Chapter 3
「さて、ちさと」
私がすっかり元気になったある日、お姉ちゃんは言った。
「体も良くなったことだし、
これからはあんたも好きなことができるよ。
何でもいい、あんたのやりたいことをやりなさい」
私は面食らった。
「これ以上、やりたいことなんて特にないけど」
今の生活の、どこに改善の余地があるというのだろう。
私もお姉ちゃんも、いろんなことを体験し、
十分満足して暮らしているじゃないか。
するとお姉ちゃんは、上目遣いに私をじろっとにらんだ。
「あんたはまだ、何もしていない」
その言葉に私はカチンと来た。
そりゃそうでしょうよ。
私はお姉ちゃんの成功の下で、
好きなように贅沢させてもらってるだけだもん。
そんなことはじゅうぶんわかってる。わかってるけど。
「これからは、なんだって好きなことができるんだよ。
あんただってあるでしょう、
やりたかったけどできなかったことや、
最初からあきらめてしまっていたことが」
お姉ちゃんにたたみかけられ、私は目をつぶって考えた。
私の、やりたいこと。やりたいこと・・・?
頭の中は、真っ白だった。
本当に何も思いつかないのだった。
思えば私はいつだって、
何かをする前にそれを止められていた子供だった。
無理をすればいつ心臓が止まるかわからない、とお医者さんに脅かされ、
両親はいつも私が何か子供らしい無茶なことを、
やりたがらないように目を光らせていた。
雨の後に出来た水たまりに足を入れて遊んだり、
炎天下にセミの抜け殻を拾いに行ったり、
お姉ちゃんと一緒に雪だるまを作ったり、
そんなささやかなことから始まって、
学校の遠足や運動会、学芸会や修学旅行などのイベントは全て、
私のこれまでの人生をスルーしていった。
ほとんど学校に行っていないのだから当たり前ではあるけれど・・・。
犬や猫はもちろん、小鳥やハムスターなどの小動物を飼うことも、もちろん禁止。
旅行もお出かけも、習い事もあり得なかった。
たぶん、小さいころは、
あれこれわがままを言って両親を困らせていたのだろうが、
成長するにつれ、私は次第に何かをしたいと思うこともなくなった。
幸いにも、目先の退屈を満足させてくれるツールは、
私の周りにたくさんあった。
ゲームや漫画、テレビなど、
ごろごろしながらできることが山ほどあったからだ。
そしてそのうち、何もしないでただ元気でいれば、
それが一番だと思うようになった。
お姉ちゃんがこつこつ努力している時に、
私は子供が回避するべきあらゆる誘惑を、
お姉ちゃんの代わりに一人で満喫していたのだ。
「ごめん、お姉ちゃん。私、本当にやりたいことなんてないわ」
私は正直にそう言った。
「見つけなさい、これから」
お姉ちゃんが、簡潔に返してきた。
その声には、他人に有無を言わせない、
無条件降伏を余儀なくさせるオーラがあった。
私はすっかり怖気づいた。
「そ、そんなことを言われても・・・」
好きなこと、やりたいことをしなさい、と言われることが、
こんなにもプレッシャーだなんて。
何かを禁止される方が、よっぽど楽だった。
そうしたら、はい、わかりました、と返事さえしていれば、
それ以上何も考える必要がないからだ。
そして、私はいつもそうしてきた。
でも、ここに来て、プラスアルファのお姉ちゃんの要求は、
私には祝福でもご褒美でもなく、重い荷物のようだった。
今までずっと、たびたび自分に降りかかってくる
痛みや苦しみのしんどさを克服することが、
私の生きるテーマみたいなものだった。
突然胸の奥をハンマーで殴られたようなショックと共に、
手足が氷のように冷たくなり、
頭が割れるように痛み、息が苦しくて気が遠くなって、
気が付けば入院、検査、手術の繰り返し。
描きかけの絵、やっとできた友達との中断したままの交換日記。
ベランダの朝顔は入院している間にからからにひからびて、枯らしてしまった。
買ってもらった新しい靴は、一度も日の目を見ないまま、
サイズが合わなくなって履けなくなってしまった。
何かを続けることなんて、私にはできなかった。
何かを一つでも成し遂げる経験が、私には一度もなかった。
いつも、今この瞬間を単純に楽しめる、
娯楽とか食べ物とか、そういうものにしか、私は満足を見出せなかった。
要するに、病気を言い訳に、私は甘やかされ放題で生きてきたのだ。
そう自覚するのは、つらいことだった。
自己嫌悪の矛先は、知らずお姉ちゃんに向いていた。
「お姉ちゃんには、わからないよ。
いつも元気で、好きなことを何でもできたお姉ちゃんには。
私にはお姉ちゃんみたいにかっこいい成功体験なんて一つもないし、
自分が何かできるなんて思ってないもん。
だから、やりたいことなんて思いつかない。
大体どうしてそんなこと、お姉ちゃんに強要されなきゃいけないの?」
いつの間にか、私はそんなことを口走っていた。
恐る恐る目を上げると、お姉ちゃんは黙ってぼんやり私の方を見ていた。
そのまなざしを見ていたら、私の脳裏をある光景がかすめた。
それは、小さいころ何度も見た、
お父さんとお母さんが私を病院に連れていく時、
私たちを見ていたお姉ちゃんのまなざしだった。
お姉ちゃんは、私を見てはいなかった。
お父さんやお母さんを見てもいなかった。
ぼんやりと焦点の定まらない目で、
お姉ちゃんは黙ってただ私たちの方を見ていた。
お姉ちゃんが見ていたのは、
お母さんが私の着替えをまとめ、お父さんが私をおんぶして、
病院へ行こうとしている、その情景全部だったのだ。
お姉ちゃんの一番の望みは、
その情景の中の私の代わりに、自分がなることだったのかもしれない。
私は罪悪感でいっぱいになり、お姉ちゃんから目をそらした。
「・・・そうね、私はあんたじゃないから、あんたのことはわからない。
でも、あんたが何かを夢中でやってるとこ、一度でいいから見てみたかったのよ」
しばらくして、お姉ちゃんはポツンとそうつぶやいた。
お姉ちゃんにそう言われてしまうと、
私にはもう自分が悪うございましたと思うほかなかった。
私は情けない気持ちでいっぱいになりながら言った。
「とにかく、今すぐは思いつかないから、少し待って・・・」