エピローグ
意識が朦朧としている。
そう理解することしか、彼にはできなかった。
ここはどこなのだろう。
今はいつで、この頭痛はなんなのだろう。
次から次へとわいてくる疑問が彼の苦痛を一秒ごとに悪化させていった。酒の臭いに混じって、何やら甘い香りが漂ってくる。それが決定打となった。
堪えきれずに揺れた上体を、誰かが支える。頭痛の中で、けれどもそれだけは心地良いと思えた。
意識が遠のく。
頭の上から投げかけられる声に、ほとんど言葉になっていない声で返したのが最後の記憶。
彼は意識を失った。
気が付いた時、目の前に瞳があった。
一対ではない。一つだ。すぐ下に泣きぼくろが見えて、セオの記憶が逆流する川の流れのように再生される。
「ぅあぁ……」
「随分とひどい人ですね」
割れるような頭痛に呻き声を上げて身を引くと、ようやく彼女の顔が全て視界に収まる。妖艶な中に幼さを感じさせる顔立ち。アドリアーノだ。
「ここは……?」
記憶が残っているのは、日が暮れた頃までだ。夜になってからの記憶が、彼の頭の中には存在しない。
「私の腕の中です」
「あぁ、そうか、俺は毒を盛られて……」
「そんなことをした記憶はありませんが?」
アドリアーノが呆れたように言うも、セオは聞く耳を持たない。
「酒は毒だ。毒じゃなくてなんだという? ただ飲むだけで頭痛を呼んで、正体がなくなる」
呆れ果てて開いた口が塞がらないアドリアーノ。しかしセオはお構いなしに続ける。
「あと、今のあんたも目の毒だな。目のやり場に困る」
「困らないでください」
「悪いな、記憶にないんだ。酒にひどく酔ってて……」
「知っていますよ。……いえ、そもそも、記憶に残るようなことは何もなかったですからねぇ」
「……?」
セオは怪訝そうに彼女の瞳を見つめ、何事か考え込んでいるようだった。
恐らく、それがいけなかったのだろう。
再び朦朧とする意識に抗えず、彼は重い頭を支えていられなくなった。前に倒れ込み、柔らかい何かに身を預ける。意識は途切れた。
日が沈もうとしている。
彼は肩を支えられながら、舗装された道を歩いていた。周囲からの痛いほどの視線に、けれども意識を払っている余裕などない。気を抜けば胃液がこみ上げてくる。
「どっちが世話してるんですか……」
アドリアーノが呟いた。
「いやぁ、悪い。そんな可愛らしい顔して、まさかあそこまで飲むとは」
「今更口説かないでもらえます?」
「……? ……あぁ、すまんな。そういうつもりはなかった」
「余計に質が悪いですね」
そんな調子で言い合っているうちにも、二人は目的の場所に近付いていたらしい。前方から、聞き慣れた男たちの声が飛んできた。
「よう、酔っ払い! 来ねえかと思ったぞ」
「君だけもう一晩か二晩泊まっていったらどうだい?」
リースとアルターだ。
「くそ、うっせぇ。頭痛ぇんだから騒ぐな。それとな、あと二晩もいたら俺は生きて帰れねえだろ」
手で払うような仕草とともに、彼は言う。向かう先には、王国まで乗せてくれる予定の馬車も停まっていた。
「だろうな。もういっそこっちに住んじゃえばいいんじゃねえか? そうすれば俺も安心できる」
と、返してきたのはリースだ。
「ふざけろ――」
思わず怒鳴ったセオは、だがそれで力尽きた。へなへなと膝から力が抜け、アドリアーノが何事か喚く。その言葉はリースたちのもとには届かなかったが、緩んだ表情を見れば、言葉など聞くまでもないと分かるだろう。
そんな様子に、
「あんたらのお仲間さん、大丈夫かい?」
などと御者からも心配される始末だが、セオの耳には届かない。
「まぁ、吐くことはないと思いますから、大丈夫ですよ。どうせ胃の中には何も入ってないんでしょうし」
アルターが笑いながら御者に言う。リースも笑っていた。
「……元はといえば誰のせいだと」
また少しは気力を取り戻したセオが小さく呻く。最後まで言えなかったのは、二日酔いの頭痛と吐き気ゆえではない。
セオがアドリアーノと接点を持つに至った理由は、彼自身が地下でロンに負けたことだ。どう足掻いても勝てないはずの相手に、しかし彼は救われた。
それは、何故か?
巡り巡って、セオはリースに救われたのだ。
呻く気力さえ失って、彼は足を止めた。
「なぁ、アドリアーノ」
「アドリィでいいですよ」
「なら、アドリィ」
頭は痛むし、吐き気もひどい。
それでも、セオはどうにかアドリアーノの瞳を見据えた。
「あんたの依頼、ちゃんと受けなくて悪かったな。また、ちゃんと傭兵になったら、今度は真っ当な依頼を寄越してくれよ。恩を返す機会をくれよ」
えぇ、とだけ、アドリアーノは頷く。彼の言葉に続きがあることを知っていたからだ。
「それとな、アリアンのことだが、……あんたに頼むことじゃないってのは承知の上で、頼む。あの馬鹿は、頭の毛の先まで馬鹿だ。女一人、ろくに守ってやれねえ馬鹿だ。頼んでばっかりで悪いが……」
こんなことを彼女に頼んでどうするのか、とセオは思わなかった。嫌な顔はするかもしれないが、断ることはないだろうと知っている。丸一日以上も――まぁ、早々に酔い潰れてはいたが――飲み明かしたのだ。
「では、私からも一つ、よろしいですか?」
そんな声に、首を横に振るセオではない。
「あなた自身のことで、私を頼ってくださいな。それが何よりの慰めになりましょう」
セオが口の端を吊り上げる。
「じゃ、いつかな。その権力に頼らせてもらうよ」
「えぇ」
二人は、それで別れた。
互いに手を振り合う仲ではない。セオとアドリアーノは、恋人でも、そうなるであろう間柄でもないのだ。裏切り、裏切られ、またいつか仕事で顔を合わせる関係。それだけだ。
リースとアルターの手を借り、セオは馬車に乗り込む。
数分とかからず、彼は寝息を立て始めた。
彼らの旅はもう終わる。王国までの帰り道は決して短くはないものだが、そう語ることの多い旅路でもない。
こうして物語は終わり、また始まる。
けれど、無論、それを語るべきは今ではないのだろう。




