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一話

 帝都の、それも賭博の世界に生きていて、その名を知らぬ者はいないだろう。

 帝都の白兎。

 彼女は、黒の衣装に身を包んでいた。

 肩から腰までを隠す黒は、足の付け根、臍の下を頂点とした縦長の逆三角形を描いている。黒の衣装は網状になって、足を覆っていた。網目から覗く肌色が黒に映え、劣情を誘う。

 豊満な胸の上、肩から伸びる腕は何にも隠されておらず、その程よい弾力を思わせる肌色が(あら)わになっていた。

 指が挟むのはハートマークが描かれた一枚のカード。

 鮮やかで血色の良い唇を、そのカードが隠す。くりくりとした瞳には見る者を煽る挑戦と好奇心の煌めき。彼女が歩き、踊る度にぴょんと跳ねる付け耳の下を、深い深い川のように濃藍色の長髪が流れていく。

 白く透き通る肌、と形容できる以外には白さなど欠片もない彼女は、しかし白兎と呼ばれ、畏怖されてきた。

 その白は、無敗の異名である。

 彼女に挑んだ博徒は数知れず。ある者は彼女の魅惑の肌色と美貌を欲し、ある者は彼女が勝ち続け巻き上げ続けてきた財産を欲し、ある者は初めての黒星を付ける名誉と称賛を欲し、彼女に賭けを申し込んだ。

 だが、誰一人として、彼女に勝てた者はいない。

 ゆえに、今なお彼女は汚れを知らぬ白であり、その姿と合わせて白兎と呼ばれている。

 そして、この日。

 帝都にとっては代わり映えのしない、ある日のことだ。

 彼女の前に、一人の男が現れた。

 ……いや、彼女の前には、男でも女でも、いくらでも人々が現れては消えていくのだ。その男にとっては特別の瞬間であっても、彼女にとっては有り触れた景色に過ぎなかった。

 ただ、強いて言えば、眼前の優男が数多く見てきた男の中でも特に目立つ美貌を持っていたという程度。

 そんな彼女の感想を知る由もなく、男は歩み出てきた。

「君は――」

 言いかけ、男は顎に手をやる。

「違うな」

 小さく呟いたつもりであろう声は、しっかり彼女にまで届いていた。しかし男は構わず仕切り直す。

「あなたは、この賭場の従業員(ひと)かな? それとも、賭場の商品(もの)かな?」

 言い直した割に、遠慮も飾り気もない言葉だった。そのチグハグな感じが、彼女には新鮮だったのかもしれない。

「あらラ。アタシが欲しいのかしラ?」

 猫撫で声の、それこそ男を誘うために作られたような声音だった。

「あぁ、欲しいとも。惚れた。一目惚れだ。あなたが商品だというのなら、いくら勝てば買えるだろう? そうでないなら、どうすれば俺のことを見てくれるだろう?」

 印象そのままの、直截(ちょくせつ)な言葉。

 彼女がトランプで隠した口でくすくすと笑っている間も、男はじっと見つめている。

「どうしようかしラ」

 彼女の声を聞きながら、どうやら見かけよりずっと若そうだ、と彼は考えていた。

 ただでさえ豊満な胸は服装によって一層強調されているし、隠せていない腕や足は細すぎず、太すぎず、その上筋肉も付きすぎていない、絶妙のバランスを作っている。声や仕草も、その身体に見合う歴戦のそれだ。

 しかし、瞳の奥に煌めく好奇心は、それこそある種の劣情を誘いかねない幼さに満ちていた。トランプの裏からちらりと覗いた八重歯が、彼女の幼く悪戯っぽい印象を強める。

「アタシはですネ、ここでディーラーやってるんですヨっ」

 細められた眼差しが彼を射抜いた。ただでさえ射抜かれていた胸を、更に強く、抜けようもないほど釘付けにしてしまう。

「勝てばいいと?」

「そう、そういうことですネ」

 悪戯っぽく笑う彼女に、男も獰猛に笑った。

「俺はリースだ、リース・アディ。あなたの名前を教えていただいても?」

 男、リースは恭しく頭を下げる。

「お断りしていいかしラ? まずは勝って、それから聞いてくださいネ」

 彼女はまたくすくすと笑って、それから口元を隠していたトランプを男に向けた。

「でも、みんな白兎って呼んでくれますヨ? この名前、気に入ってるんですけどネ、もしあなたが奪うっていうなラ、本当の名前、教えなくちゃいけなくなっちゃうかしラ?」

 リースが息を呑んだ。

 と、次の瞬間、彼は自身の目を疑う。

 彼女、白兎は確かにハートのカードを持った右手をリースに向けていたはずだが、今はもうカードの代わりにコインを(もてあそ)んでいた。

「……すまない」

 そう謝ってみる彼は、一つ見当をつけている。それゆえに、謝ったのだ。ディーラーに、ではなく、女性に。

「よく見えなかった。もう一度お願いしても?」

「もちろンっ」

 凝視する。

 顔の下、首よりも下。鎖骨のほんの少し下。

 リースがじっと見つめる先で、しかし、何も起きはしなかった。

 彼が男とはいえ、勿論そこまで視野が狭いわけではないし、狭くなるわけでもない。リースは何が起きたのか、しかと見ていたのだ。

 白兎の右手が自身の背に回され、再び身体の前に回された時には一枚のトランプを握っていた。それがもう一度背に回されてから身体の前に戻ってくると、やはりトランプではなくコインを握っている。

 人差し指に置いたコインを親指で弾き、高く飛ばす白兎。

 その姿を見て、リースは自身が何も言えないでいたことに気付いた。彼はバニースーツの胸元にそれら小道具を隠していると考えていたのだ。予想が裏切られ、今度はくるりと回ってみてくれ、とでも言おうか悩んでみた彼だが、それではあまりに情けないと思い直す。

「すごいな……」

 代わりに口から零れたのは、ひどく有り触れた感想だった。

「心の準備はよろしいかしラ?」

 対する白兎は彼のような客、というか男にも慣れているのだろう。扇情的で蠱惑的な笑みを(たた)えたまま、早くもコイントスの準備を整えていた。

「あぁ、勿論。ルールを聞いても?」

「えぇ、もちろン」

 彼女は整然と答えた。

 一つ、トスの前に表か裏を宣言すること。トス自体はディーラーである白兎が行う。

 一つ、宣言の順番はプレイヤー側が自由に決めていい。……が、ディーラーに優先して選ばせる客は少数派だ。

 一つ、十回目のトスの前であればそれまでの賭けを全てなかったことにし、終わらせてもいい。これは不正を疑うプレイヤーがあまりに多すぎるからだという。

 その他、細々としたことの説明もあった。賭け金の下限上限はなしで、両者の賭け金を勝者が総取り。基本的にトスしたコインは白兎が左手の甲で受け止めるが、地面に落とすよう指定することも可能。……等など。

「つまり、だ」

 説明を受け、リースは鼻を鳴らす。

「あなたにコインの出目を操るだけの技量があれば、俺の負けは確定というわけだ」

 表が出るか裏が出るか。白兎が先に選択しようと、客が先に選択しようと、そもそも白兎が投げるのだから、彼女の技術が卓越していれば関係ない。

「かしラ? でも、それはもう手品ですネっ」

「だな、手品だ」

「嫌なら帰っていただいても構いませんヨ?」

「何を言うか」

 彼女の口ぶりに、彼は心外そうに笑ってみせた。

「楽しみだ。まずは銀貨五枚。ゆっくりいこう」

 そして、子供でも分かる単純で明快な賭けが始まる。


 九回目のコインは表を上にした状態で彼女の右手の下から現れた。

 表には獅子、裏には大蛇が描かれた、帝国や王国の硬貨ではないコイン。どこかの国の硬貨なのか、この王帯鉄火場や帝国全土の賭場で用いられる指定のコインなのか、はたまた子供のお遊びに使うような玩具なのか。

 リースは知らなかったし、特に興味も持っていない。五回目のトスを終えた時に一度だけ直に触れさせてもらい、重さや表裏のバランスなどを軽く調べてみたものの、彼の感覚で読み取れるほどの誤差や改造の形跡はなかった。

 道具に頼ったイカサマではない。あるいは、道具に理由があったとしても素人に見破れるものではない。

 諦めの息をつき、リースは左手を差し出した。同様に白兎が差し出してきた右手を下から支え、その上に十枚の銀貨を落としていく。

 この数秒だけ、彼は彼女の肌に触れることを許されていた。そこに銀貨十枚の価値があるとは彼も思っていない。

 ただ同時に、これは安くはない女だぞ、とどこか誇らしげに笑ってもいた。自身に向けた慰めであり、周囲に向けた言い訳でもあるのだろう。

「これで銀貨五十枚ですネっ! まだ続けるかしラ? それとも、諦めて帰っちゃうかしラ? まだ十回目の前だから、今なら五十枚返してって言うのもアリですヨっ」

 白兎がきらきらとした瞳をリースに向け、その表情のままの声を投げてきた。

「いいや、男に二言はねえ。一度賭けた金を、負けたからやっぱり返してくれだなんて、そんなこと言えるわけねえな」

 しかし、言葉とは裏腹に、彼の額から頬には一筋の汗が伝っている。たった九回のトスで手元にあった五十枚が彼女の懐に渡ってしまったのだ。十回目のトスに賭けられる金が、銀貨どころか銅貨の一枚も存在しない。

 その事実も無視できないが、九回連続で彼女に負けたという事実も大きかった。

 コインにイカサマの痕跡は見つからず、彼女のトスにも特に問題はないように思える。ここまで出たのは、表が六回、裏が三回。倍といえば大きな差に見えるものの、たった九回のトスなら全てが表だったとしても驚くに値しない。

 そうでなくとも、イカサマを指摘するには証拠が必要だった。イカサマがあった証拠。それもなしに糾弾することは不可能だろう。よしんば声を荒らげたとしても、いちゃもんで片付けられて終わりだ。『なかった証拠』を求める前には、まず自ら『あった証拠』を見せなければいけない。

 だが、そんなものは彼の手元にはないのだった。

 彼の選択肢には、イカサマの指摘などありはしない。どうにかして金を工面し賭けを続けるか、それとも完敗を認めてすごすご逃げ帰るか。ない金を約束して勝ちを求めるのは、彼の流儀に反する。

 一ヶ月後には母校になっているはずの王立文武院(おうりつぶんぶいん)は、王国における傭兵や騎士の育成を行う国立の学校だ。初等学校すら義務教育ではない王国にあってもなお名高い名門であり、輩出してきた傭兵や騎士、軍人は数え切れないほど。

 リースは大陸の反対、今いる帝国の隣国であるアラステア教国から留学という形で通ってきたが、そもそも王国流の考え方を気に入って無理を押し通した結果なのだ。先輩から後輩へ受け継がれる賭けの流儀とて、無下にするつもりはない。

 賭け金の上限は総資産。

 今のリースでいえば、数十分前までは手元にあった銀貨五十枚がそれだ。払うことのできない金を約束するわけにはいかない。

「あらラ、お悩みですネ……」

 彼の思考に、白兎の寂しそうな声が染み込んできた。

 まるで涸れ井戸に雨の雫が垂れていったような、むず痒くも歓喜を呼ぶ響き。少なくとも、リース当人はそう受け取ったらしい。

「少し待っていてはくれまいか」

 彼の口から漏れた声は、呻き声にも似た重く苦しげなものだった。

「一番近くの預かり所でも片道一時間はかかりますヨ? 条例で決められちゃってますからネ」

 賭博に入れ込みすぎて生活を破綻させる者がそれだけ多いということか。リースは、しかし首を横に振った。

「連れがいる。後で返せばいいさ」

「いけない人ですネ」

「はは、そういうのはまた今夜にでも、ベッドの上で言ってほしいかな」

「そういうこと、言っちゃいけない決まりですヨ?」

 それは失敬、とだけ言い残し、リースは王帯鉄火場の宮殿のごとき建物に足を向けた。

 そういえば、帝都の白兎とまで呼ばれた彼女は、どうしてか人通りも決して多くはない本館脇の通りで客を探していたのか。周囲を行き交う客や従業員の反応を見るに、自称ディーラーというだけの部外者ではない。しかし、ならば何故、彼女は人通りの多いところにいかないのか。

 今更そんな疑問に至ったらしいリースだったが、王帯鉄火場の本館に一歩入った瞬間には、悩みめいた思いなど吹き飛ばされてしまった。

 轟音だ。

 まだ普及せず流行するには至っていない賭博用の機械が撒き散らす音の他、人々の歩く音や話す声、もっと言えば怒りから台を叩く音にナンパしたりされたりして上げる耳障りな声まで、あらゆる音という音、声という声が鼓膜を叩く。

「これは……すごい」

 そして大変だ、と彼は内心で付け加えた。

 自分の連れが――できれば融通のきくセオが――どこにいるのか、この中から探し出すのは大変に難儀する大仕事だろう。


   ×××


 一方、そのセオは、

「いらん、帰れ、目障りだ」

 ほとんど熱を帯びていない声で苛立ちと拒絶を示していた。

「いいじゃないですかぁ、ちょっとくらいぃ」

 彼の隣には、やたらと派手な女が侍っている。無論、セオがそうさせているわけではない。彼女が断られても断られても諦めずに居座っているのだ。

「邪魔だ。男が欲しいならその辺で漁れ。金が欲しいなら適当に酒を持ってこい」

 今、彼は地下にいる。

 一見は踏み入ることのできないはずの地下拳闘場。今日、というか一時間ほど前にこの王帯鉄火場を訪れたばかりの彼が、どうしてここにいるのか。

 一部始終を仔細に至るまで語れば、それこそ一つの小話にでもなってしまうだろう。

 それをリースという青年の物語の妨げにならない程度に要約するのであれば、次のように語る他ない。


 ディーラー、()いては運営側が最終的に儲かる仕掛けになっている賭場で金を浪費する気などなかった彼は、些か以上に割高とは承知しながらも飲食できる酒場の付近をうろついていた。

 時に酔わない程度の薄い酒を飲み、時に鼻が探し当てた軽食を頬張り、時に酔っ払いや商売女を払い除けながら暇潰しに客同士の賭けをしていた時のこと。

 ある女が――この人物こそが件のしつこい女であるのだが――、賭けに大勝ちし酒も大いに飲んだであろう男に絡まれていたのだ。周囲にも数人の男がいて、どれも筋肉でできた樽のような姿をしていた。女のほうはといえば、バニースーツではないにせよ露出が多めの制服姿。

 とはいえ、いかに目障りであっても、そこは天下の王帯鉄火場。どうせ大事になる前に運営側の警備役が出てきて事を収めるだろうと誰もが関わらずにいた。セオもそうするつもりだったのだが。

 そう。だが、である。

 彼は三十路を過ぎる頃になっても酒に強くはなれなかった。そうであれば、まだ成人してもいない頃など察するに余りある。そもそも初等学校と中等学校は通ったものの、高等学校に通うのは金と時間が無駄だからと中等学校を卒業してそのまま文武院に入った彼だ。自然の摂理に従って、彼はアルコールにあてられていた。

 ……彼より二つも幼く、王国籍であれば飲酒を認められてすらいない年齢の同期生が大酒飲みであることは、この際置いておくとしよう。

 ともあれ、何より、彼は(うるさ)いのが嫌いだったのだ。

 賭場というのは、特にこの王帯鉄火場というのは、音という音に溢れていた。それが悪い方向に影響してしまったのだろう。

 賭場で働いているからには、女も慣れてはいたはずだ。

 しかし、そんな思考をする暇が彼の脳裏には残っていなかった。

 最初に絡んでいった男が女の胸元に手を伸ばそうとした時には、もう彼の足は動いてしまっていたのだ。腕を伸ばし、露出されていなかった服の内側へ潜り込もうと下卑た笑い声を上げた直後には、男は明るすぎる天井の電飾を眺めていたことだろう。

 セオの右拳は、男の顎があった場所で静止していた。


 紆余曲折、と表現するほどのことはない。

 既に近くまで来ていた警備役の男は一部始終を見ており、セオに形式上の咎の言葉を向けたものの、なんらかの罰則を科すことはなかった。

 代わりに、男はセオに一つの階段を指し示したのだ。

「いい拳でした。机上の賭けにお楽しみいただけないのでしたら、地下に行ってみてはどうでしょう。多くのお客様は見て賭けるだけですが、中には闘って賞金を得る方もおります。話は通しておきますゆえ」

 と、そんな調子で言われてしまえば、セオも頷くしかない。なにせ、リースが指定した刻限は『日が沈むまで』である。たったの一時間でこの暴力沙汰では、半日もいたらお咎めなしで帰路につけるかさえ怪しい。それに金が稼げるならリースたちとの賭けにも好都合だった。

 そうして地下に向かい――ついでに件の女もべったりとついてきて――、セオは地下で拳を構えるに至っている。

 普段は盾と剣を持って戦っているが、素手喧嘩(すてごろ)というのも馴染みがないわけではなかった。お陰で、全勝とまではいかないものの、大きな怪我をする心配もなく地道に稼げている。何やら気に入られてしまったのは彼も面倒だと思っていたが、それもわざわざカウンターまで行かずとも水分補給ができると考えられなくもない。

 そんな事情から、彼は地下にいる。

 そして、その地下は本来一見の客が踏み込める場ではない。

 白兎に一目惚れしてしまったがゆえのリースの苦難は、まだまだ終わりそうにないのである。

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