プロローグ
「ハァ……ハァ……」
息を切らせながら走っていた。いや、正確には飛んでいたと表現すべきだろう。
森の中、木から木へと、枝から枝へと、舞うというよりも走るように、電光石火の如く飛ぶ者がいた。
体の線をなぞる様にピッチリとしたレザーパンツに長袖のシャツ。
シャツの上からは急所を守る様に簡単な鎧が着けられ、胸部を守っていた。
線は細く。しかし胸だけは膨らみがあり、その背格好からも、女性だということは明らかだった。
フードを被り彼女の表情を外から窺うことは誰にもできない。
そもそも、こんな状況では表情を気にするものなどいないだろうが。
フードからは白く長い髪が漏れ出ていた。
その髪を仕舞う余裕など、彼女にはなく、木から木へと、枝から枝へと飛び移るだけで精いっぱいだった。
彼女の身体は華奢で、風が吹けば飛んでしまうそうだ。
しかし、その動きは力強く、吹く風さえも切り刻んでしまうようなそんな速度で飛んでいた。
風を、空気を、抵抗を、妨げるものをすべて無視し、彼女は次から次へと枝を換えていく。
己の出しうる力をすべて使って、彼女は飛んだ。
そうしなければ、捕まってしまうから。
力にもいろいろある。
腕力、瞬発力、魔力、洞察力、視力、権力……。彼女は己の持ちうる力全てを使って逃げていた。
月明かりのほとんど届かない鬱蒼とした森。その中を決して踏み外すことなく、そして見誤ることなく枝から枝へと飛び移るのは至難の業だ。
逃げるためには追っ手を上回るスピードが必要だ。しかし、そのスピードは彼女の逃走をより困難なものへと変えていた。
ただでさえ見え辛い森の中、次に飛び移る枝を一瞬で判断しなければならない。
動きが早くなればなるほど、全力を出せば出すほど、選択の時は短くなる。
彼女はその赤い瞳を必死に凝らした。
選択は一瞬で行われなければならない。
枝から足を離せば、選択を変えることはできない。枝に着き、枝を蹴る、その刹那に彼女は決定を下さなければならなかった。
判断基準はいくつかあった。
なるべく遠くに位置していること。自分の脚力で届く位置にあること。次の枝、そのまた次の枝へと繋がる枝があること。着地の衝撃に耐えられるだけの強度があること。
これらを満たす枝を一瞬で見抜き、そこへ向けて飛び移るのだ。
そんな芸当ができるのも、彼女の経験のなせる業だった。
森の中を旅する日々。その経験が彼女に知識を与えた。
枝の強度、滑りやすさ、撓り具合。彼女の知識は、見ただけで、おおよその状態がわかる程度にはついていた。
しかし、実際に触るまでは真実を知ることは出来ず、もし見誤れば、彼女は地に落ち、逃走は失敗に終わる。
そんなプレッシャーが彼女の精神をすり減らし、余計な疲労を与えていた。
彼女自身、追われるのはこれが初めてではない。
既に、両手の指では足りないくらいに追われている。
ただし、今回は状況が少しだけ、そう、ほんの少しだけ違ったのだ。
状況は違えど、逃げるのは初めてではない。今までだって成功した。だから今回も成功すると彼女は自分に言い聞かせ、飛び続けた。
森の中、隠れてやり過ごすことも選択肢にはあった。
見えにくい位置、意識が向きにくい場所、そういうものも彼女の知識は教えてくれる。
しかし、今相手にしている追っ手にはその手を使うことができなかった。どれだけうまく隠れても、どれだけ意識を背けても、追跡者は必ず彼女を見つけた。
この暗闇をもってしても潜伏は無意味なのだと彼女は悟った。
それ故、彼女は追跡者を上回るスピードで逃げなければならなかった。
では、木々を飛び移るのではなく、その下、地面を走って逃げるのはどうだろうか。精神のすり減る一瞬の判断、その負担が少しは軽くなるのではないだろうか。
しかし、それもできない。彼女が今できる最速の移動手段が今行っている跳躍であり、地を走ることは速度を犠牲にするという事だった。
最速の手段で逃げている今でさえ、追跡者はすぐ後ろに迫っているというのに、速度を落として地面に降りるなど、以ての外だ。
それに、木の上であれば、地を走る追跡者との距離が稼げる。
地面を走る選択肢は彼女にはなかった。
「ワォオオオオン」
後方でオオカミの遠吠えが聞こえた。高く鋭い声が彼女の鼓膜を揺らし、心臓が飛び上がる。
ただでさえ早く打ち込まれる鼓動がさらに速度を上げていった。
彼女の真下よりやや後方には真っ黒なオオカミの集団がいた。
数にして六匹。真っ黒なオオカミは人の二倍はあろうかという巨体で、その額にはその毛色とは対照的な真っ白な角が生えていた。
僅かに光るその角は周りの闇と相まって何処か神秘的に見える。
ピッタリと彼女の後ろを追いかける六本の白い角。その巨躯で地面を打ち鳴らし、その存在を彼女に知らしめるよう時折遠吠えが聞こえた。
彼らと出会ってから、ここに至るまで、それはずっと続いていた。
(存在を知らしめる……?)
逃げることに必死だったが故に気付かなかった違和感。彼女はそれにようやく気付いた。
追手のオオカミと自分、その関係は狩るものと狩られる者だ。肉食獣が獲物を狩るときに似ている。しかし、決定的に違うものがそこにはあった。それが存在感だ。
果たして、獲物を狩るとき、狩人はその姿を晒すだろうか。存在感を相手に知らしめるだろうか?
答えは否だ。獲物に気付かれないよう、慎重にその姿を隠すはずだ。何故なら、その方が容易に狩りを済ますことができる。
失う体力、得られる物、その差が最も大きくなるのがその方法なのだ。
獣の狩りとは即ち食べることであり、エネルギー補給だ。
エネルギーを得るために、それ以上のエネルギーを消費してしまっては元も子もない。
狩りでも消耗を抑えることは自然の摂理だろう。
しかし、今自分を追っ手きているオオカミはどうだ? 大きな音を立て、時折叫び、そうやって自分達の存在を主張している。
それは明らかに異常だった。
彼女はさらに思案した。
一度姿を見られた狩人は己を隠すよりも獲物を狩ることに集中する。
姿を隠し、身を潜めても、獲物は待ってはくれない。その場から離れようとするだろう。今の私の様に。
今が彼らにとってその状況だろうか?
しかし、それにしても音が大きい。
追ってくる際に生じてしまう音、足音や風を切る音、葉の擦れる音など、それは仕方のないものだ。
それが出ないようにすることに力を注ぐくらいならば追いかけることに集中した方がいい。その方が効率的だ。
しかし、遠吠えはどうだ? 立てなくてもいい音なのではないだろうか。吠える意味が分からない。
わざわざ立てて自らの存在を主張するだけの理由があるのだろうか。
きっとあるはずだ。しかし、それは何だ?
考えた所で、彼女から答えが出ることはなかった。それだけの余裕が彼女にはなかったのだ。考えることがあまりにも多すぎた。
今まですり抜けられてきた逃走。しかし、今回は手こずっていた。
その理由は今までとは違う点。彼女の娘だ。彼女は赤子を抱えていたのだ。
娘に衝撃がいかないよう、娘に負担がかからないよう、逃走においては余計な気を使っていたのである。
本来であれば、彼女にとってこの程度の相手から逃げることは造作もない。一時間程度で完全に逃げ切ることができただろう。
いつもの彼女であれば、それだけの速度を容易に出せたのだ。
しかし、今は赤子を抱いているという点で両手を封じられ、赤子に負担がかからないようにという配慮によってそのスピードは激減していた。
罠などの小細工を擁する時間もなければ弓で迎撃することも出来ない。
身重のころの方がまだ動けたと彼女は思った。
出産して、自身は軽くなったというのに、できることは減ってしまっている。
はっきり言って赤子は足手纏いだ。言葉の通り、足に、手に纏わりついて動きが鈍くなる。
それでも、自分の娘というのは可愛かった。
無条件で愛し、保護する。何物にも代えがたい幸福感を齎してくれる。
娘とはそういう存在だ。
自分の母もそう思っていたのだろうかと彼女は一人考えた。
自分が困っていた時は助けてくれた。一人にして欲しいときは一人にしてくれた。悪いことをしたときは叱ってくれたし、良いことをすれば褒めてくれた。
母も自分を可愛い娘だと思ってくれていたのだろう。
まぁ、小言もそれなりに多かったが……。
『アンタはとにかく泣いた。特に夜泣きが酷かった』とはよく言われたものである。
そういった面からいえば、この娘は非常に優秀だ。夜泣きもなければ、愚図ることもない。物静かな娘だった。
今この時でさえ、娘は鳴き声一つ上げず、身じろぎ一つせず、生きているのか疑いたくなるほどだ。
他の赤子を見たことがないため、判断はできない。それでも我が子は優秀だと思うことにした。親馬鹿なのかもしれない。
(……余裕がないというのにいろいろなことを考える。これも一種の走馬灯のようなものなのだろうか)
彼女は自分の娘を置いて行く事などできなかった。
置いて行けば、彼女自身は助かるが、娘は確実に死ぬだろう。
どう隠したところで、絶対に見つかる。仮に見つからなかったとして、赤子一人で生きていけるほど世界は甘くない。
娘を生き残らせるには共に逃げきるしか方法はなかった。
(この場を乗り切るだけなら……)
できれば使いたくない手、最期の切り札が彼女にはあった。
しかし、それも時の運が大きく関わる。
娘が助かるには偶然に偶然が重ならなければならない方法だった。
娘を助ける絶対ではない方法。それでも最後の切り札だ。それを切る場所の選択は非常に重要だった。
「ワォオオオオン」
幾度目かの遠吠えが後ろから聞こえた。主人と連絡を取っているのだろう。奴らではこのスピードはついて来れまい。
話の内容さえわかれば違和感の正体もつかめるのだろうが、人間の自分には何を言っているのかさっぱりだと心の中で悪態を吐いた。
奴らは犬畜生の言葉がわかるのだろうか?
(ん?)
一瞬の違和感があったが、彼女はその違和感の正体に気付けなかった。
(そろそろ限界が近いな……)
彼女は自身の疲労がピークに達している事に気づいていた。
いつもよりスピードは出ていない。しかし、それ以上に神経を使っていたために消耗が激しい。
体力勝負に持ち込めればと、彼女ははじめ、そう考えていた。
動物の持久力は意外と少ない。生命力においては人間が敵うわけもないのだが、持久力という点においては人間に軍配が上がる。
彼女は経験からそうわかっていた。
しかし、予想以上に彼女の消耗は激しく、最大限の持久力を発揮できなかったらしい。
それでも、彼女も持久力に軍配の上がる人間だ。後を追うオオカミも疲労困憊の様だった。
それでも追うことを止めないのは命令を受けていたからに他ならないだろう。
もし彼らが野生動物であれば等の昔に諦めていたはずだ。彼女から得られるエネルギーなど、たかが知れているのだから。
声の調子、足音の乱れ、息の上がり方、直接見る余裕はなかったが、音から彼らの様子は彼女にも把握できた。
それ故、彼女はあきらめなかった。もう少し、もう少し踏ん張れば彼らは諦めるだろうと、そう考えていたのである。
両手にしっかりと赤子の重みを感じる。温もりを感じる。鼓動を感じる。
分厚い胸当てのせいで体にその温もりを感じられないのが残念だった。
彼女は胸当てが煩わしかった。こんなもの、何の役にも立たない事は明白だったからだ。
彼らの牙はこんな鎧など簡単に貫き、裂き、彼女の皮膚まで到達するだろう。
胸当てなど、唯の重りでしかなかった。
しかし、胸当てを外している時間はない。そんな余裕は何処にもないのだ。だから仕方なくつけていた。
娘の温もりを感じたいと切に願いながら。