Chapter1
私は松岡ちさと、15歳。
生まれつき心臓の機能に欠陥があって、あまり学校にも行けず、
この春めでたく中学校は卒業したものの、高校には行っていない。
先生たちによると、何とか在籍させてもらえる寛大な高校はあったようだが、
入学式から卒業式まで名前だけで通すのもどうかと思い、
私は家で通信教育の高校講座を受けることにして、高校行きを断念した。
郊外の静かな住宅街の一戸建てに両親と姉の四人家族で、
私はまずまずの暮らしを営んでいた。
ところが先月突然、法事に出かけた帰りに、
両親が二人そろって交通事故で他界した。
お葬式や何やらが終わって家の金庫を開けてみると、
私たちに残されていたのは住んでいた家と、
ゼロがもう一つあったら良かったのに、と思う程度の預金残高だけだった。
そして今、四つ年上のみさとお姉ちゃんは大学に行きながらアルバイトを、
私は家事を担当して細々と暮らしている。
将来に不安がないと言えばうそになるけど、
私はもともと世間の荒波と言うものを知らずに生きてきたので、
具体的に何がどう不安なのか、今一つピンとこないのだった。
姉も、生来強気で不安や愚痴を口に出す人ではないので、
私たちは表向きごく自然に、今までと変わらない生活をしていた。
ある朝、お姉ちゃんがやけに明るい、テンションの高い声で言った。
「これから私は小説家になることにする!」
お姉ちゃんはもともと人生にも前向きで、全てにおいてやる気満々な人だが、
さすがに今回の宣言に私は面食らった。
「小説家って、なることにするって言ってなれるものなの?」
私がそう尋ねると、お姉ちゃんは決意に口を一文字に引き結んでうなづいた。
「なれる。すでに一本書いた。昨日の夕方、出してきた」
私はぼんやりお姉ちゃんを見つめた。
目鼻立ちは彫りが深く眉もきりりと太く、
肩幅が広くて骨太で、長いまっすぐな髪を一つ結びにして、
背は170センチに僅差で届かず、手足がすらっと長い姿は、
髪さえ短かったら、兄と言っても世間に通用するかもしれない。
そのお姉ちゃんが無邪気に夢見る少女のようなことを言うのは、
はっきり言って不釣り合いだった。
「出版社に?」
「公募だよ。『空の小説』大賞」
「空の・・・?」
「空をテーマにした小説ってこと」
お姉ちゃんの目は窓から差し込む朝の光に負けないくらい、
きらきらかがやいていた。
「だからちさと、あんたは私が一生養ってあげるから、安心して闘病しなさい」
私はお姉ちゃんに背を向けて朝ごはんの洗い物をしながら、
気付かれないようにため息をもらした。
お姉ちゃんがいつもファイト満々であらゆることにチャレンジし、
それらをしっかりクリアしてきたことは私も認める。
妹の私が言うのもなんだが、とにかくできた姉だ。
子供のころから自立心が旺盛で、
自分で目標を設定してはこつこつとそれに向かって努力し、
きちんと結果を出す人だった。
習い事のスイミングも、部活動の剣道も、高校受験も、
それぞれお姉ちゃんが自分で設定した目標に見事に到達してきた。
自分で選んだ某有名大学に現役で合格した時も、
私も両親もさして驚きはしなかった。
だからきっと、お姉ちゃんにとっては、
努力さえすれば人生とは百パーセント望みがかなうものに違いないのだ。
私は、病院と自宅以外の場所での経験はほとんど皆無だし、
同年代のほかの子たちと比べてもかなり世間知らずだとは思う。
それでも15年も生きてくれば、
世の中そうそう自分の思い通りになるものではないということぐらい、
うすうすわかっている。
「・・・がんばってね」
私は一応、それだけ言った。
「ああ、でも、どうしよう」
せっかく応援の言葉をかけたのに、
お姉ちゃんはいきなり頭を抱えてソファに転がった。
「何が?」
「審査員にさ、恵野いのりさんがいるのよね」
恵野いのりというのは、売れっ子の漫画家さんだ。
私もお姉ちゃんも、デビュー作から一作も逃さず読み、
新刊を一冊残らず発売日に買うほどの大ファンだ。
「だから?」
「やっぱりさ、辛口の批評も受けるわけでしょう。
あの恵野さんに厳しく批評されたら、私この先やっていけるかなあ」
「でも、全部の作品を恵野さんが読むわけじゃないよね?
ある程度絞って、最終選考ぐらいまで残った作品だけを読むんじゃないの?」
私は一般常識を口にしたつもりだった。
でも、洗い物を済ませて振り返った時、
お姉ちゃんの冷ややかな眼が微動だにせず私を見すえているのを見て、
私のやわな心臓は一瞬凍りついた。
「・・・そんなことぐらい、私だってわかってるわよ」
お姉ちゃんの声は怒りに震えていた。
「あんたは、私の書いたものが最終選考に残らないとでも言いたいわけ?」
何という自信。
私はあっけにとられてお姉ちゃんをまじまじと見た。
いったい、どうやったらこの人に、
理性あるいは常識と言う名のマイナス思考を、
多少なりとも植え付けることができるのだろう。
「そうだね、お姉ちゃんは小説家になるんだもんね。あはは・・・」
その場をとりつくろうのに、私はそう言って笑うしかなかった。