07. 本当の…きもち…
車を降りた沙夜の目の前には、広大な海が広がっていた。見渡す限り障害物はなく、彼方にはきれいに水平線が見渡せる。思わずその美しい景色に魅せられてふらふらと歩き出した沙夜は、急に足元の支えが無くなってバランスを崩す。
「えっ…?」
足元に目を移し、沙夜は自分が海に面した崖の淵に立っていたという事に気付いた。高さが優に10m以上はあるような崖の上。踏み外した右足につられるように、体全体が海に向かって斜めに落ちていく。「う、そ…」。自分の置かれている状況が飲み込めず、恐怖も驚きも感じる間もなくゆっくりと海に落下していく沙夜。だが、気付いた時には釈に腕をつかまれ、優しく崖の上に戻されていた。釈はなんでもないという風に、にっこりと笑いかける。
「お足元に、お気をつけ下さい」
「え…?いや、え、ええええ?!」
だんだん今起きたことを理解する沙夜。遅れてやってきた恐怖に、崩れ落ちるように地面に座り込む。体中が振るえながらも、這うようにして大急ぎで崖から離れる。荒くなった呼吸はなかなか収まらない。
「どどどどど、どこ、ここぉー!」
「お嬢様は何か特別な事があった時や、何か大事な事を考えられたい時などに、こちらによくいらっしゃいます」
そこは、まるで2時間サスペンスの最後に犯人と刑事が行き着くような、見事な断崖絶壁だった。さっきまで木々に囲まれた山奥の学園にいた沙夜には、いつのまにこんな絶景のみえる崖まで連れてこられたのか想像もつかない。車のガラスは真っ黒に塗られていたため、車内からは外が全く見えなかったのだ。
てかさっき死にかけたんですけどぉ……。恐怖のあまり、逆に笑えてきた沙夜。すっかり当初の目的を忘れてしまっていたが、優しく笑みを浮かべたまま「よろしくお願いします」と言う釈をみて、少しだけ冷静さを取り戻す事ができた。釈が右腕全体で上品に指し示す先には、まるで公園のベンチのように崖の淵に腰掛ける蘭子の姿があった。
「…は、『犯人…』いや、『判事をしています』、『楽しい南の島のバカンスになればよいのですが…』、『バカンスになればよいのですが…』、『よいのですが…』、…
あら、釈さん?まだ迎えの時間には早くって……あ」
足音に気づいて振り向いた蘭子は、沙夜をみて驚く。
「あ、あーら、誰かと思いましたら黒星さんじゃありませんこと!こんな場所で会うなんて奇遇ですわね!」
いやこんな場所で偶然会うとかありえないでしょ…。
「鳳さん。本当に演劇部、やめちゃうの?」
沙夜は蘭子をしっかりと見つめ、一言一言を区切るように慎重に言った。
「…ええ、本当ですわ。だってそうでしょう?もともとあのような地味な場所はワタクシには不釣合いだったのですわ。平良部長も琢己副部長も、ワタクシという一輪のバラをタンポポの束の中に混ぜることに抵抗がありましたようでしたし、ワタクシがやめて喜んでらしたでしょう?おーほほほー!」
「…いいの?鳳さんはそれでいいの?わたしには鳳さん、まだ演劇部にいたいって思ってる風にみえるよ…」
「いやだわご冗談でしょう?まったく、どなたがそんなことおっしゃったの?そんなわけありませんですわ!おーほほほー」
蘭子の高笑いはなんだかわざとらしい。沙夜には背を向けたまま、一切目を合わせようとしない。
「ホントに?」
「ええ、うそではありませんわ。先ほど部室でも言いましたでしょう?ワタクシが誰かを演じるなんて、そもそも不可能ですのよ!おーほっ…」
「ホントに…?」
蘭子は高笑いを途中で邪魔されて、肩透かしを食らった形になる。
「…っつ、もちろん本当ですわ。だいたい、ワタクシは最初から演劇部なんてやりたくなかったんですのよ。それを無理やり…」
「ホントに?」
静かに、しかし力強く沙夜は質問する。答える蘭子の声はだんだん大きくなる。
「だから、本当だと言っているでしょう?何度も同じ事を言わせないでいただけますかしら?ワタクシ、あの倶楽部にはほとほと嫌気が…」
「ホントに本当?」
蘭子はいらいらした様子で立ち上がり、振り返って沙夜を睨みつける。
「…だ!か!ら!本当に!本当ですわ!…さっき、黒星さんもみていたでしょう?ワタクシには、あんな庶民の役は、どうやったって!できないと…」声を荒げながら蘭子は沙夜ににじみよる。その声に合わせて、顔の前でぴんと立てている人差し指を激しく動かす。
「本当にそれが本心?」
「あなたねっ!いい加減に……ひゃっ!」
沙夜は両手で、激しく動いていた蘭子の人差し指を右手ごと握り締める。びっくりした蘭子はおかしな声を上げてしまう。
「じゃあ、なんでそんなに一生懸命練習してるの?釈さんから聞いたよ。今まで劇の練習すごいがんばってたって。家に帰ってからも練習してたんでしょう?それに、さっきのだって、今日の自分の台詞だよね?部活辞めるのに、どうしてまた練習してたの?ほんとはやめたくないんじゃないの…?」
沙夜は簡単に釈との約束を破った。
「釈さん、余計なことを…」
「本当に辞めたいって言うなら、別にとめたりしないから…。鳳さんの好きなようにすればいいと思う。だからわたしには本当のことを教えて…。本当の気持ちを…」
「本当の…きもち…」
沙夜と向かい合う蘭子の髪を、風が優しくなでる。金髪の縦ロールがスプリングのように伸びて、また縮む。絶壁に当たっては砕ける波の音が、一定のリズムで聞こえる。蘭子はうつむく。西日に照らされて陰影が強調された蘭子の姿は、まるで映画のワンシーンのようだ、と沙夜は思った。その表情は悲しそうに、さびしそうに、何かを諦めたような表情だった。
「ワタクシは別に演劇ですとか…。興味なんてないのですわ…」沙夜の真剣な視線に耐えられなかったように、蘭子はぽつぽつと喋り始めた。その声は、波の音にかき消されそうなほど小さい。「ただ、うれしかったのですわ…」
「うれしかった…?」
「…ワタクシが演劇部へ入部を決めた日、先輩方も、平良部長も、みなさんとても喜んでくれましたわ…。歓迎してくれて、優しくしてくれましたわ。ワタクシは、それがとてもうれしかったのですわ………誰かに必要とされているという事が…」
部員数が少ない演劇部ならそれはそうだろう。あまりに部員が少ないようでは部としての存続にかかわる。新入部員は大歓迎だったはずだ。
「ただ、それはすぐに幻滅に変わりましたわ。それはそうでしょうね。ワタクシは、なんていうか、その、演技に対してのモチベーションがない、というか…、演技の練習に時間を割くような暇が、ありませんでしたもので…」
うそだ。
「…先輩方が期待するような役割を担うことが出来かねましたの」蘭子は微笑む。「でもダメですわね…一度誰かに必要されてしまうと…。もっと、そしてずっと、と…期待されたいと思ってしまう。そんな卑しい感情がワタクシのなかにもあるのですわ…。ワタクシのように人の上に立つ人間は、もっと毅然と構えていなければ参りませんのに…誰からも、必要とされなくても…」
蘭子は遠くを見つめる。少しの沈黙の後、蘭子は小さく頭を振る。
「ふふ…、ワタクシにはこういうのは似合いませんわね……いろいろ考え過ぎてしまったようですわ。もう大丈夫。もう行きましょう…。釈さんをお待たせしてもいけませんし…」その時の蘭子は、出来すぎなくらいに上品で、おしとやかで、本当にお嬢様のようだった。「黒星さんにも迷惑をおかけしましたわね……こんなところまで来てくれてありがとう。…黒星さんでしたらきっと、演劇部の皆さんの期待にもこたえられますわ…」
蘭子はかすかに首を傾げて、せつなそうに笑う。沙夜もニコッと笑い返した。蘭子は自分の手を、沙夜の両手からゆっくりと引き抜こうとする。
「だめ」
「へ…?」
「そんなの、だ、め」
笑顔のまま沙夜は言う。断言する。あまりにも唐突に、ざっくりと切り捨てるように言われたので、蘭子はせっかく作った決め顔が崩れて間の抜けた表情になる。沙夜の手は、痛いくらいに蘭子の手を握ったまま一向に離そうとしない。
「鳳さんが我慢して、鳳さんの気持ち無かった事にして、それでめでたしめでたし、なんて……そんなのだめに決まってるじゃん」当たり前だ、という表情の沙夜。蘭子は目を丸くして、とにかくなんとか手を引き抜こうとしている。「だってそれって、鳳さんは我慢してるじゃん。鳳さんだけは、やな思いしてるんじゃん。みんなが幸せ、じゃないんだよ。苦しんで泣いてる人がいるんだよ。めでたしなんかじゃない。そんなの全然だめ。納得いかない」
「いやワタクシ、苦しんで泣いてなんていませんわ…」
なぜ沙夜が納得いかないのか?蘭子はわけが分からず混乱してしまう。それでも沙夜の手の力が弱まった瞬間を狙って、蘭子は自分の手を引き抜いた。だが沙夜の手は今度は蘭子の肩をつかみ、蘭子の体ごと引き寄せる。2人の顔は今にもくっつきそうなほど近づく。
「あ、ああ、あの…く、くろほひさん…?」
強引な沙夜の行動に蘭子はうろたえる。自分でやっておいて、沙夜の顔も赤くなる。
「それじゃ鳳さん…ずっと我慢する事になるよ?…ずっとやな思いするよ?そんなの嫌…でしょ?…てか、わたしがやなの。そんな鳳さん、見てられない」
蘭子は気まずそうに目をそらす。
「あなたにはわかりませんわ…。庶民のあなたにワタクシの気持ちなんて…」
「分かるよ」目をそられても、沙夜はしっかりと蘭子を見つめている。「…いや、確かにわたしは庶民だしお嬢様じゃないけど…。さっき、鳳さんが言ってくれたから、気持ち教えてくれたから、だから想像する事はできる…。悲しんでるんじゃないかなって、わたしにできること無いかなって思うことはできるよ。だから鳳さんの気持ち、…分かんないけど…分かるよ!」
「あなた、めちゃくちゃだわ…!」
蘭子が吐き捨てるように言う。彼女の肩は少し震えていた。水平線に沈みかけている夕日が蘭子を赤く照らす。瞳に反射する光が美しく揺らめく。
「…このまま部活辞めるなんて、悔しいじゃん。鳳さんのこと誤解されたままだなんて…。いっぱい練習して、すっごい演技上手になって、部長さんも、みんなも見返してやろうよ……鳳さんにあんな事言ったの、後悔させちゃおうよ!」蘭子は沙夜を見る。沙夜も蘭子の瞳をみている。2人は見つめあい、お互いの瞳に写る自分自身を見ていた。「わたしだって、うれしかったんだよ…。昨日、鳳さんに演劇部誘ってもらってうれしかったんだ…。『演劇部にようこそ!』って言ってくれて…、『歓迎します』って言ってくれて、…うれしかったよ。だから、鳳さんの事、分かるんだよ…」
少しの間、2人は無言で見つめあっていた。崖の上に吹く風がだんだん強くなってきたが、間近でお互いの体温を感じあっていたので、2人は肌寒さを感じなかった。
「…ワタクシがみなさんの期待にこたえられるようになると、そう、おっしゃるの?」
沙夜はちょっとばつが悪そうににやける。
「いや、…すぐには、その、無理かもしれないけど…。鳳さんは練習がんばってるし、そのまま続ければいつかはって…。うん、先輩たちだって、その、気持ち伝えれば、きっと手伝ってくれると思うし…」
急にどもる沙夜をみて、耐え切れなくなった蘭子は吹き出した。
「あっはははは…そこは即答してくれませんのね…」
「だぁーってぇ…」
沙夜もつられて笑い出す。2人は声をそろえて笑いあった。その時の蘭子の笑顔は、沙夜がそれまでに見たどんな蘭子よりも、自然で、可愛いらしかった。
急に蘭子は沙夜の手をするりと抜けて、釈の待つリムジンへと歩き出した。
「…おーほっほっほ!庶民の娯楽とはいえ、いや庶民の娯楽だからこそかしら、ワタクシのような華が必要不可欠というわけですわね!まったく、仕様がありませんわね庶民というものは!それでもそんな庶民のわがままに応えられないほどこの鳳蘭子、狭い器ではなくってよ!よろしくてよ!よろしくってよ!」
「ちょっ鳳さん、またそういう…」
沙夜があきれながら追いかける。蘭子が急に立ち止まって、背中を向けたまま言った。
「黒星さん!ワタクシ、最初に言ったはずですわよ。ワタクシのことは蘭子、と呼べと!
同じ事を何度もいわせないでいただけるかしら!ワタクシ、同じ事を何度も言うような、そんな無駄な事を好む趣味はなくってよ!」
「…はは。もぉ、わかったよぉ。素直じゃないなぁー…蘭子はー、じゃあわたしのことも沙夜って呼んでよねぇ!」
沙夜が蘭子の顔を覗き込むと、逃げるように蘭子はすぐにまた歩き出した。沙夜は笑う。去り際に一瞬見えた蘭子の顔は、夕日に照らされた茜色よりも真っ赤だった。
「沙夜!これでワタクシたち、友人、ということでよろしいですわね?」
「いまさらなにー?蘭子が昨日わたしを演劇部に誘ってくれたときから、わたしたちとっくに友達でしょ?むしろもう親友?なーんて…」
蘭子は独り言のようにつぶやく。
「…ふふ、よろしくてよ…。よろしくってよ…。でしたら…、その…、今日のこと、その…『ありがとう』なんて言いませんわよ。友人というものは、お互いいちいち感謝を言い合ったりはしないものなのですわ!そんなこと、言葉で言わなくても心で通じるものなのですのよ!おーほっほっほー!」
「ごめん、ちょっと風が強くて聞こえなかった」
「いや、だから…、ありがとう…って言わない、って…」
「えっ、なにわかんない。あり…なに?もう一回言って?」
「…イヤですわ。感じ取りなさい!」
「庶民にはお嬢様の気持ちはわからないなー」
沙夜はにやにや笑っている。
「沙夜!あなたわざと言ってますわね!」
水平線の向こうに夕日が沈んでいく。赤くそまる崖に、追いかけっこをする2人の影が長く長く伸びていた。