。
この都市の主要メンバーが集まった会議は紛糾していた。
「大蝕害は自由都市アクア方面へと向かっています。もはや助ける術は」
「いいえ。まだ可能性はあります。我々が力を貸せば」
イリナは力強く宣言した。この場には英雄と讃えられる者が二人もいる。それに監獄都市には相応の戦力があった。まだ人々を助けられる可能性はあった。監獄都市には魔工学によって作られた自動二輪車などの移動手段もある、目いっぱい飛ばせば間に合うであろう。
「それは無謀です。あなたを行かせるわけには行かない」
何人もの者たちがそれに否定の言葉を投げかけた。
「なんと言われようと私は向かいます。他の者も来れる者は来なさい」
やはりその言葉に賛同するものは現れなかった。
──ここの守りを疎かにすれば、残虐王に攻められるかも。
そんな思いが共通認識としてあるのだ。
イリナは周囲を見渡して叫ぶ。
「誰かいないのですか!」
誰もが顔を逸らし、気まずそうに聞き流すばかりだった。
「自由都市には残虐王がいます。我々が行っても協力などできようはずもありません」
「自由都市の市長から監獄都市に歯向かうつもりはないと通達されたでしょう。それもあの蝕害が発見される前のことですよ」
看守に暴行したのは終身刑の男が勝手にやったことで、自由都市アクアの市長からは謝罪と、その男は追放したと通達がきたのだ。完全に支配下に置かれていたと思われた自由都市の人間は、まだ終身刑の男が残虐王であることすら知らないのでは、と一つの推測も立てられた。
「それが罠だったら。市長に言われて残虐王が大人しく出ていくことなんてありえますか?」
付き合っていられないとイリナは強引に提案を打ち切った。
「私は一人でもまいります」
それを聞いて泡を食って止めたのはレギルだ。己のためにもそんな自殺行為をさせるわけにはいかなかったからだ。
「イリナ姫。どうかご自愛ください」
はっきりと自分の立場を思い知らせるようにレギルはイリナ姫の前で片膝をついた。
「レギル。ならどうするというの?」
「ここで待ち構え守りを固めましょう。そうすれば事態ははっきりします。こちらに矛先が向くようなら亜人の奴隷から戦わせれば余計な被害も出ませんよ。上手く魔帝の領域に誘導してもいい」
レギルは最も合理的で妥当だと思える案を口にした。
「レギル。あなたは頭のいい人ね」
「ええ。そうでしょう!」
分かってくれたかと気色を滲ませる。しかし。
「私が心を決めきれない理由はあなたのそういうところよ」
イリナは馬鹿で愚直な人が好きなのだ。
「レギル」
イリナは正面から目と目を合わせ、穏やかに名を呼んだ。
「私と一緒に死んでくれる?」
レギルは全身を硬直させた。
イリナはそんな彼にもう一度重ねて告げる。
「私のために死ねる?」
「私は……」
レギルは答えにつまった。
「私はできるわ。愛する人のためなら」
「しかし、姫」
「そう。王女の言葉ではない。責任あるものの行動じゃないことは分かってる。だけど私はかつて剣を取った。その時から戦士になったの。そして今は英雄に。例え自由都市の人間だとしても愛すべき民です。私は彼らを守るために死ねる」
「では残された民は、国はどうするというのですか!」
「私がいなくても兄がいます。ずっとうまく国は治められるでしょう」
「残虐王は、やつを倒すには貴方の力も必要だ」
レギルは苦し紛れに口にした。それにイリナは首を振ってみせるのだ。
「レギル。もっとも必要だった人の力がもう欠けてしまっているのよ。それに……私は必ずしも死ににいくつもりはありませんから」
イリナは英雄に与えられた英雄であることを示すマントを翻した。
「私は行きます。あとはあなた次第よ」
レギルにもはや彼女を止める言葉はなかった。
血がにじむほど拳を強く握りしめる。
なぜ勝てないのか。もうこの世に存在しないはずの男に。イリナ姫はレギルが最も嫌いなあの男の影をいつまでも追っている。
一緒についていくと言えれば良かった。それで彼女の好感度を稼ぐことができるのならば、しかし。どうしてもそれはできなかった。レギルは馬鹿にはなれなかった。
自由都市には残虐王がいるはずだ、そんな場所へは向かえない。蝕害だってあの男に倒させればいい、それこそ負けて死んでくれれば御の字だ。それが普通の当たり前の考えだ。
なぜそんな単純なことが分からないと罵倒したいぐらいだった。
イリナ姫が出ていったのち、数人の部下を集めた。
「イリナ姫に危機がせまったら救出しろ。多少強引でも構わん」
今できることはこれだけだった。
ふと予感がした。全てが崩れていくような音がする。今まで築いてきたものたちが崩壊していくような。いったいどこで積み方を間違えたのか、どこかに致命的な齟齬が生まれてしまっているのを感じた。
「くそ!」
苛立ちに任せてレギルは机に拳を叩きつけた。
◇◇◇◇◇◇
蝕害の発見からすぐに自由都市内に警報が鳴り響き、市長のもとにまで連絡がいったが遅すぎた。もはや1,2時間後には自由都市に到着するだろうと結論付けられた。
いまさら避難してももう遅い、各個撃破の的になるだけだった。すぐさま戦いの準備がとられた。そして初めての大規模な戦いに怯えながらも敵の到着を待ち続けた彼らが見たのは絶望だった。
自由都市にはあまりにも巨大な人型の化け物が押し寄せようとしていた。
遥か遠くまで続く大地の上を、二足歩行する蝕害からこぼれた漆黒の固まりが命を吸い取りながらもぞもぞと移動して、また本体に合流する。灼熱の太陽の下で本来の草の緑や土の色が見えない。なんとも異様な光景だ。
まるで大地が虫にたかられているような、病原に蝕まれているような、おぞましい錯覚に囚われて背筋が寒くなる。
その威容は人々の心をへし折るには十分過ぎるものだった。
「あれは……大蝕害じゃないか」
「そんな」
大きすぎる敵を前にして、呆然と立ちすくむしかなかった。
「間違いない。あれは最初の一体の分身」
「もう終わりだ」
都市の人々は絶望を囁き合った。最後の時をせめて愛する人と過ごそう、好きなことをやろうそんな思考が流れたところで。一人の男が立ちあがった。
「みんなしっかりしろ! 戦うんだよ!」
それでもなかなか動き出せない人々に向かって怒鳴る。
「生きたかったら急げ!」
生きたい──当たり前の欲求だ。
人々は憑かれたように動き始めた。
◇◇◇◇◇◇
都市に迫っていた巨体はある地点で立ち止まる。
都市の周辺部には大量の砂が撒いてあった。そこを基点にして足を止めたのだ。
蝕害には一つ特異な性質がある。彼らは常に命を消費して動く、周囲から命を吸い取っていなければ活動は鈍り、いずれ停止するのだ。だから砂漠のような死んだ大地の上では活動は著しく鈍った。巨大すぎる蝕害はそれゆえ動くのに大量のエネルギーを消費し、深い砂の上を歩くことは困難だった。これは対蝕害用の基本的な戦術であった。
蝕害の巨体からぽたぽたと黒い滴が垂れていった。
べちゃべちゃと地面に降り注いだ黒い液体から人影がむくりと起き上がる。人型だけではない、様々な形態の蝕害が形を成して大地に立った。大地に蠢く無数の影、それら全てが悪鬼の姿だった。砂の大地を踏み越えて、彼らは都市へと進んで行った。
自由都市とて勿論この日のような事態を想定していなかったわけではない。自警団の他にも、緊急事態には市民の大半が戦えるように準備されていた。
「撃て撃て撃て!」
指揮官は唾を飛ばして魔術隊に号令を飛ばす。
幾重にも合わさった魔術が乱れ飛び轟音が轟く。一度となく二度、三度と。
さすがの蝕害と言えど無傷ではすまない、しかし半ば不死であり死を恐れぬ兵士だ。突破されるのは時間の問題だった。着実に道のりを踏破し、都市の外壁に取りついた蝕害たちはそれ以上進めないことに気が付く。彼らの侵入を防ぐ都市結界だった。
だがそれすら長くはもたないことが分かっていた。数分もすれば蝕害は触れた部分から結界の力を吸い取り、効果を弱らせてから強引に都市内部へと侵入を果す。
「入り込んで来たぞお!」
住民たちが武器を取り表へと向かう。
そこで見たのは怪物だった。腕が何本も生えた、生物のなりそこないのような奇怪な形を取っていた。だが人々は動かない蝕害を見て、好機だと一斉に切りかかる。
「か、堅い」
目一杯振るった斧が、叩きつけた剣が、簡単に跳ね返されていた。堅い外皮によって遮られたのだ。
「駄目だっ。斬れないっ!」
死神の鎌のように蝕害の剛腕が振るわれて、人々は転がって物影に飛び込んだ。
「魔術だ! 一斉にいくぞ!」
蝕害は炎に弱いという迷信がある。みなが扱える中で最大の火の系統の魔術を蝕害に向かって放った。橙色の閃光が空を染め上げ、蝕害は火に包まれた。しかし──火の中から姿を現す黒い影。
「無理だ。こんなの倒せっこない」
誰かが呟いた。それが住民たちに伝播しかけたところで。そんな絶望的な感情ごと、敵を蹴り飛ばす影があった。それは赤い閃光だった。蝕害の巨体を軽々と吹き飛ばし、建物に叩きつけたのだ。
「いったい誰が」
激しい衝撃を受けて転がった蝕害が起き上がろうとすると身体に火がついた。それは内部から燃やし尽くし、再生すら許さない。蒼い美しい髪と、火の粉を纏うその姿は音に聞く英雄。
「爆炎の魔術師だ」
「4英雄の」
英雄が現れたと歓喜の歓声があがる。
しかし当のイリナの状況はそれほど穏やかではなかった。
敵の数、強大さもそうだ。
そして、はたしてレギルは増援を出してくれるだろうのかと。