どこかのだれかのものがたり
大幅改稿しました。
多少読みやすくなったはず(適当)
物語には大抵の場合、主人公が存在する。
それが愚かしいものであれ、輝かしいものであれ。
どちらにせよ、主人公のない物語というものはまるでご飯のない和食のようなものである。
その場合、無いなら無いでそれもまた構わない、と思えないこともない。
つまりはそういうことだ。
人生は物語であり、自分こそ、その物語の主人公である。
という考えは世間に広く存在している。
確かに、人生というものの主体が自分であるというのは、さして間違いとは思えない。
だが、物語というのは大抵の場合において、面白い、あるいは起伏に富んだものである。
その発想もステレオタイプのそれではあるのだが、ともかく、多くの人は自分を主人公だと思っているわけではない。
残酷なことだが、この世界において、無個性的で起伏のない人生は物語としての面白みを欠くというのが定説だ。
だからといって、無個性な自身に気を病み、自らの悲運を呪うというのは、あまりに虚しいことだ。
もしかすると、幸運にも、何か後天的に突飛な才覚に目覚めたり、あるいは、何か運命の出会いに導かれて紆余曲折の人生を歩んだりするかもしれない。
そういう点において言うのならば、物語というのはある種の希望であるのかもしれない。
その希望は、自分が主人公になる可能性がこの世界のどこかに存在していると信じるためには、不可欠のものなのかもしれない。
ならば、もし、自分が主人公になれるならば、どのような物語の主人公になるだろうか。
例えばそれは、勇者となり、魔王を打ち破る物語かもしれない。
あるいはそれは、魔王となり、勇者を返り討ちにする物語かもしれない。
だが、私にとっては、そのどちらの物語も、希望の対象として完全であるとは言い難い。
私の人生の目的は文字通りの贖罪。
この世のあまねくすべての人間が持つ、ある種のカルマから解き放たれる。
こう述べると、まるで普遍的な宗教家の目的のようである。
そうかもしれない。
だとしても、私は宗教家ではない。
私が信じるのは私だけだからだ。
それならそれで、私は自分を主神とする宗教家であるのかもしれない。
私に贖罪の機会が与えられたのは、死後のことだった。
死後の世界がおよそどのようなものなのか、生前の私は考えることさえしなかったのだが、いざ死後の世界に来た時には死後の世界に対する興味などなくなっていた。
それはいい、重要なことではない。
重要なことというのは、私に転生の機会が与えられたということである。
二度目の人生、それはある意味では、私が一度目の人生で果たせなかった目的を果たす機会である。
だが、むしろ、二度目の人生を得られると知れば、贖罪などということが些事に思えるのも、一切自然なことだった。
故に、私は、二度目の人生でさえも、贖罪という目的を果たすことは無かったのである。
しかし、私は二度目の人生の中で成長し、死を乗り越えることに成功した。
ただし、その際に私の心と体は別離し、存在から魂のようなものが抜けていった。
成長した私はその不可抗力を自己存在の複製という形で利用した。
差異は多少あるが、自己存在が増えた。
そのことにより、私は死後の世界において、できることを増やしていった。
そして遂に、自由に転生を行えるようになったのである。
実に素晴らしいことだ。
だが、私は三度目の人生を送るつもりはなかった。
転生を望んだ自己存在の一つを転生させたのだが、帰ってくる気配がないので、もう一人の自己存在を調査に向かわせた。
結果は出なかったようだ。
そこで、私は死後の世界を訪れた者たちを転生させることにした。
何故か、死後の世界をさまよう者たちは大きな罪を抱えているようだったので、それに救いを与える、という意味合いもある。
建前はともかく、本音としては自己存在の一つを掌の上にどうにか戻すための先遣隊としての役割を担ってもらうつもりだ。
そういえば、死後の世界には、私と自己存在の他に七人の人間がいる。
交流の中で、その七人には、一人一つ、一度目の人生での知識で言うところの、七つの大罪というものが宿っていることに気がついた。
なるほど、これは面白い。
そう思った私は、七人を時間差で転生させることにした。
転生先の世界は、いわゆるファンタジー世界だ。
きっと面白い物語になるだろう。
そう呟いて、私は転生用の魔法陣を書く手を少し早めたのだった。
執筆作業って思いのほかカロリーを使うんですね。
誤字脱字あったら連絡おねがいしまーす。
改稿作業って思いのほかカロリーを使うんですね。