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 私は夢を見ていた。


 何かに追われる夢。そう、これは夢。私の夢……。


 枝葉の擦れる音、幹の軋む音、地を蹴る音、叩く音。しんとした夜の空気の中、そんな音だけがしていた。

 静寂の中に響いていたわけではなく、けれど、微かというわけでもない。

 唯々、音がそこにはあった。


 私にあるのは恐怖だけだった。

 

 何に追われているのか、何故追われているのか、何もわからなかった。

 恐怖に震え、早く終わって欲しいと願うだけで、私は逃げることしかできずにいた。


 そう。私は逃げていたのだ。


 何も考えず、震えてさえいれば、状況がよくなると思っていたのだ。

 こんなもの、すぐに終わる、平和な日常が返ってくると、私は思っていたのだ。


 白い髪が揺れた。雪のように真っ白な長い髪が揺れた。


 逃げているのだから当たり前だ。

 フードから漏れ出る髪が風に流れ、夜の闇に白い線を描いていた。胸部に当てた分厚い革は硬く、しかしその硬さは安心よりもむしろ私に不安を与えた。

 革で防げるものなど、あまりない。それは妨げるものばかりだった。

 赤子の手はその硬さの前には為すすべなく、追っ手の攻撃にはその柔らかさ故、容易に引き裂かれてしまう。

 こんなものなければいいのにと私は思った。



 耳を澄ませば、追っ手の息遣いすら聞こえるほどに状況は切迫していた。


 私はこの恐ろしい夢から早く覚めることを願った。


 

 いつまでこの悪夢は続くのだろう。いつになったら、日常は帰ってくるのだろう。


 そうやって、いつまでも受け身になっていた。流されるままに、自分は何もせず、ただ待っていると、目まぐるしく動いていた景色が突然止まった。


 月明かりが眩しい。森の外に来たのかもしれない。けれど、樹や苔のような、森独特の香りがまだ残っていた。

 どうやらここは、森の端っこ。森と草原の境目のようだった。


 樹の枝にとまり、静かに見下ろす。樹の下には真っ黒なオオカミがいた。周りを見渡すと闇夜に紛れるようにして、森の木々の間からもチラチラとその姿が見えた。


 オオカミの額には真っ白な角が生えていて、それはどれも、私の方へ一直線に伸びていた。


 私は改めて、恐怖を感じた。

 寒くもないのに手足が震える。手足どころか、全身が震える。

 筋肉の繊維の一本一本が私の命令を無視して、一目散に逃げ出そうとしているかのようだった。


 完全に囲まれていた。

 樹の上と、樹の下。そこには確かに距離はあるけれど、その包囲網から抜け出すことは容易ではない。


 樹の下のオオカミがガリガリと樹の幹を削る音が聞こえた。その仕草はまるで、獲物を狩る前に爪を研いでいるように見えた。

 私の皮膚を、肉を、骨を、簡単に切断してしまえるだろう大きな鋭い爪を、さらに鋭くしようというのだろうか。


 再び、視界が動いた。景色が上へ、上へと流れていく。それが、落下しているのだと気付いた時には、既にオオカミは目と鼻の先にいた。


 月明かりに照らされて反射するギラついた瞳。グルルと唸る喉。涎の滴る口に、その合間から見える牙。


 ああ、もうすぐ、もうすぐ私は食べられてしまうのだ。



 けれど、いくら待っても、オオカミは襲ってこなかった。ただ、私の周りを取り囲んでいるだけで、近づこうとはしない。


 私は樹の根元へと座った。


 目の前で、真っ白な髪が揺れる。風に吹かれて、サラサラと揺れる。


 手を伸ばしても届かない。私の手は短く、目の前のものすら掴めない。

 泣き叫んでも止まってくれない。ただ、悲しげな赤い瞳が見えた気がした。


 突然、目も眩むような眩い光に包まれて、私は一人になった。

 樹の根元で、ただ独り。ポツンと独り、取り残された。

 オオカミも、揺れる真っ白な髪も、嫌いだった革の鎧も、何もかもが消えていた。





 これは夢。私の夢。幼い頃の、私の夢。



 私は病気がちで、多くの時を病院で過ごした。だから、ほとんど学校には行っていない。

 入学式には出られても、その次の日には入院している。

 クラス替えがあっても、自分がどんなクラスにいて、どんなクラスになったのかを知らない。

 転校生の顔、自分の席の位置、移動教室の場所。何もかもがわからない。


 そんなのだから、学校には私の友達はいなかった。


 でも、私には家族がいた。父と母がいた。

 病気がちで、入院ばかりしている私のために、毎日、毎日働いて、けれど、私が寂しくないように、ちゃんと会いに来てくれて……。

 そんな父と母が私は大好きだった。


 病院で一人の時はとても暇だった。そんな時は決まって本を読んだ。

 学校に行けない私だけれど、二人の役に立てるように、いつか恩返しができるように、たくさん、たくさん、本を読んだ。


 二人はそんな私のために、たくさん、たくさん、本を買ってくれた。『えらいね』って褒めてくれた。『次はどんな本がいいかな?』って悩んでくれた。

 私はとてもうれしかった。


 本は、私の友達だった。


 けれど、そんな日々は永遠には続かない。

 母が倒れ、父も倒れ、私の前からは誰もいなくなった。


 両親が死んで、親戚の叔父さんが面倒を見てくれることになった。けれど私は独りだった。

 叔父さんは時折、事務的に様子を見に来ては、数分でいなくなってしまう。文句を言える立場ではなかったけれど、叔父さんとは仲良くできなかった。


 誰もいない病室。私以外に誰もいない病室。

 私は寂しかった。独りになりたくなかった。私のせいで誰かが死ぬのは嫌だった。

 けれど、私は独りになった。私のせいで二人は死んでしまった。



 そして、私も死んだ。


 最後はとても苦しかったのを覚えている。

 血を吐いて、息が出来なくて、必死にナースコールを鳴らそうともがいて。でも、届かなくて。

 ベッドから落ちて、痛くて、意識が段々遠くなって、気が付いたら死んでいた。





 次に目覚めた時、私は独りじゃなかった。私は生まれ変わっていたのだ。


 前とは真逆の真っ白な髪。澄んだ血のような真っ赤な瞳。

 何処も痛くなかった。風邪だって引かなかった。私の身体は、健康そのものだった。


 父と母がくれた、私へのプレゼントだと思った。

 二度目の人生は、今までにできなかったことができるように、何もかも違う身体を貰えたのだと思った。


 今度はちゃんと恩返しをしよう、迷惑をかけないようにしよう、そう思った。


 二つ目の人生では、私の家族は、母親と二人だった。

 家はなく、私はいつも母親の背中や胸にしがみ付いて移動していた。常に変わる景色は新鮮で、全てが初めての経験だった。


 樹の上は風が気持ちよく、葉の渋い、青臭い香りが鼻を通して、私の脳を刺激した。


 葉々は生い茂り、虫が美味しそうに葉を食べていた。けれど、葉は硬く、小さな虫の身体の何処から、そんな力が出ているのだろうと思った。それに、葉は苦くて、よくこんなものを食べれるものだ、とも思った。


 枝から枝へと飛び移ると、枝はよく撓った。私の腕よりも細い枝でさえ、私たちが乗っても折れることなく、撓むだけだった。


 一面の葉々の隙間には、よく見ると木の実がなっていて、その色、形、模様、匂い、みんな違った。

 甘い香りのする真っ赤な丸い木の実は、一日中舌が痺れるほど酸っぱかった。

 臭いの薄い瓢箪型の緑の木の実は、舌が解けてしまいそうなほど甘かった。

 いろんな味を体験した。


 樹の幹には苔が生えていて、モザイク模様になっていた。触ってみると湿っていて、少しヌメッとしていた。


 地面に降りると、しっかりと支えられているという安心感があった。

 錆びた鉄のような匂い。甘いような酸っぱいような生ごみのような匂い。天日干しした布団のような匂い。そんな、たくさんの匂いが混ざった、土の香りが鼻の奥をくすぐった。


 毎日の発見が、本には書いていない実際の体験が、私はそんな毎日がとても楽しかった。


 けれど、これも、長くは続かなかった。


 私たちはいつも得体のしれない何かに追われていた。旅の毎日は、逃走の日々だったのだ。

 どうして旅をしているのか、どうして父親がいないのか、どうして樹の上を移動しているのか、私は知らなかった。いや、知ろうとしなかった。



 そしてあの日、私たちはとうとう追い付かれた。


 私は何もできなかった。……違う。何もしなかったのだ。

 母親が解決してくれると、そう思って、他人任せにして、自分は何もせず、ただ母親にしがみ付いていただけだったのだ。


 あの時私は何ができただろう。母親にしがみ付く以外にいったい何ができただろう。

 役に立つと思って見につけた知識も、実際に目にして、触って、嗅いで、食べて、そうして得た経験も、結局は自分が使おうと思わなければ無意味だった。

 私があの時考えることを止めなければ、溜めこんだ知識を何か一つでも使っていれば、結果は変わっていたのかもしれない。

 


 実際、母親は私が望んだとおり、何もしなくても問題を解決してくれた。私の願いは母親によって叶えられたのだ。

 けれど、私の前から母親はいなくなった。


 またやってしまった。私のせいで大切な人が死んだ。恩返しは? 迷惑は? 誓ったことは何も守れていなかった。


 結局私は二つ目の人生も失敗してしまった。


 そして私は、また、独りになった。



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