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牧場の朝

 ボンヤリとした焦点の定まらない目で私は天井を見た。木でできた茶色の天井。


 私はよくこの天井を見ていた。見つめていた。


 次第に焦点が合っていき、脳が覚醒していくのがわかる。

 木目がハッキリと見え、この木がどれ程の年月生きていたのかがわかる。

 天井は真っ平らではなく、木目に沿ってボコボコしているし、板の継ぎ目も窪みがある。色は焦げ茶色でボロボロ、お世辞にも清潔感があるとは言えなかった。


 それでも私の家だ。


 手を伸ばせば届きそうな距離にある天井に頭をぶつけないよう気を付けながら、私は起き上がった。

 私と天井の距離は近い。それはもう新婚夫婦のような関係だ、などとふざけては見たもののあまり面白くない。

 私は一人溜息を吐いた。


「はぁ……」


 私と天井の距離が近いのは私が大きいからではなく、家が小さいからというわけでもない。

 ましてや、新婚夫婦の様に愛し合っているからなどという理由でもない。

 果たして、新婚夫婦が愛し合っているかというと、そうでもない場合もあるのだけれど、それは今は置いておくとして……。


 今言っている『距離が近い』というのは心的距離の事ではなく、物理的な距離の事である。だから、愛し合っているからとか、そういうのは論外も論外。意味不明なのだ。


 そもそも、天井に人を愛するという感情があるかどうかが疑問だけど、それは私の与り知らぬ所で……。

 それはそうだろう。私には天井の言葉も、表情も、心もわからない。何を考えているのかわからないのだから。


 わからないのならば、それは『ない』ということなのではないだろうかと、そう結論付けるのは時期尚早である。

 確かに、一方的な愛は愛とは呼べないのかもしれないけれど、そういう事ではなくて。

 あるかどうかもわからない。つまり、それを認知できないという事だ。これは『ない』わけではなく、『わからない』のだ。

 確かに、『ない』ものの証明は難しい。『ない』といくら唱えたところで、それは認識できていないだけだと反論されるからだ。

 えーと、何の話をしてたんだっけ?


「レーヌ、まだ寝てるの?」


 ノックもせず、そんな声が下から聞こえてきた。

 まぁ、既に扉の内側にいるのだからノックをする必要もないんだけど。


「……天井って私を愛しているのかな?」

「なに? 寝ぼけてるの? さっさとしないと親父に怒られちゃうよ!」

「い、今降りるー!」


 私は我に返り、いそいそと二段ベッドから降りた。寝ぼけていると変なことを考えてしまう。私の悪い癖だ。

 未だボンヤリする頭を覚ますように両手でパシリと頬を叩いた。……ちょっぴり痛い。でも目は覚めた。

 さっきの事は忘れよう。覚えていたって恥ずかしいだけだよね。

 うん。…………はい! 忘れた! ワタシハナンニモオボエテイナイヨ? 頬っぺたが赤いのだってさっき叩いたからなんだからね?



 変なことを言ってしまったというのにロワはどこ吹く風といった様子で待ってくれていた。

 ドアの前で腕を組み、小さな体躯を精一杯反らせて、いかにも『僕は待っているぞ!』という感を出している。

 でも、クリクリとした大きな茶色い目に少しツンツンとしているこげ茶色の髪、その幼い顔立ちと相まって、何処か可愛らしい。


(そんなこと言ったらきっと怒るだろうなぁ……)


 別にからかってるわけじゃなくて、褒めてるつもりなんだけど。

 ロワも男の子だからね。可愛いって言われるのは嫌みたい。


「もう! 失礼しちゃうよ!」


 ぷくっと頬を膨らませて、私に言ってくる。

 やっぱり、私の考えていたことが気に入らないんだと思う。

 口に出していないのに、なんでわかっちゃうのかな?


「別になんでもないよ?」

「ふん! どうせ、可愛いとか思ってたんでしょ?」

「そ、そんなことないよ?」

「まったく、何年一緒にいると思ってるの?」

「えっと、十年?」

「そう、十年、十年だよ? 生まれた時から一緒なんだから、わかって当然だよ」

「うーん、わかっちゃうのかぁ」



 私とロワの付き合いは長い。付き合いというのも他人行儀だけれど……、一応は家族だ。しかも双子ということになっている。殆ど生まれた時から一緒というわけ。

 今年でもう十年になるのかぁ。

 これだけ付き合いが長いと、それはもう、さっきの様なことは間々あるわけで……、その度に私は恥ずかしい思いをする。

 この微妙な空気をロワは感じていないのかな? 私だけが感じているというのは実に不平等だと思う。


「やっぱり! ほら行くよ!」

「あ、ちょっと、待ってー」


 ロワを追いかけて私は部屋を飛び出した。



 私は寝起きが悪い。そういう体質なのだろうと思う。


 以前の生活は好きな時に起きて、好きな時に寝る、そんな生活だったから、それも影響しているかもしれない。

 けれど、朝が早い牧場で生活を始めて既に十年で、手伝いを始めたのは五歳の時だから、それでも五年は早起きをする生活をしていることになる。

 だけど、それでも慣れないのだから、それはもうそういう体質なのだと納得することにした。

 とはいえ、直したくないわけではない。毎日のようにあの空気を味わうのも嫌なのだ。



 牧場の朝は早い。

 私たち家族は牧場を営んでいるため、朝早くからすることが山ほどあるからだ。

 前の生活とは大違いだね。

 飼っている動物は牛、豚、鶏、山羊、羊、馬、犬、熊と様々で、家族みんなでお世話をしている。


 私とロワの朝の担当は鶏の卵回収。

 私たちは鶏小屋に向かった。


 鶏小屋は大きな枝が数本差してあるだけの殺風景な小屋だ。

 中には三十羽ほどの鶏がいて、日々卵を産んでいる。

 床は土になっていて、そこに卵や糞が放置されているんだけど、この卵、早く回収しないと鶏が割ってしまうのだ。

 何故なのかは知らないけど、突いたり、踏んだりして兎に角割ってしまうのだ。

 自分で産んだというのに割ってしまうだなんて、もったいないというかなんというか……。

 覚えていないのかな? 鶏は三歩で忘れると聞いたことがあるし、そういうものなのかもしれない。

 ま、まぁ、割った鶏と産んだ鶏が一緒というわけでもないよね?


 そんなわけで、起きたらすぐに卵を回収に行くのだ。


 放置されている卵を回収したら、次は放置されていない卵だ。しゃがんでいる鶏を持ち上げては、その下に卵があるかどうかを確認する。卵があれば回収して、無ければそのまま鶏を下ろすだけ。

 温めている卵を回収するなんて可哀想じゃないか、なんて思ったこともあったけれど、この卵は無精卵。温めたところで孵ることはない。

 それに私たちの生活が懸かっているのだから、そんな悠長なことを言ってはいられない。


 私はロワと協力して卵を回収していった。


 もう少し財源に余裕があればもっと効率的な小屋を、と思うのだけれど、無いものは仕方がない。

 数年後、余裕ができたら改築を提案してみようと思う。


 今日の収穫は二十八個。そのうち一個は割れていた。まずまずの成績だ。


 鶏は今の時期、ほぼ毎日卵を産むのだけれど、それも『ほぼ』毎日だ。月に一回か二回は産まない日がある。

 中には一日に二個産む時もあるけれど、そういうのは稀で、毎日二十八個前後の卵が取れる。

 今日は被害が少なかったし、まずまずの成績というわけ。


 卵を回収して、安全な所まで移動させたら小屋の中を掃除する。

 糞を掻き出し、外へ運ぶだけの簡単なお仕事だ。

 この糞は、ただ捨てるだけではなく、肥料として一か所に集めておく。

 糞はゴミではなく、栄養。そのまま食べられるわけではないけれど、それでも利用価値はあるんだから、使えるものは使っていかないと。


 そうして、一通り鶏小屋での作業が終われば、次は牛だ。牛舎内にいる牛を家族みんなで協力して搾乳する。

 その後に仔牛にミルクをやって、牛を放牧に出したら、とりあえず朝の仕事は終わるわけだけれど、この搾乳が大変なのだ。


 ただ只管、乳を搾る。言葉にすればこれだけ。

 簡単そうだし、傍から見れば座っているだけのようにも見える。でも、実際はかなりの重労働だ。

 私自身がまだ幼い、と言ってもあと数年で成人を迎えるわけだけど、とにかく幼いというのも一つの理由ではあると思う。

 ただ、それにしても重労働なのだ。

 親指と人差し指で乳房側の乳頭、所謂乳首の付け根を抑えて、握る。

 そうすることで乳を搾りだすのだけれど、この辛さは言葉では表現できないと思う。

 実際、私は辛いのだから辛いのだ。他の皆、ロワは若干辛そうだけれど、それ以外の家族はみんな簡単そうにやっている。

 私もいつかはあんな風になりたい。


「ふ~んふふふ~ん♪」


 とにかく技術が足りない。

 握力が足りなくて筋肉痛に……、なんてことにこそならないものの、お父さんみたいに鼻歌なんて歌っている余裕なんてない。


 乳搾りは上手く行く時もあるけれど、大抵はうまく出てこない。たぶん乳が逆流しちゃってるんだと思う。

 私が担当している子も辛そうに足踏みしていし……。普通とは逆方向に乳が移動してるのだから痛いのは当然だよね。

 ごめんね、私ちゃんとうまくなるから! 痛いのは今だけだから……。


「んふっふふふ~んふふ~ん♪」

(……お父さん、その音痴な鼻歌どうにかならないの!?)


 八つ当たり気味にお父さんを睨んでみたけれど、気付いていないのか、その鼻歌が止むことはなかった。

 ロワと同じ茶色い髪に茶色い瞳。キリッとした瞳、高めの鼻、服の上からでもわかるほどの逞しい身体。

 見た目はカッコイイのに、その鼻歌さえなければなぁ……。


 これも慣れ、なのだろうか? 私には当分先の境地だと思う。

 私も鼻歌を歌えるほどの余裕ができたら、お父さんに被せて歌おう。お父さんの鼻歌が聞こえないくらいに大きく歌おう。


 搾乳機があればもっと簡単なのになぁ、なんて思うけれど、これもないものねだり。

 それに私は搾乳機の構造なんて詳しく知らない。こっちは提案する事すら出来そうにないみたいだ。


 うーん、養ってもらっている身としてはちゃんと役に立ちたいと思ってるんだけど、上手く行かない。

 朝だって寝坊するし、搾乳だってうまくできない。私の知識だって大したことはないし。


 恩返し、出来てるのかなぁ……。


 はぁ……。兎に角、今は搾乳を上手くできるようになるしかないよね!

 搾乳を始めてからあんまり経っていないし、地道に頑張っていこう。


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