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revoir et amour  作者: 桜 みゆき
本編
2/11

「アルメリーネ様。」

 初老の執事の声に机から顔を上げたのは、黒髪の若い美女だった。美女、アルメリーネは、持っていたペンをインク壺にさすと、暗い赤色のスカートを翻して、立ち上がった。執事がアルメリーネを呼んだ理由など、彼女はとうに分かっている。

 期待と不安の入り混じったような、そんな溜息を吐いて、アルメリーネは執事を見た。

 この十年で、彼も随分と白髪や皺が増えたものだ。

「分かっています。フェリムさんが、お帰りになるのでしょう。」

 フェリム。アルメリーネは自分の夫である彼の名を、なんとも言えぬ複雑な心境で言った。

 十年前に結婚した彼女の夫は、当時十歳。しかも、結婚式が終わると、その足で、国外へと外遊に行ってしまった。彼の父の意向で、元から決まっていたこととはいえ、少なからず、心細く感じたのを、アルメリーネは覚えていた。

 もっとも、それは昔の話で、今となっては、使用人達とも打ち解け、義父母との関係も良好。暮らしていく分には、全く何の問題も無く、それなりに穏やかに日常を送っているのだった。

「今日で、ちょうど…十年だものね。」

 フェリムが外遊を言いつけられたのは十年間。今日は二人の結婚記念日。丁度、彼が出て行った日から十年が経っていた。背中に垂らしていた豊かな黒髪をさっと束ねて、睨むように窓越しの空を見た。

「………十年って、なんて早いのかしら。」

 アルメリーネの左手には、十年前から変わらぬ美しさを保った指輪が輝いていた。

 社交デビュー間もない十五の小娘は、成熟した二十五の女性へと変貌を遂げていた。




「ここに来るのも久しぶりだな。…でも、あまり変わってないよ。」

「初めて来たが、のどかで良い所だな、フェリム。」

「当たり前だよ、ヒュー。」

 馬上の二人は朗らかに笑いながら、フェリムの故郷であり、領地である、アルドランド伯爵領を見下ろしていた。

 王都からほど近い場所にあるここは、十年前、フェリムが結婚したばかりの妻をおいて、外遊に行った時にも通った道だった。あの時に馬車に揺られ、窓越しに見つめた景色だ。ヒューはフェリムの外遊先の寄宿舎で出会った友人で、フェリムの故郷が見たいと、ついてきたのであった。

「さ、行こう。僕たちの目的地は王都だ。」

 しばらく懐かしげに領地を見ていたフェリムは馬を反転させて、ヒューを見た。ヒューは頷くとフェリムの隣についた。

「奥方はそちらに?」

「……と、聞いてる。春先ですぐに社交シーズンだから、まあ、当然だよ。」

「へぇ。」

 ヒューは、ニヤニヤと居心地悪げな表情の友人を見た。十年も放ったらかしで、季節の挨拶程度のやりとりしかしていなかった妻との再会は、気が重いのだろう。

「幼馴染っていってたじゃないか。大丈夫だろ。」

「………。」

 確かにヒューの言うとおり、以前から付き合いのあった両家で、互いに幼い頃はよく遊んでもらっていたフェリムだった。

 いっそ、全くの他人だったら……。

 フェリムは出発して以来、何度目か分からない溜息を吐いた。

 十年前は何もわからない子供だったフェリムだが、歳を重ね、彼はもう二十歳となっていた。姉のように慕っていた人が、妻として自分の帰りを待っている。どう接するべきなのかフェリムには分からなかった。

「僕は彼女がまだ、白いドレスを纏っている時分に出てきたんだ。」

「父親に出されたんだろ。」

「それでも、だよ。」

 手紙にのせられた、淡々とした文面の中にも、彼女の不安が感じ取れた。

 フェリムはそれを見てようやく、自分が彼女に何も言わず出てきてしまったことを思い出したのだった。しかし、当時の彼にとって父親の命令は絶対であり、十年間帰ってきてはならないと言いつけられていた彼は、素直にそれに従っていた。その後になって、それに反抗できるだけの自立心を手に入れた頃には、今更帰っても、という気持ちが彼を満たし、帰ることができなかった。

「……違うな。逃げてたんだ。」

 フェリムは、何であれ、彼女を置いていったことには変わりがない自分に対して、どんな態度をとるか、それがただ不安だった。

 フェリムはふうと息を吐くと、王都の方角を見た。

「まだ僕を、覚えていてくれているかな。アル……。」

 フェリムは期待と不安を胸に、妻となったはずの彼女を思った。左手には、まだ馴染まない指輪が光っていた。




 もうすぐ夕方だわ…。

 アルメリーネは少しかげってきた日を窓越しに見ながら、落ち着かなげに座っていた。予定では、彼が忘れていない限り今日につくはずだった。少し前にそういった内容の手紙がアルメリーネ宛に来ていたのだった。

 その為、彼を迎える準備に奔走していたころはよかったのだが、それもひと段落ついてしまうと、どうやって出迎えようだとか、どんな顔をしたらなどということばかり浮かんで、不安ばかりが脳裏をかすめた。

 いきなり帰ってきた方がいっそ気が楽だわ。

 アルメリーネがそうやって何度目か分からない溜息を吐いた時。

「奥様。」

 執事の静かな声にアルメリーネが振り向くと、彼の後ろに見知らぬ男が立っていた。

 誰かと聞きかけたアルメリーネはふと既視感を覚えて口を閉じた。人の持つ癖や雰囲気は、そうそう変わるものではない。

「フェリムさん……。」

 アルメリーネは十年ぶりにその名を呼んだ。




 豊かな黒髪、黒曜石のような美しい瞳は十年前と変わらない。記憶の中にある顔より、幼さが消え、大人の色気のようなものを纏ったアルメリーネはフェリムの予想をはるかに超えて美しかった。

「久しぶり、アル。」

 フェリムはそう言って微笑みながら、アルメリーネに近付いた。

 少し表情の硬いアルメリーネは、緊張しているのか、そろそろとフェリムを見た。彼女より少し高くなったその顔をアルメリーネはまじまじと見ると、すっと視線を下げて、頭も下げた。

「お帰りなさいませ。長旅お疲れ様でした。お部屋のご用意は済んでおりますが、如何なさいますか。」

 控えめを通り越して、どこかよそよそしいアルメリーネのその態度は、フェリムに少なからず衝撃を与えた。

「アル……。えっと、なら、それで。」

「はい。」

 アルメリーネはそれだけ言うと、さっさと歩き出した。フェリムは慌ててそれを追いかけ、廊下に出た。

 もちろん、女の足に追いつけないわけではなかったが、こんなに冷たい態度をされると思っていなかったフェリムは無性に焦りを感じ、慌てて彼女を引き止める。

「アル……、待って。―――アル姉さん。」

 アルメリーネはそのフェリムの声に足を止めると、ぱっと振り返った。

「私は、貴方の妻です。昔は貴方の姉の様な存在だったかも、しれませんが、いつまでもそうでは困ります。フェリムさん。」

「あ……。」

 フェリムはそうアルメリーネに言われ、はじめて自分が彼女のことを「姉さん」と呼んだことに気が付いた。

 もっとも、二人に血のつながりは無い。だが、王都の家が近く、互いの両親の仲が大変良かったため、まるで姉弟のように二人は育った。十も歳が離れた彼女をフェリムが姉のように慕ったのは自然な成り行きだった。

 そんな姉弟のような二人の関係が変わったのは、十年と少し前のこと。アルメリーネを溺愛していた、彼女の母方の祖母がこの世を去った。色々と不幸が重なった末、その家にたった一人残されたその祖母は、遺言として、アルメリーネに遺産を渡すと残した。しかし、未成年の未婚女性への相続が認められていないこの国では、猶予期間の一年の間に結婚相手を見つける必要があった。

 このまま放っておけば、祖母の残した遺産は全て国に返されてしまう。そこで手近な相手、とフェリムの名があがった。結局、両家の利害は一致し、急遽結婚。本人たちの与り知らぬところで、ことは進んでいった。

「こちらです。」

 アルメリーネはぽそっとそういうと、フェリムに目もくれず再び歩いて行ってしまった。

 フェリムは小さく、彼女に聞こえぬように溜息をついた。フェリムにはアルメリーネが自分をどう思っているのか分からなかったが、つい先頃まで自分が妻帯者であるという自覚すら薄かったフェリムに、アルメリーネの冷たい態度を責める資格はなかった。




「この部屋です。」

 双方共に黙りこくったまま、アルメリーネに従っていたフェリムは、こちらに一瞥をくれるわけでもない彼女にちらりと視線を寄越した。ドアを開ける為伸ばされたほっそりとしたその腕は、暗めの色の服とも相まって、白く浮かび上がるように見えた。

 彼女に従って、フェリムは部屋に入った。自分がかつて使っていた部屋とはもちろん違った。

「あ。」

 しかし部屋には、見覚えのある懐かしい調度品が沢山あった。ベッド、タンスから、さすがにカーテンは違ったが、それを留める紐は昔、彼の部屋で使われていたものだった。

 驚いてフェリムがアルメリーネの方を向くと、彼女はなにくわぬ顔でそっぽを向いていた。

「お気に召されましたなら幸いです。それから、お荷物は後ほど運ばせますので。……あと、私の部屋とは、そちらの扉から繋がっています。では私は…一先ず、これで。」

 アルメリーネはそれだけ言うと、さっさと部屋を後にした。廊下に繋がる方の扉から出て行った彼女を、追いかけかけたフェリムだったが、何と言って声をかければよいのかも分からず、伸ばしかけた手をそのまま下ろす。扉はぴったりと閉められ、彼を拒むようだった。

 フェリムは小さく溜息を吐くと、近くにあった椅子に座りこんだ。

 正直、これほどギクシャクするとは思っていなかった、というが本音だった。アルメリーネにどんな反応をされるか心配だと言いながら、どこかで笑顔で迎えてくれる、そう期待していたことに、フェリムは気が付いていた。

「当たり前、だよね。」

 十年も自分を放ったらかしにしていた人間に対する愛想など、とうに尽きているはずだ。

 だが、これからの長い人生を共に歩んでいくだろう人とこのままというわけにもいかない。

「何より、僕もこのままなんて…嫌だ。」

 昔のような気兼ねのない関係、とまではならなくとも、信頼しあえる関係になりたい。

 フェリムは決意を新たに、アルメリーネを想った。




「やってしまったわ……。」

 アルメリーネはフェリムの部屋を出た後、自分の部屋に入り、そのまま扉を背に座り込んでいた。

 どうしてもっと笑顔で迎えてあげられなかったのだろう。フェリムを前にした時、アルメリーネはどうした良いか、何も分からなくなって、気がつくと他人行儀な態度を取ってしまっていた。自分の動揺をフェリムに悟られたくなかった。アルメリーネにとって、本心を隠すにはそれが最善の手段のように思えたのだった。

 暫く経って、もう何度目か分からない自己嫌悪を溜息を吐いたとき、扉のノックが響いた。

 使用人の誰かだろう。アルメリーネはぼんやりと返事をした。

「失礼しま……え、お、奥様?!」

 部屋をそろりと開けた侍女は、扉の前で蹲っているアルメリーネに驚いて、思わず声を上げた。

「ベル……。」

 アルメリーネはようやく、自分以外の誰かがこの部屋にいることに気が付いたように、侍女の顔を見上げた。

 ベルはちょうど、アルメリーネがフェリムと結婚式を挙げ、アルドラント家に入ってきた十年前とほぼ同時期に、この家の新しい使用人として入ってきた侍女だった。

「何が、あったんですか?」

 アルメリーネはベルに促されるまま、ふらふらと立ち上がると近くのベッドに座り込む。彼女はベルに視線をやって、手近な椅子に座るように促した。

「もっと、優しくしよう、って決めてたの。」

 しばらく、黙ったままじっと自分の手を見つめていたアルメリーネはぽつりと言った。

「なのに……。見てた、でしょ。私、あんな、憎まれ口。」

 アルメリーネははぁと溜息を吐くと、顔を覆って、項垂れる。

 昔と変わらない態度、優しい言葉で迎えようと思っていた。でも、十年という期間は、アルメリーネにとってあまりにも長かった。昔、フェリムを弟のように思っていた頃、どういう風に接していたのか。彼を目の前にすると、何も分からなくなってしまった。

「酷い女よ、私……。十年ぶりの家で、あの子が待っていたのは、もっと、違うもの…でしょ。」

 ベルはそう言って自分を責めるアルメリーネを見ていられなかった。

 この十年間でフェリムが帰ってきたことが無いのはもちろん、手紙も季節の便りぐらいなもので、それも形式ばったものばかりだった。

「…ですが、十年も奥様を放ったらかしにしておいて、笑顔で迎えてもらえる、ということ自体、お門違いもいいところだと思います、奥様。」

「ベル……。」

 ベルの言うことも分からないではない。しかし、アルメリーネはそれに賛同することは出来そうもなかった。

 侍女であり、それ以上に友人であるベルにアルメリーネは困ったような顔で微笑んだ。

「あなたの言うことも分かるわ。でも、……これから、あの子をもっと失望させることになるのよ。もっとも、もう、知ってるかもしれないけど。」

 アルメリーネはもう一度溜息を吐くと、立ち上がった。ここで沈んでいても仕方がない。ベルもそれに倣うように慌てて立ち上がると、ちらりとアルメリーネの顔を見た。

 なんでもなかったような顔をしている彼女だったが、ふと浮かんだ悲しげな表情をベルは見逃さなかった。

 不安なんだわ…。

 もう少し経って気候が良くなれば、パーティへの招待状が山のように届く生活が始まる。アルメリーネにとって、最も気の重い季節が訪れようとしていた。




 ここ数日というものの、アルメリーネとフェリムは挨拶と最低限の会話といった、全く他人行儀な関係を保っていた。

 アルメリーネは毎夜毎夜一人で明日こそは、と決意を固めるものの、彼を目の前にすると前日と変わらぬ態度を取ってしまい、その後悔で、眠れぬ日々を送っていた。

 今日も素っ気のない挨拶だけで朝食の席に着き、アルメリーネは溜息と後悔の表情を押し殺して、目の前にあるパンを口に運んだ。

「アル。」

 いつもほとんど無言のまま終わる朝食の席で、話しかけられると思っていなかったアルメリーネは、驚きのあまりむせかけるものの、それをおくびにも出さず、平然とフェリムを見た。

 アルメリーネがフェリムに視線を合わせると、彼は少し照れるような様子ではにかんでから喋りはじめた。

「突然なんだけど、今夜の夕食に友人を招きたいんだ。構わないかな?」

「ご友人ですか……?」

 にこやかに頷いたフェリムによると、外遊先の寄宿舎で知り合った友人らしく、名のある名家の二男で、フェリムより三歳年上の二十三歳の青年ということだった。こちらへは、フェリムの帰還に合わせて、国を超えてはるばる遊びに来たらしい。こちらにいる間は王都内の宿の一室を借りて住んでおり、フェリムの帰宅から数日経ち、落ち着いてきたので一度招きたい、とのことだった。

「……そう。わかりました。料理長や侍女長には…、私から伝えておきますので。」

 今日言って今日とは、また随分と急な話だった。せめて二、三日後にしてくれたら、と思わずにはいられないアルメリーネだったが、主人の意向には逆らわないのが賢明、そう思った彼女は、ふっと息を吐いて、立ち上がった。ぼんやりしていては夕食に用意が間に合わないかもしれない。

「あ、アル。その、急すぎたかな……。ごめん、それなら、やっぱり―――」

「いえ、今夜で構いません。」

 朝食もそこそこに立ち上がったアルメリーネに、フェリムは慌てて何かを言おうとした。しかし、アルメリーネは振り返り、にこりともせずその言葉を遮った。

「それから、あなたはそこでどっしりと構えてらしたらよろしいのです。雑務は私どもが引き受けますもの。それが当主の役目でもありますわ。」

 アルメリーネはそれだけ言うと、さっさとその場を後にする。後には、ぽかんとした顔のフェリムだけが残された。




 家の料理長と侍女長に今夜の事を伝えた後、アルメリーネは自室で領地から届けられた書類に目を通していた。いたって平静といった様子だったアルメリーネだが、その書類が逆さまであることにも気付いていなかった。

 暫くすると、ようやく彼女は何も頭に入っていない事を認め、溜息を吐いて書類を机の上へと置いた。

 また、憎まれ口をたたいてしまったわ。

 アルメリーネは溜息を一つ吐くと、膝を抱えるようにして、その膝に顔を埋めた。

 先ほどのフェリムへの言い方では、まるでこの家の主人たる彼を蔑ろにしているようにも取られかねない。第一、今、アルメリーネがやっているような書類の確認や決済などは、フェリムがやらねばならない仕事であり、彼が帰還した今、彼に仕事を移行せねばならないのも、アルメリーネは理解していた。

 しかし、フェリムとの距離感が未だに掴めず、どうしたら良いか分からないアルメリーネは自室へ逃げ込む言い訳として、仕事を使い続けていた。

「私、何をやってるの……。」

 帰って来たばかりのフェリムを手助けしなければならないのに、自室に籠り、逃げてばかりの自分に、アルメリーネはほとほと嫌気がさしていた。

 だが、今は沈んでいるときではない。今日の夕方には人が来るのだから、段取りというものがある。

 アルメリーネがなんとか起き上がれるだけの気持ちの整理をして、抱えていた膝を下ろした時、不意に扉が叩かれた。

「あの、奥様……。」

 アルメリーネが部屋に入るように促すと、困った様子のベルがそろそろと部屋に入ってきた。手には薄い桃色の封筒を持っている。

「どう、いたしましょうか。」

「………。念のため、読むわ。」

 アルメリーネは封筒を受け取ると、眉間に軽くしわを寄せながら、差出人の名前が書かれていないことを確認した。こんな封筒で、名前も書かず手紙を送ってくる人間など、彼女には一人しか思い当たる人物が存在しなかった。

 アルメリーネはその封筒をぽいと机に放ると、ベルを見た。

「ありがとう。もういいわ、下がって。」

「は、はい……。」

 アルメリーネはベルに一つ微笑んで、ベルを部屋から出した。

 ベルが出て行ったあとの扉を、見るともなく見ていたアルメリーネは、そろりと机に視線を向けた。封筒を取り上げ、ペーパーナイフでそれを破ると、中からは封筒と同じ薄い桃色の便箋が出てきた。

 アルメリーネはゆっくりと、二つ折れになっている便箋を開いて中身を確かめた。

 宛名も差出人も書かれていないその便箋には、たった数行、簡潔に書かれているだけだった。アルメリーネはそのたった数行の文面をじっくりと読み返してから、その便箋を元の通り折りなおした。

「そんなこと……。」

 差出人の性格を窺わせる丁寧な字は、今のアルメリーネの心に深く入り込んだ。

 アルメリーネは便箋を封筒にしまって、それを額に押し付けるようにして、息を吐いた。

 そして、その封筒をキッと睨むように見据えて、破り裂いてくずかごへと放りこんだ。




 それからあっという間に時間が過ぎ、空に赤みが混じりだした頃、家に訪問者が現れた。

 フェリムと親しげに話す彼は、ヒューといった。挨拶を交わしたアルメリーネの手を取って自然に口付ける様は、まさに貴族社会に通ずる人物のそれだった。

 客人をもてなすためにも、二人と同席していたアルメリーネだったが、彼女も会話に入れるように自然と、かつ失礼にならぬように持っていく様子は見事としか言いようがなかった。

 その時、茶を持ったベルが静かに部屋に入ってきた。そんな彼女を見たヒューは、ふいに喋るのを止めた。

 アルメリーネとフェリムは驚いて彼の方を見る。驚愕の表情のまま、ベルを見つめていたヒューは、ベルが茶を三人分注ぎ終わり、部屋を後にしようとするのを見ると、立ち上がった。

「ベレスティア!」

 ヒューは早足でベルに近付いて、彼女の手を取ると、それを引っ張って、彼女を自分の方へ向かせた。

「……。」

 ベルは普段から愛想が良く、どんな相手に対しても笑顔を絶やさない人物だった。しかし、どうしたことか、ヒューの顔を見た途端、眉をひそめ、まるで苦虫でも噛み潰したような、表情を浮かべた。

「ベ、ベル……?」

 この十年で初めて見るベルの表情に、アルメリーネは困惑しながらも声をかける。

 アルメリーネの声にベルはちらりと笑顔を返したが、すぐにヒューを厳しい目つきで見据えた。

「私は、ベレスティアという名ではありませんわ。手を離してください。」

「そんな御託はいい。義母上や義父上がどれだけ心配しているか。何故、御二人にぐらい連絡しなかった、ベル?」

 にべもないベルの態度に動じることもなくヒューは彼女が逃げないように、しっかりと手首を掴んだままで、彼女に問いかけた。

 アルメリーネとフェリムは、完全に蚊帳の外で、固唾を飲んで二人を見守るほかない。二人には、どうも二人が知り合いらしい、ということぐらいしか分からなかった。

「……連絡?」

 ベルとヒューは睨み合うように互いの顔を見たままで、ベルは観念したのかシラを切るのをやめて、嘲るように言った。

「どこの世界に家出して、連絡する人間がいるっていうんですか、ヒュー?」

 ベルは手を強く振って彼の手を振り解くと、身体を翻して扉に近寄った。ヒューを後ろでに、立ち止まったベルはふっと息をついて、扉に手をかけた。

「それに……、本当にあの人達が私を心配してるなんて…思えないわ。」

 ベルはそれだけ言うと、扉を開けて、去り際にアルメリーネにだけ微笑んで軽く頭を下げると、部屋を後にした。

 アルメリーネとフェリムはただただ呆然とするばかりで、ヒューは険しい顔のまま、ベルの出て行った扉を見つめていた。

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