Chapter2
ところが、私の常識は見事にくつがえされて、
お姉ちゃんはあっけないほど見事に公募の最優秀賞を獲得した。
授賞式には、私も初めてのパーティードレスを新調して参加した。
お姉ちゃんは近所の美容院で着付けをしてもらって、
お母さんの形見の付け下げを着ていった。
賞状とトロフィーを手にして、
アップにしてあらわになったしみ一つない健康そうな小麦色のうなじを軽く下げると、
パッパッとたくさんのフラッシュがたかれた。
式の後には、まるで披露宴のようなパーティーが開かれ、
お姉ちゃんは花婿さんのいない一人主役だった。
ついこの間までただの女子大生だったお姉ちゃんは、
いつ、どこでつけたのか、すばらしい度胸ですっかり落ち着き払って、
にこやかにいろんな人たちとあいさつを交わしていた。
私は、そんなお姉ちゃんをただただ、
離れたところでキツネにつままれた気分で見守っていた。
それから、私たちの生活は一変した。
お姉ちゃんは本当に売れっ子作家になったのだ。
現役の女子大生だったことや、
見た目が結構目を引く容貌に恵まれていたことも功を奏したようだ。
地味な新人作家を飛び越して、半分タレントのようだった。
短編、連載、エッセイ、週刊誌の取材、テレビ出演・・・。
あっという間にお姉ちゃんは時の人になった。
お姉ちゃんの書いた小説はその年の新人作家賞に選ばれ、
直木賞候補にまでノミネートされた。
私はこれまでの家事に加えて、
お姉ちゃんの電話の取次ぎや仕事の雑用もこなすようになった。
作品の資料にする本や雑誌やいろんなパンフレット、
いただきものの整理整頓および処分などなど、
つまりは流行作家のアシスタント、
高校も行かずに職業を持つことになったのだ。
「あんたがいてくれて良かったぁ」
姉はそう言って、機嫌よく笑った。
私は、のんびり闘病生活などと言っていられなくなった。
けれども、不思議なことに、
お姉ちゃんと比例して私も忙しくなるにつれ、いやな発作も起こらなくなった。
ただひたすら物理的に怒涛のような忙しさの中、
目に見えない病気などと言うものは、
入り込む隙間がなくなってしまったようなのだ。
あれだけ用心しいしい、ちょっと熱が出れば学校を休み、
一度発作が起これば一週間は入院し、という生活は、いったい何だったのだろう。
「とりあえずこれで、生活の心配はなくなったわね」
お姉ちゃんはあっけらかんと言いたが、
経理もあずかっている私はそれどころではなかった。
お姉ちゃんの通帳の残高は、
両親が死ぬまでにこつこつためた額の軽く十倍に跳ね上がっていた。
私はひそかに、お父さんが生きていたら、
きっとすっかり面目を失っていただろうと思った。
心配性のお母さんも、お姉ちゃんには常に一目置いていたものの、
これほどの環境の変化にはあることないこと気をもんで、
うるさくあれこれ口出ししてきたに違いない。
ある意味、両親はちょうどいい時に亡くなったのだと思ったほどだ。
日々の生活は、もう、預金残高に気を遣わず、ちまちましなくてよくなった。
以前は、電気やガスのつけっぱなしにもかりかりしたし、
食材一つ買うのも予算とにらめっこだった。
そういえば、両親が生きていたころから、私たちの生活は地味だった。
実はそれは、私の病気が原因の一つだったのだが。
病人がいるということは、常に何かとお金がかかるのだ。
私たち家族は、いつも節約して、贅沢なことはあきらめて暮らしていた。
何か欲しいものがあっても、
買ってもらえるのは誕生日やクリスマスに限られていた。
家族旅行なんて一度もしたことがなかったし、
レストランで外食したことも数えるほどしかない。
どこかへ出かける、ということが
私の体の負担になるのを恐れたからでもあったが、
その縛りがなくても、
普通の家庭にならあるようなささやかな経済的な余裕が、
我が家にはなかったのだった。
その制限が、今やないのだ。
私たちは、仕事の合間にあちこちに旅行に出かけた。
ハワイを皮切りに、シンガポールやベトナムなど、
東南アジアの国々にちょこちょこ出かけては、
優雅なリゾートライフを楽しんだ。
それに飽きたら、軽くヨーロッパ一周。
時間はあまりなかったけれど、
お金で補える部分はたくさんあった。
飛行機は深夜や早朝発着でない、
トランジットもない直行便のビジネスクラス。
現地では評判のいいツアーコンダクターに依頼して、
特別なツアーを組んでもらい、効率的に動いた。
私の体を気遣って組んだスケジュールでもあったが、
それが実現できるだけの経済力が、お姉ちゃんにはあった。
国内も、私が一度も修学旅行に行ったことがないので、
京都はもちろん、北は北海道から南は沖縄まで、
ちょっといいな、と思い立ったら、
日帰りでも一泊でも、あちこちに出かけて行った。
お金の使い道は、旅行だけじゃない。
インテリア雑誌を見ながら、アンティーク家具や、キリムの敷物、
ゴブラン織りのソファを買った。
寒いのが苦手な私たちは、リビングを全面床暖房や二重窓に変えた。
憧れの真っ白なシステムキッチンは、私の家事を心弾むものにした。
服だって、靴やバッグやアクセサリーだって、よりどりみどりだ。
値札を見ないで気に入った服を試着だけして買うなんてことも、
初めはドキドキしたけれど、そのうち慣れてしまった。
有名なケーキ屋さんのめちゃくちゃ高いケーキを、
毎週のようにホールで買って二人で食べたり、
デパ地下でお惣菜を日々の食卓で全品制覇したり。
テレビドラマや映画の中でしか実現しないと思っていた生活が、
すっかり丸ごと手に入ったのだ。
さらにありがたいことに、両親にあれこれうるさく指図されることもない。
3年もたたないうちに、お姉ちゃんはすっかり有名人になっていた。
りりしい顔立ちに完ぺきなスタイル、
ウィットにとんだ会話、洗練された文章。
妹の私から見ても時々どきっとするぐらいかっこいいお姉ちゃんを、
世間はひたすらもてはやした。
雲の上の人のように思っていた芸能人やタレント、
有名人やアーティストとも知り合いになれた。
あの、私たちの崇拝する恵野いのりさんとは、メールのやりとりまで・・・。
お姉ちゃんにとっては、
どんな贅沢よりもこれが一番うれしかったのだと思う。
私も、ひそかにあこがれていたミュージシャンとツーショットしたときは、
天にも昇る心地だった。
そして、私は病院で最先端の治療を受け、
あきれるほど簡単に、完ぺきに健康な体を手に入れてしまった。
医学の進歩が目ざましいのはわかっていたが、
今までの私の十五年間は一体何だったのだろう、と首をかしげたくなるほど、
あれだけどんなに苦しい治療を受けても治らなかった私の心臓が、
まるで新品と取り替えたように機嫌よく動き出したのだ。
医は仁術とはいえ、健康保険の範囲内と、
言い方はいやらしいが、金に糸目をつけないのとでは、
治療方法にもかなり差があるらしかった。