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第2話 ファーストコンタクト

「っつ、ぅ…………?」

 わずかなうめき声をあげながら、俺は閉じきられていた瞼を開いた。そうして目に入った光景は、視界一面を覆い尽くす森……ではなく、人の手で張り巡らされた、温かみのある木製の天井だった。

 ――あれ、ここどこだ?と胸中だけでつぶやきながら、俺は現状を確認するために、腹筋に力を込めてぐいと上体を起こす。

 地面と平行になった視界がまずとらえたのは、上に天井、真ん中にシックな色合いの壁紙が張られた壁、下に清潔感あふれる真っ白な布団の、三層に分かれた視界だった。そこでようやく、俺は今布団……というよりはベッドの上に居ることを理解する。先ほどまで肩から下を覆っていたらしい白い掛け布団は、俺が上体を起こした反動でぱたりと折りたたまれていた。

 内心、森じゃないことに安堵する。これがもしハリボテで、横や後ろが森のままだったらかなり鬱が入るだろうなぁ、なんて余裕たっぷりな思考を展開しながら、俺は首を回して周囲を見回した。

 どうやら、俺がいるのはどこかの家の一室らしい。シックながらも質のよさそうな壁紙や真っ白なベッド。こまごまと置いてある木製のテーブルや椅子は、そのすべてに漆が塗られているらしく、つるりとした光沢を放っている。

 天井からつるされて、部屋全体を照らしているのは、日本の家屋ではよく使われる傘付きの照明だった。白色蛍光灯よりはかなり弱い光でこそあるが、その柔らかい光は、蛍光灯の無機質に照らし続ける光とは違う、人の手による温かみを感じさせる。

 そして後ろを向けば、そこにはわずかな光源を取り入れる窓があった。ただ、差し込む日の光は上からではなく、だいぶ傾いている。加えて光の色もあかに近い朱色なので、今の時間はだいたい、日が落ちかけている夕暮れと言うべきか。

「……どうみても、人の家だよなぁ」

 ぐるりと周囲を――部屋の中を見渡した後、俺の口をついて出た言葉で、俺はふとあることに気付いた。


 すなわち、俺がどうしてここに居るのかが分からないことである。


 いや、今回は記憶をなくしたというわけじゃない。先ほどまでいた森の中のことは覚えているし、そこで赤い瞳のオオカミに追っかけまわされたこともちゃんと覚えている。にもかかわらず、どうやってここに入り込み、ベッドの中でグースカ寝こけていたのかが、おぼろげにしか思い出せないのだ。

 いったい、何がどうなって俺はここに居るのだろう。うーむと唸りながら、俺は記憶の本棚に眠っている一連の事件を、じっくりと思い出してみることにした。


***


「はぁ……はぁ……」

 ふらり、ふらりと、振り子のように揺らめく俺が酷使する脚は、ずきずきと痛みを訴えている。

 オオカミに噛まれた、というわけではない。無我夢中で走り続けたせいで、気づかぬうちに木の根や草に当たり、無数の傷を作っていたのだ。

 加えて、簡単な服しか着ていなかった俺には当然、靴みたいな高級品があるわけもない。いくらなだらかで草におおわれていると言えど、その下には土と石がまんべんなく敷き詰められているのだ。そこを裸足で走ろうものならば、大小さまざまな傷を負うのは明白。しかしそれでもなお、俺は走らなければならなかったのだ。命を狙う凶暴なオオカミから、逃げるために。

 酷使されたボロボロの足は、今にも折れてしまいそうなほどに頼りない。それに、体中に廻っていた酸素をフルに使って走り続けていた俺は、ともすればその場にぶっ倒れてしまいそうなほどの、這う這うの体だった。

 だが、俺はそれでも逃げなければならない。何故なら――オオカミたちの鳴き声が、今だぐるぐるとこだましているからということに他ならない。

 「……逃がして、くれよ。頼むって……」

 蚊の鳴くような小さな声で発された弱音は、空しく木々の間をすり抜け、薄闇の奥へ溶けていく。その一言を呟いただけで、俺の全身は空気を、空気中の酸素を求めて喘いだ。

 ――もう、動けない。だけど、動かなきゃならない。オオカミたちから逃げて、生きなきゃならない。俺には、死の瀬戸際を歩いた俺には、生きる権利があるはずなんだ。

 頭では動かなければならないと、そう理解している。だが、あいにくとボロボロになった俺の体は、脳から下った命令を素直に実行できるほど、頑強ではない。

 だが、動かなければならないのだ、俺の命がかかっているんだと、自らを鼓舞しながら、俺は歩き続けた。当ても何もない、森を覆う薄闇の中へと。









 ずきずきと痛むのは、いったいどこだろう。

 ぐらぐらと揺れるのは、どうしてだろう。

 ぼんやりと視界が擦れるのは、なぜだろう。

 俺は今、何をしているんだ?


 疑問が、すっかり鈍くなった頭の中をよぎる。が、俺はそれに気づかなかった。全身を、頭を、孤独に揺れる心を苛む痛みは、一向に収まる気配を見せない。

 がつっ、と、何かが足に当たる。それを知覚した時、すでに俺の体は草の上に横たえられていた。

 感覚らしい感覚が、すべて麻痺している。もはや今の俺は、動くこともままならない状態にあった。

「……死にたく、ないなぁ」

 最後につぶやいたのは、ただただ漠然と存在する、生への執着。

 そうして、俺の意識はぷっつりと途絶えた。



***


 ……思い返してみてわかったのは、原因不明の命の危機にあった俺が、なんらかの手段によって救出され、ここに寝かされているということだろう。となると、いくつかの疑問が生じる。

 一つは、俺を助けてくれた存在だ。こうして人の家に寝かされている以上人が助けてくれたと考えるのが妥当なのだが、俺のオタ知識の中には獣に助けられた人間というのも存在しているため、個人的にはそちらの可能性も捨てがたい。

 なにせ、俺が倒れていたのは出口さえも分からない深い森。走れど走れど一向に光が見えないあの森に、人が踏み入ることなど、おそらくはありえないはずなのだ。

 とはいえ、もしかすると俺が気付かなかっただけで、案外と人のいる村に近いところへと来ていたのかもしれない。だとしたら、それに気づかず倒れてしまったのはちょっと悔しいような気もする。

 なんにせよ、こうしてベッドの上で状況を見て、ぶつぶつと独り言を呟けているのは事実。俺が命の危機から脱しているのは、少なくとも真実なのだ。そのことに安堵して、ふと無意識にこわばっていた体を弛緩させる。

 ただ、それで問題が解決したわけではない。もう一つ、ここがどこなのかという疑問が残っているのだ。

 もっとも、その疑問はすぐに解決できる。いましがた、下がり切った日の光を取り入れることを切り上げた窓から、外を覗けばいいのだ。

「よっ……あ゛っ、いっちちちち」

 ベッドの端に身を寄せて、布団から足を出す。そうして床に着けて立ち上がろうとしたところで、不意に走った痛みに驚き、もう一度ベッドに身を預けてしまった。どうやら、走り続けたことの後遺症は相当でかいらしい。ズボンがめくれ上がって目に入った足は、幾重にも巻かれた真っ白い布に埋め尽くされていた。太さから考えて、おそらくは消毒液のしみこんだ包帯だろうか。

 この分だと、多く見積もってもあと2、3日は歩くこともままならないだろう。そんなことを考えながら大人しくベッドの中に退散すると、ほぼ同時に扉のノブが動いた。来客……というよりは、俺の様子を誰かが見に来てくれたのが妥当なところだろう。

 木の扉が軋む古めかしい音を立て、小さく開け放たれた扉の奥から部屋に顔を出したのは、シワが少し目立つ初老の男性だった。黒地に小さくあしらった金色が優雅さを引き出す燕尾服から見て、多分執事さん。

 その執事さん(仮称)が、ふと上半身を起こして自分を見ている俺に気が付いた。と同時に、にこりと破顔する。

「おや、お目覚めになりましたか。……体の方は、なんともありませんか?」

 執事さんに聞かれて、俺はとっさに頷いた。が、即座に小さく首を振る。

「……えっと、足が動かせないくらいに痛いです」

「ああ、まだ完治していないんですね。では、少々お待ちくださいませ。治療器具を持ってくるついでに、ご主人様を呼んで参ります」

 それだけ言い残すと、執事さんはまたにこりと微笑んで、どこかへと去って行った。言葉尻から察するに、多分この家の主のところだろう。

 しかし、ほんの少ししか顔を合わせていないのに、妙に印象に残る人だった。オールバックにした銀髪と、シワの目立つ顔。まさしく、俺が知るオタ知識そのままの執事さんな格好であったこと。それに加えて、どことなく愛嬌のある微笑みは、どことなく孫と対面したお爺ちゃんみたいな印象を与えてくれた。あるいは、主人の子と対面し、相手をしてあげているような、そんな感じ。

 ……もしかすると、寝込んでいる俺の世話もあの人がやっていてくれたのだろうか。そう考えて、ふと感謝の気持ちが湧いて出る。

 なにせ、彼や彼の主人からすれば、俺なんてただ倒れていただけの、ともすれば怪しい人だ。そんな奴を拾ってくれて、あまつさえこうして一室を与えてかいがいしく世話をしてくるなんて、何と人情にあふれた人たちだろうか。

 一人残された部屋で、顔も知らない主人の温かさをかみしめていると、不意に扉の開く音が部屋に響き渡った。もっとも、先ほどとは違い、ドバンッ!という乱雑な開け方ではあったが。ちょっとびっくりして飛び上がってしまう。

「気が付いたってのは本当か!おぉ、本当だ!」

 そうして入ってきたのは、執事さんとは真逆な感じの男性だった。丸太みたいに太い腕、というのは、おそらく彼のような人のことを言うんだろうとさえ思うほどに、筋骨隆々とした体躯。あまり手入れをしていないらしい茶髪はボサボサな反面、その奥に収まっている瞳はどことなく獣じみた鋭さを放っていた。もっとも、俺を見て破顔する彼からは、凶暴そうなそぶりはかけらも見受けられない。

「いやぁ、よかったよかった。魔力溜まりの中で魔物になりかけているときはどうかと思ったが、何とか人としての体を保てたみたいだな。なんにせよ、生きててよかったぜ」

 そう言って、男性はうんうんと頷く。にこにこと笑っている執事さんも隣に控えていることから、彼がこの家の主人なのだろうとあたりをつけ、俺は口を開いた。

「……あの、ここはどこなんでしょうか?それに、お二人は……」

 我ながらいきなりすぎてちょっと失礼な質問だとは思うが、現在俺が置かれている状況を確認するためだ。ちょっとくらいは許していただきたい。

「うん?あぁすまんすまん、そういえば自己紹介も何もしていなかったな」

 そう言ってへらと笑う男性は、どことなく子供っぽい瞳の色をしていた。

「俺はディーン。ディーン・グレッセルだ。こっちはウチの執事で、シリウス・バートランド」

 そう言って、ディーンと名乗った主人が笑う。同じように……もしくはディーンさんにつられるように、シリウスと紹介された執事さんも笑ってくれた。

「宜しくお願いいたします。……僭越ながら、あなた様の名前をお伺いしても?」

「あ、はい。……エイジ、って言います。たぶんこっちの言い方だと、フルネームはエイジ・クサカベです」

 シリウスさんに聞かれて、俺も名乗る。ディーンさんたちの言い方から類推するに、この世界は英語圏のように名字を後ろに置くのが一般的なようなので、俺もそうした。


 エイジ。日下部瑛司くさかべえいじ。それが、俺がおぼえている俺の名前だ。

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