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Rainy  作者: 彼方
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Rainy 前編

ページを開いて頂き、有難うございます。少しでも楽しんで頂けたら、幸いです。

 彼女はゆっくりとこちらに近づいてきて、ふと僕のテーブルの前に立つと、いつものようににっこりと笑って、テーブルにカップを降ろした。その仕草は本当にスムーズで、どこか洗練されている。そのきびきびと動く姿を見ていると、見ているこちらまでもが背筋がピンとしてきそうだ。

 そうして彼女が一礼し、戻っていこうとして、僕はふとその笑顔に違和感を覚えた。いつもあんなに顔一杯に笑って挨拶する彼女が、その日はどこか引き攣ったような笑みを見せているように思ったのだ。全くの気の所為かもしれないけれど、彼女を見ているといつもとどこか雰囲気が違った。

 ふわりと彼女の指に光が煌めくのがわかった。何気なく僕はそれを見つめて、そして硬直した。時が止まったように周囲の景色がぼやけ、彼女の左手の薬指に嵌められたその高価そうな指輪へと視線が釘付けになる。彼女はもう片方の指でふとその指輪を撫でると、すぐにカウンターの奥へと戻っていく。

 僕は冷水を浴びせられたようにコーヒーに手を伸ばすことができずにいた。あの指輪はたぶん、本物だろう。誰か大切な人から贈られた、絆の証だ。彼女にはそういう想い人がいて、確かにその人と想いが結びついたのだと、僕でもわかった。

 この店に来る度に彼女が気になって、密かに惹かれていた僕は、その指輪を見ただけでどこか自分の恋が場違いな気がした。彼女に声を掛けることもできず、中途半端にコーヒーの味だけを舌に染み込ませていく休日の一時。それは本当に意味のない、些末事でしかないことのように感じられた。

 もう、この店に通うのもやめよう。僕は何故かそこで尻込みしている所為か、そう思ってしまった。

 そして、その心の中のつぶやきに呼応するかのように、店内にある洋楽が掛かった。

 イーグルスの『言い出せなくて』だ。シュミットが生んだその切ない名曲は、僕の心の中に、消えることのない涙の染みのように刻まれている。その曲を聴いていると、どうしても彼女と初めて会ったあの日のことを思い出してしまう。

 それは、ある大雨が降っていた夜のこと。僕はこの路地裏の道に迷い込み、その喫茶店を見つけた。

 そして、至極の一杯を、また、至極の笑顔を味わうことになる。

 それでも僕は結局そのイーグルスの名曲のように、彼女に言い出せずに終わってしまうのだ。

 雨の日の、空気は肌寒く、どこか虚しい。

 でも、どこかすっきりと冷たくて綺麗だ。


 *


 僕はびしょ濡れで、土砂降りの街を走り続けていた。仕事の関係である家を訪問した帰り、この路地裏の入り組んだ道に入り込んで迷ってしまい、おまけに傘もなく、困り果てていた。雨の勢いは増すばかりで、街灯もなく、濡れたスーツが肌に張り付き、震えていた。

 そんな時、僕は路地裏に淡く浮かび上がるその店の看板に気付いた。それは――。


 喫茶店『Fine』


 まさに天から救いの手が差し伸べられたかのように、雨宿りの場所が見つかった。僕はすぐにその木製の年季がかった扉を開き、中へと体を滑り込ませた。

 カラン、と小気味良いベルの音が鳴り響く。

 中には暖房が効いていて、秋の肌寒い空気から解放された僕は、持っていたハンドタオルで体を拭きながら、やれやれ、と小さくつぶやいた。

「大丈夫ですか?」

 店の奥から声がして振り向くと、バスタオルを持ったウェイトレスの女性がこちらに走り寄ってきた。おでこを出したそのポニーテールの女性は歳は僕と同じくらいだろうか、活発そうなきらきらした目に、ツヤの良いすべすべした白い肌をしていた。

 とても健康そうで、明るい活発な雰囲気をしたウェイトレスだった。

「これ、使って下さい。そのままだと、風邪を引いてしまいます」

 バスタオルを差し出され、僕は「ありがとうございます」と有難く使わせてもらい、人心地ついた。顔をようやく上げて店内を見渡すと、こぢんまりとした喫茶店で、ソファ席がいくつかと、古い椅子とテーブル、カウンター席があまり間隔を開けずに備え付けられていた。

 店内にはひっそりとした洋楽が掛かっていた。暖色の壁に品のある絵が掛けられ、どこか淡い照明が暖かな雰囲気を作っている。僕はどこかその店が気に入ったような気がした。ウェイトレスへと振り向き、「しばらくここにいさせてもらっても宜しいですか?」と頭を下げながら言った。

「もちろんですよ。予報では、営業時間が終わる頃には雨はすっかり止んでいると思うので、それまでゆっくりしていって下さい」

「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」

 僕はバスタオルを返して 店の中央まで来て、とりあえず客は他に誰もいなかったので、広いソファ席に座らせてもらうことにした。仕事の帰りにとんだ災難だと思っていたけれど、こうして感じの良さそうな喫茶店に立ち寄ってみると、これは逆に幸運だったかもしれない、と場違いなことを思った。

 鞄を置き、スーツを脱いで近くの椅子に掛けて乾かしながら、ふと厨房の方で店員らしき二人の男女の話し声が聞こえてきた。

「お願いだから……」

 どこか嘆願するようなその声は、先程の女性のものだ。涙ぐんでいるような切実な声で、僕は何だろうと顔を上げて厨房の奥を見遣ったけれど、姿は見えなかった。

「わかった。好きにするといい」

 年輩の男性の声だ。そのどこか風格のある声は、もしかしたらこの店のオーナーのものかもしれない。

 それきり声は聞こえなくなったので、僕は気にせずメニューを眺めていたけれど、そこでふとカウンターから先程のウェイトレスがきびきびと現れ、トレイを持ちながらこちらに近寄ってくるのが見えた。

「あ、じゃあ注文をお願いします」

 僕はそう言いかけて、彼女がトレイの上にコーヒーの入ったカップを載せていることに気付いた。まさかとは思ったけれど、彼女は先程よりどこか硬い表情で、何故か声を震わせながら言った。

「どうぞ、サービスです」

 そう言ってコーヒーカップをテーブルに降ろそうとするけれど、コーヒーの水面が揺れて、彼女が緊張していることに気付いた。僕はどうしたんだろう、と彼女の顔を見遣ったけれど、彼女は「熱いうちにお飲みくださいね」と笑っている。

「いや、でも……いいんですか、本当に」

「こういう時に飲むコーヒーこそ、あったまりますよ」

 彼女はそう言ってじっと僕がコーヒーカップを握るのを見つめている。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 すっとカップを持ち上げて、コーヒーに口を付ける。


 瞬間――。


 美味しい、とまず最初に言葉が零れた。それは夜の闇を切り裂く閃光のような、はっきりとした味覚だった。

「美味しい。これは本当に美味しいです」

 僕は何度もカップに口を付けて、自然とうなずいてしまう。

「普段コーヒーなんて飲まないんですが、これは本当に美味しい。こういうコーヒーも、あるんですね。驚いた」

 彼女はふっと体の力みを解き、その瞬間、花が咲いたような満面の笑みでうなずいてみせた。

「ありがとうございます。その言葉だけでも、出した甲斐がありました」

 彼女が震える指を組み合わせ、ぎゅっと握るのが視界の端に見えた。僕はコーヒーを一口一口味わいながら飲み続け、すぐにカップを空にしてしまった。ブラックのままで飲み切るなんて、人生の中で初めてかもしれなかった。

「ごちそうさま。またこのコーヒー、飲みに来ますよ」

「ありがとう」

 彼女がそう言って、ふわりと、雲が空の上で虹を描いて流れたように、澄んだ笑顔が浮かんだ。その笑顔は本当に――こう言っては何だけれど、どんな絵画よりも、ブラウン管の中の女性よりも、とても凛とした、魅力的な笑みだった。

 僕は思わず彼女の笑顔を凝視し、その表情が胸の奥にどこか痛みを伴って焼き付くのを感じた。

 彼女のその笑顔が体に染み渡って火照りを感じさせた時、彼女はポニーテールを揺らして慣れた仕草で礼をした。

「それでは、ごゆっくり」

 彼女はどこか嬉しそうに踵を返し、カウンターへと戻っていった。僕は彼女の後姿を見送りながら、どこか胸の奥が脈打って、鼓動が高鳴っていることに気付いた。そんな自分に気付くと、ふと苦笑してしまうのだった。


 *


 すっかり雨は止み、来店してから三十分ほどで僕は帰り支度を済ませ、レジの前に立つことになった。

「さっきのコーヒー、本当に美味しかったです」

 僕が笑いながらそう言うと、ウェイトレスは声を上げて笑い返して「またどうぞ、お立ち寄りくださいね」とカウンターを回って扉に手を掛けた。

「え……あの、やっぱりお代を払いますよ。あんなに美味しいコーヒーをごちそうしてもらったんだから」

「いいんですよ。もうお代以上のものを受け取らせていただいたので、十分です」

 僕はもう一度頭を下げ、「それでは」と彼女が開いた扉の向こうへと進んだ。彼女はゆっくりと扉を閉め、再びひんやりとした秋の肌寒さが僕を取り巻いてくる。

 でも、今度はあまり寒くはなかった。体の内側でまだ熱が籠っている。そして、その温もりは、コーヒーの熱さだけではなかった。心の火照り、とでも言おうか、とにかく僕はどこか上機嫌で、もう一度その店の看板を見遣った。

 そうして少し目を瞠ってしまった。


 喫茶店『Fine』

 営業時間 午前9時~午後8時


 僕はすぐに自分の腕時計を確認する。もう九時三十分を過ぎていた。まさかこんなにも雨宿りに来た客を気遣ってくれるなんて、この店は本当に暖かい場所をお客に提供していた。

 少しぐっときながら、僕はもう一度来よう、と密かに心に決めてその店を後にした。店の中に流れていたイーグルスの『言い出せなくて』だけが、僕の心に消えない雨の染みのように刻まれていた。僕は路地裏の道を再び歩き出し、携帯のライトで道先を照らしながら、案外早く大通りに出た。

 その喫茶店の名前は、まさしく僕の心に晴天をもたらした。それは彼女の笑顔の晴れ晴れとした清々しさから来ているのかもしれなかった。


 *


 それから僕は何度もその店を訪れ、休日の度に彼女の笑顔が弾ける様を密かに見守っていた。その日からはあまり話をすることはなく、僕は今日こそは、と勇気を奮おうとするけれど、結局その瞬間が訪れてしまった。

 彼女の指に、高価な指輪が嵌められ、確かに僕は自分の想いが線路を隔てた向こう側に乗り出すことができないことを悟ってしまった。

 なんて臆病で、馬鹿らしいのだろう。僕はこんなにも彼女の優しさに助けられたのに、自分は何一つとしてできなかったのだ。

 それが悔しくて、唇を噛んだ。苦い味を、コーヒーのさらに苦い味で消し去ろうと、カップを口に運んだ。そして、コーヒーを飲むと、隅々までその安心感が広がっていく。 

 でも、僕には二回目にこの店を訪れた時から、微かな違和感を感じている。

 何だか、一番最初に飲んだコーヒーの方が、星の流れる速度よりも速く、僕の心に届いた気がしたからだ。

 彼女の父親であるこの店のオーナーが淹れるコーヒーは、僕を変えてしまうほど、とても甘く、苦い、不思議な味を持った飲み物なのだ。

 それは今の今まで、僕の心の核心となっていた。でも、もうそれも終わりなのだ。

 コーヒーを飲み終えると、僕はそのまま席を立ち、ゆっくりとレジへと近づいていく。すると、気付いた彼女がすぐに僕の前に立ち、会計をしてくれる。僕は彼女の素早い指先の動きを自然と目で追いながら、何度も話し掛けようかと迷った。

 そして、イーグルスの名曲の通り、僕は何も言い出せなくて、そのまま店を出る。

 店を出る時に、オーナーである彼女の父親が、カウンターから顔を覗かせ、「ありがとうございました!」といつもの熊のように豪快な体つきで声を上げ、僕を送り出してくれた。

 僕は閉まってしまったドアを見つめた後、その看板をもう一度眺めた。


 営業時間 午前9時~午後8時


 僕はその二つの時間を左右に何度も行き来して確認した後、ふっと笑い、店を後にする。

 僕も、彼女の優しさを何度も思い描くのをやめて、新しく前へ踏み出そう。

 そうとても矛盾したことを考えながら、僕はコーヒーの残り香を彼女の香りに重ねながら、路地裏を抜けて、元の大通りに――元の人生の途上へと戻っていく。

 雨の気配はなかったけれど、涙の気配はどこかにあった。



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