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お嬢様 must go on!  作者: 紙月三角
第1幕 読み合わせ
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06. お嬢様は黒星様のことをお気に入りになられたのでしょう

 部室を出た沙夜はあたりを見回すが、すでに蘭子の姿は見えない。とりあえず部室棟の外に出るため、1階のエントランスに向かって部室近くの下り階段を数段抜かしで駆け下りた。


 どうして、あんな事言ってしまったのだろう…。少しずつ興奮がさめてくると、沙夜はさっきの自分の言動を悔やまずにはいられなかった。ただ、衿花たちから誤解されている蘭子を放っておくことができなかったのだ。…にしても、昨日会ったばかりの部長さんにあんな言い方はまずかったかな…。勢いで自分まで演劇部辞めちゃったし…。深く考え出すと恥ずかしさで死にたくなりそうだったので、今は蘭子を追うことに専念することにした。

 沙夜が息を切らしながら部室棟のエントランスを出たところで、近くの駐車場から1台のワゴンRが走り去っていくのが見えた。「ホントだったんだ…」必死に追いかけようとしたが、ワゴンRはすぐに見えなくなってしまう。沙夜は肩を落としてへなへなと座り込んだ。

「鳳さん…」

 沙夜は、蘭子が部室を去るときの表情を思い出して、胸が苦しくなるのを感じた。




「黒星様でいらっしゃいますね?」

 そのとき突然、背後から沙夜に話しかける声があった。全く予期してなった沙夜は、驚きのあまり小動物のようにビクっと飛び上がった。

「えっ?!えっ、はい!」

 沙夜が振り返ると、そこには真っ白なひげを蓄えた1人の老紳士が立っていた。清潔感のある短く切りそろえられた髪も真っ白で、年はゆうに還暦を越えていそうだったが、背筋がぴんと張っていて全くくたびれた印象を与えない。真っ白なワイシャツの上に黒地に銀の細いボーダーの入ったベスト、きりっと引き締まった顔つきが全てを物語っているようだった。

「私、鳳様の下で執事をさせて頂いております、釈と申します」


 この学園なら、誰かの家の執事が来ることもそう珍しくはないのだろうか。近くの陸上トラックで練習をしている運動部や、2人の横を通り過ぎていく帰宅部の生徒たちには、釈のことを気に留めているような素振りは見られなかった。

「あっ、黒星沙夜、です。鳳さんとはクラスメイト…てかクラスは違うんですけど…」

「存じております。昨夜お嬢様からたくさんお話をお聞かせいただきましたので」

「えっわたしの話!?…ですか。しかも、た、たくさん…」

 沙夜はなんだか恥ずかしくなる。どんな話をしたのか気になって、少し頬を赤らめる。

「お嬢様がご学友のことをあんなに楽しそうにお話しになるお姿を見たのは、私がお嬢様のお世話をさせて頂くようになってから、はじめてのことでございます。それほど、お嬢様は黒星様のことをお気に入りになられたのでしょう」

「…光栄です」

 沙夜は照れ隠しで頭を下げる。

「そのような事情がございまして、ご無礼を承知で、黒星様にお願いをさせて頂きたい事がございます」

「え、お願い…って」

「これは鳳家…いえ、私個人から黒星様への勝手なお願いです。お嬢様は一切関与されておりません。その点につきましてはご理解願います」

 そう言って、釈は胸ポケットから白い封筒を取り出す。その封筒には達筆な草書体で『退部届』と書かれていた。

「先ほどお嬢様から、演劇部の顧問に提出するようにと、こちらの封書をお預かり致しました。すなわち、お嬢様は演劇部をお辞めになるお考えだと言う事でございます」

 蘭子に退部の意思があることはさっき蘭子が自分で言っていたが、それでもその退部届をみて沙夜は驚いた。蘭子が部室を飛び出してから今までの間に、それほど多くの時間は経っていない。少なくとも、こんな立派な退部届を書き上げるような時間は無かったはずだ。蘭子はもしかしたら、あらかじめ退部届を用意していたのかもしれない。辞めるタイミングを、今までずっと探していたのかもしれない…。

「ただ私どもとしましては、お嬢様には演劇部をお続けいただきたい、お辞めにならないで頂きたい、と考えております。お願いというのは他でもありません。これから黒星様をお嬢様の元へお連れいたしますので、お嬢様にお気持ちを変えていただくよう説得して頂きたい、ということなのでございます」



 5分後、沙夜は釈の運転するリムジンの後部座席に座っていた。やたら広く取られたスペースも、フカフカの座席のクッションも、はじめてリムジンに乗った沙夜にとっては、逆に気になって落ち着かない。座席にはテレビに電話、まさか蘭子が通学中に飲んでいるわけではないだろうが、ワインセラーまで備えつけられている。まるで自分が触ったら価値が下がってしまうとでも言うように、沙夜はそれらになるべく触れないように小さくなっていた。

「ご協力まことにありがとうございます」

 運転席と後部座席部分は壁で仕切られているため釈の姿は見えないが、どこかにあるのだろうスピーカーを通して声が聞こえる。姿が直接見えないせいか、沙夜はちょっと強気になって気になっていたことを聞く。

「どうして、その、鳳さんに演劇部を続けてもらいたいって…思ったんですか…?」

 スピーカーと同じようにどこかにマイクもあるのだろう、釈にも沙夜の声が届いたようだ。


「…私が黒星様にお話したということは、どうかお嬢様にはお伝えいただかないようにお願いします…」

 声だけで、釈の思いつめた様子が伝わってくる。

「…演劇部にご入部されるまで、お嬢様にとっての学園とはただ学業を修めるだけの場所でございました。ご学友と寄り道などもされませんので、授業が終わりましたらすぐに私どもをお呼びいただいて、ご自宅にお帰りになられておりました」

 沙夜は、蘭子の事をまるで腫れ物のように特別扱いしていたクラスメイトの事を思い出していた。彼女はクラスで、いやもしかしたら学園内でも、孤立していたのかもしれない…。

「去年の今頃になりますでしょうか。演劇部に入られてから、お嬢様は変わられました。遅くまで学園にお残りになって、部員皆様と舞台の練習をされ、ご自宅にお帰りになられてからもお一人で、時には私どもがお相手をさせて頂いて、何度も何度も練習をされておりました。お嬢様はとても生き生きとされるようになり、私どもとしましても、そのようにされているお嬢様のお姿を見るのが楽しみになっておりました」壁を挟んでいるのにその笑顔が浮かんでくるような明朗な調子で語る釈。「昨年の文化祭、そして今年の新入生の歓迎会でも、私どもは陰ながらお嬢様が舞台に立たれているお姿を拝見させて頂きました」

 ちょっと間が空いた。

「…正直申しまして、演劇という分野がお嬢様に最もふさわしいと思っているわけでは、ございません」

 でしょーね…。文化祭と新入生歓迎会での蘭子の演技が壊滅的だっただろう事は、読み合わせでの蘭子の様子を見た沙夜には容易に想像できた。

「それでもお嬢様が演劇部を…、お好きなのは常にお側に居させて頂いた私どもにはわかります。…きっとお嬢様のようなお年の頃には、そういった『なにか熱中できるもの』というものがどうしても必要なのでございます。私どもとしましては、それが可能な間は、できるだけお嬢様のお好きなようにしていただきたい…」

 そこでまた釈は止まる。そして言いづらそうに「…どうかお気を悪くされないでいただきたいのですが…」と前置きし、続けた。

「お嬢様と黒星様では、その人生に宿命付けられたものが大きく違います。…黒星様や、他のいわゆる『普通』の家庭にお生まれになった方々というのは、その方のお好きなように、どのような人生を送られてもそれはその方の自由です。黒星様がこの学園に転入されてこられた事自体、その自由の証というものでしょう。…ですが、蘭子お嬢様は、違います。蘭子お嬢様は、蘭子お嬢様の運命というものは、この世にその命を受けた時から『鳳』という大きな流れの中にのみ存在します。生まれてから現在まで、そして現在からこの学園を卒業した後もずっと、お嬢様の人生は鳳家という強固なレールの上を歩むしかないのです。お嬢様は、蘭子様である前に、鳳家のご令嬢なのでございます…」

 感情が乗りすぎてしまったことを少し反省したように、釈は1回咳き込んだ。

「…どちらが良い、悪い、と言う話ではございません……ただ…お嬢様には遠くない将来、否応なく鳳家という大きな責任を背負わなくてはならないときが参ります。私どもとしましては…せめて今だけは、お嬢様に限りある自由を、学園生活を、楽しんで頂きたいのでございます…。たとえそれで、黒星様にご迷惑をおかけすることになったとしても……」

 本当に沙夜にすまないと思っているのか、さっきまでと比べると釈の口調はいくらか歯切れがわるい。

「そんな、迷惑だなんて。わたしこそ鳳さんと話したいと思ってたんです。連れてきてくれてありがとうございます!」

「…感謝など…していただく必要はございません」


 なんだか気まずい沈黙がつづく。我慢できなくなった沙夜が明るくきりだした。

「あっ、そういえばさっきの話し聞いて気になったんですけど。なんで鳳さんって演劇部入ったんですか?しかも去年の今頃って言いました?…わたしが言うのもアレですけど、ちょっと時期的に中途半端ですよねぇ、はははー」

 釈は答えない。

「別に演技が得意ってわけでも無さそうだしぃ、なーんて!…ってあれ…?釈さん?聞こえてます?…もしもぉーし?」

「お待たせいたしました黒星様。どうぞお降り下さい」

 ゆっくりと沙夜の隣のドアが開いた。その先には、すでに車から降りた釈が手を伸ばして待っていた。あまりに丁寧な運転で、沙夜には車が止まったのが気づかなかったのだ。釈は沙夜の手をとり、車を下りるのを手伝ってくれる。ただ、聞こえていなかったのだろうか、最後の沙夜の質問に釈が答えることはなかった。

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