霧の夜に会えるから
僕の村には『霧の夜には死者が村を徘徊している』という迷信や言い伝えや都市伝説の類のものがあった。
それは小さい頃誰もが親から話され恐怖に震え上がっただろう。その話をまた思い出す日がくるとは夢にも思わなかった。
高校三年になった夏、受験の事で親と喧嘩して家を飛び出した霧の夜、村で見かけたことがない女の子を見つけた。
高校生の僕と同じぐらいの年頃に見えて、髪はだいぶ長く白いワンピースを着ていた。
霧の夜の見かけたことのない女の子、これは都市伝説の死者かもしれないと思った。
暗い公園の街灯に照らされたベンチに座って、下を見てた。僕はゆっくりと暗いぼんやりとした道を歩いて近づいて行った。
だんだんと空気が重くなるようだった。
少しずつ、一歩ずつ慎重に近づいていく。
重く張り詰めた空気の中少し汗をかきながら進む。
よく見てなかった足元の木の枝を踏みパキッという音と共に折れる。張り詰めた一本の糸が切れたようだった。
『誰なの』
女の子は即座に僕のいる方向を見て言った。
霧でよく見えないけど、不安そうな顔をしてたと思う。ゆっくりと女の子の方に歩きながら言う。
『僕はこの村の住人だよ。君は?』
『あなたが知る必要なんてない。』
即答だった。あまり話したくないのかもしれない。
生きてた頃の記憶を思い出すから。
なんにせよ幽霊に興味があった。
『君の隣に座っていいかな?』
答えは沈黙だった。沈黙は許可と認識しら僕は隣に座る。きっと二人で星空が見えたのだろうが、あいにくの霧だった。
隣に来て、初めて気づいた。
この少女は今にも倒れそうなほど細く、白い。
でも目だけはしっかりと僕を見ていて、強い生気を感じた。
『君が自分の事を話したくないなら僕の話を聞いて』
また沈黙だった。さっき僕を見ていた目は下を見ていて、なんか少し緊張しているみたいだった。
『僕は学校の成績が悪くて、もう高校3年の夏になるんだけど進路も決まってなくて親に怒られて』
『勉強はそんなに大切?』
女の子が唐突に僕の言葉を遮って質問を投げかける。
さっきまでの生暖かい空気から張り詰めた少し涼しいような冷たいような空気へと変わった気がした。
ゴクリと唾を飲んだ。
『大切かどうかはわからないけど、一応、僕を育ててくれている親に対して示しがつかないから、やらなくてはいけないと思う』
必死に、慎重に言葉を選んだ結果の答えだった。
嘘も偽りもない、僕の本心だった。
『人は産まれた時から灰になることが約束されてるの』
少女は急に語りだす。僕の予想もしてなかった突拍子もない話を。
『霧がかかったみたいにぼんやりとした未来には必ず灰になることが約束されてる。どんな人も、必ず。』
なにか大切な話の気がした。僕はうんという曖昧な相槌しか打てなかったけど、しっかりときいてた。
『今頑張っても明日には灰になるかもしれない。そう考えると努力とか勉強とかってなんなのかなって思う』
この女の子は何を思って、こんなことを言ったのだろう。何がこの人をここまで思わせるのだろう。
見た目では僕と変わらないぐらいの年なのに。
『今日はおしまい。霧の夜にまた会いましょう』
多くの謎を残してはそう言ってベンチから立ち上がり霧の中に消えてった。
また会えるといいな、不思議とそう思った。
無意識に惹かれていく、底の見えない女の子だった。
不快な目覚ましの音で目覚める。
薄い毛布を横にのけてカーテンの間から漏れる光に目を細める、なんてことのない普通の朝だった。
僕は中学生から朝ごはんを食べたことがない。
朝ごはんを食べるなら寝ていたいとおもうからだ。
雀が鳴く、同級生達が肩を並べて歩く、賑やかな歩道を一人で歩く。いつものことだった。
学校は刑務所となんら変わらないと思い始めたのはいつの頃だろうか。
退屈で怠惰な日々。飽き飽きしていた。
心はいつでも霧の夜を求め、今日もつまらん教師の戯言を聞くのだった。
1週間ほど経った。
学校から帰ってきた僕はいつものようにすぐ寝た。
この世界の退屈な時間をワープするかのように一瞬に過ごせる睡眠が僕は好きだった。
どんな夢を見るとか期待はしない。
時間が潰れればそれでいい。
イヤホンで音楽を聴きながら眠りに落ちていった。
どのくらい経ったのだろう。部屋全体は暗く、日は落ちていた。もう暗いのでカーテンを閉めなければいけない。
そう思って窓の方へ行く。
驚いた。歓声を上げた。
『霧の夜だ』
気づいたら独り言には大きすぎる声でそう言っていた。
あの日と同じ公園のベンチにあの人は座っていた。
『来ると思ってた』
少し微笑んで少女は言った
『ずっと霧が待ち遠しかった』
言った瞬時に言ってしまったとハッとした。
これではまるで僕が少女にずっと会いたがっていたように思われてしまう。己の言行を深く後悔した。
『私もずっと待ってた』
不意をつかれたその言葉に体が一瞬冷たくなる。
驚いた、その一言に尽きる。
体が火照る。少し視界が明るくなった気がした。
『実は今日君が来ないんじゃないかって少し不安にもなった。前回、私は無愛想だったから』
風が吹いた。2人は風の中、無言で見つめあった。
無口で無愛想に思えた少女がまさか微笑みながらこんなことを言うなんて。言葉を失った。
『とりあえず座ったら?』
ベンチの端に体を寄せてはまた少し微笑む。
僕は自分が立っていることすら忘れていた。
あの日と同じぼんやりとした夜に少女と肩を寄せあって座った。たまに触れる肩と肩でお互いの体温を感じていた。今夜は楽しい話ができそうだった。
事実、時間を忘れるほど話をした。
勉強とは何なのか、学校とは何なのか
話せば話すほど二人の意見は重なった。
強いシンパシーを少女に感じた。
『君は聞かないの?』
唐突な質問は彼女の癖のようだった。
僕はちょっと間を置いて『なにを?』と言った。
『私がなんで霧の夜にしかいないの、とか』
少し俯いてゆっくりとそう言った。
僕は聞いていいものなのかとためらった。
彼女が隠したがってるものなんじゃないか。
それを聞いた時、彼女はどんなら行動をするだろうか。今までの関係のままいれるだろうか。
木がザワザワと揺れる。葉が落ちる。
『きかない』
少女は少し意外だという顔をして曖昧な返事をした
返事には元気がなかった。
『また霧の夜に会いましょうか』
再びそう言って歩いて僕の視界から消えた
言葉ではうまく表せないけど今日は前よりも消えるようにいなくなった。
次の日の朝、僕を目覚めさせたのは不快な目覚ましではなく、母親の声だった。今日は休日だからね。
『あんた、今日からアルバイトしなさい』
寝起きの僕にそんなことを言われても困る。
そもそもどこでバイトをするのか。
顔に現れていたようだった。
『やるかやらないかすら聞いていない。村の豪邸のお手伝いさんが足を怪我してしまったらしく、掃除の人手が足りないらしい。お前が行け。』
言わなくても伝わる家族らしさが嫌だった。
相も変わらず上から目線の命令口調、もう腹も立たない。
僕が返事をする前に母親は部屋からいなくなった。
嵐のような人だった。
母はいつもそうだった。
『おまえなんか産まれてこなければ良かった』
そのような言葉を発してはすぐに逃げるようにいなくなる。父と離婚してから傷つくのが怖いのだろう。
幼い頃からの反面教師だった。
村に豪邸は一つしか無く、場所もわかっていた。
着替えて、家の外に出る。
外のモワッとした空気に触れ、汗をかく。
たまに吹く風だけが僕を癒すのだった。
村の豪邸に着く。周りを塀で囲まれたとても大きな家だ。インターホンを押す。しばらく間がいてドアが開く。背の高い少し老けた男が見えた。
『君が例のバイト君かね?』
『はい。そうです。』
『ああ、そうか。よろしく頼むよ。』
そう言って何を頼まれたか謎のまま、どこかへ行った。
どうすれば良いのだろうとオロオロしているうちに地味な服を着たおばさんに声をかけられる。
『あなたがバイト君ね。仕事の内容を教えるから来て。』
オロオロしたまま曖昧な返事をして玄関で靴を脱ぎ、ついていく。
床は綺麗なツヤのある木でできていて、風情がある感じだった。
『まず雑巾を濡らして、水拭きしてね。これ雑巾。』
『ど、どこを水拭きですか?』
『うーん、部屋の中とか階段とか。』
『わかりました。』
木目にそって水拭きするんだっけ?わからないけど丁寧にやろう。そう心がけた。
ずっと低い姿勢のままなので膝や腰が痛くなる。
セミの鳴き声が僕を煽るように感じた。
水拭きは順調に進み、階段の上の扉が閉じてる部屋へ掃除へ行こうとする。
『ああ、そこはやらなくていい。』
おばさんの声がなんだが急に冷たく聞こえた。
表情もどこか暗いと言うか、深いという風に見えた。
『そこはやらなくていい』
呟くように2度繰り返した。
なんて返事をしていいのかわかんなかった。
あの部屋はなんなのだろう。なぜおばさんはあんなに冷たい表情をしたのだろう。
そう考えてるうちに時間は過ぎていった。
『これで終わり。お疲れ様。』
おばさんは明るい表情に戻っていた。
『お金はお母さんに渡してるからね。』
続けてそう言ったが、母とは話したくなかった。金など貰わなくてもいいと思った。
『それにしても外は霧みたい。気をつけてね。』
『霧って言いました!?』
自分でも驚くほど大きな声が出ていた。
『い、言ったけど?』
『そうですか、ありがとうございます!』
そう言って外へ飛び出す。すっかり暗くなった外を見渡す。
『うん?』
思わず声に出してしまった。
豪邸の二階の扉が閉じてる部屋の窓が開いていた。
まるで霧を見ているかのように。
僕は怪しく思った。なぜ霧を見る必要があるのか。
この村には霧の夜には死者が村を徘徊してるという恐ろしいとも感じ取れる言い伝えがあるというのに。
バタンと窓が閉じる。いったいなんだったのか。
自宅に戻ろうとして豪邸に背を向けたその瞬間だった。豪邸の扉が開いた。不審に思って振り向く。
霧の夜の少女がそこには立っていた。
息が詰まる、目をひらく、時間が止まる。
そんな風に感じた。恐らく互いに。
少女は少し諦めたような、悲しそうな顔をして僕に言った。
『今日は一緒に行こうか』
またしても僕は曖昧な返事しかできなかった。
『実は私末期癌でね、もうこの先長くはないんだ』
少女の小さな口がゆっくりと動く。
綺麗な細い髪が風に揺れていた。
僕は黙って聞いていた。
『私がこんな風に霧の夜に出歩くのを許してくれるのも、すべてこの先長くないから自由にしてくれてるんだよね』
独り言みたいだけど、確かに僕に語りかけていた。
そうとわかっていてもどう答えていいかわからず、黙っているだけの自分が憎かった。
砂利道を歩く二人の足音がうるさいと感じた。
体が濡れているのは霧のせいなのか、冷や汗なのか分からなかった。
『霧の夜に出歩くのは、将来の下見だったんだけどね。いつの間にか君と話すためにすり替わってしまったね。』
そう言って少し笑った。
僕は堪えきれなくなって泣いてしまったかもしれない。視界がぼやける。
いつか話した『どんな人もいつかは灰になる』とはまさに自分のことだったとは露知らずに、月並みで曖昧な相槌を打った僕が情けなかった。
『泣かないで。ほらいつもの公園に着いた』
僕はいつもの公園に着いたなんて気づかされた。
きっと頭が正常に働いてない。
少女は公園につくなり静かにゆっくりとこう言った。
『君と会うのは今日きりにしようか。』
突然の言葉にすこし怯んでしまったけどすぐに僕は駄々をこねる子供みたいに嫌だ嫌だと泣きながら連呼した。
静かな夜の村には僕の声だけが響いてた。
『静かにしてよ』
少女がつめたいともとれる言い方で僕をなだめる。
彼女の覚悟が手に取るようにわかった。
『これ以上会ってもお互い辛いだけ。会わなくても辛いけど、会った方が辛いと思うの』
今度は優しい声で僕に言う。
『だからもう今日で、おしまい。』
しばらく悩んだ末に僕は彼女の確固たる意志を尊重しようと思ってその言葉に首を縦に振った。その後なにを話したかは話はよく覚えていない。
そこからの日常はとても辛いものがあった。
お手伝いに行ってお互い近くにいるのに会わない。
霧の夜も彼女と会わない。
どれだけ苦しいか。僕の体はあの声を、肩と肩が触れ合った温もりを求めていた。
ある霧の夜、僕は堪えきれなくなった。
辛いのは僕だけじゃない。
お互い辛いとあの日君は言った。
もし彼女もこんな気持ちなら、今あのベンチに彼女は一人孤独に座っているかもしれない。
そう思って、家から飛び出した。
公園への道を風を切りながら走った。
公園に着いて驚いた。
公園の砂にベンチまで続く足跡がついていた。
やっぱり、彼女もいるんじゃないか。
そう思ってベンチを見たけどやはりいなかった。
それでも、恐らく君のいたであろうベンチに座りたい。
そう思った。
いつものように少し濡れてるベンチに座る。
ため息をつきながら、視線を地面に下ろす。
何か文字が書いてあった。
それは恐らく彼女が書いたものだった。
『霧の夜にまた会おう』
そう書いてあったのだった。
『これでじいちゃんの初恋の話は終わり。』
少し長かったのか、眠そうな孫に語りかける。
『その後、おじいちゃんはその女の人に会えたの?』
無邪気な目が不安で揺れている。
『あれから霧の夜は毎日、あの公園に行ってるけど会えないね。会えるなら、会いたいけどね。』
そっかぁ、と相槌をうった孫の目は悲しみでいっぱいだった。
『どっこいしょ』
すっかり重くなってしまった体でソファーから立ち上って窓を見る。
『今日は霧の夜だな。どれ、行ってくるか。』
腰が曲がって歩きづらくなってしまった。
『おじいちゃん、今日こそ会える?』
孫が期待したような表情で問いかけてくる。
『わからないね。でもたぶんもうすぐ会えるんだ。会う場所は霧の夜じゃないかもしれないけどね。』
『そっか!良かったね!おじいちゃん!』
自分のことのように喜ぶ孫を愛おしく感じる。
さあ、今日は会えるかな。
今日あの場所で会えなくても近いうちに会える。
流石にわかるよ。自分のことだもの。
でも『霧の夜にまた会う』約束は果たせないだろう事だけが、唯一の人生の後悔になるだろうね。